「北」か「比」か 2002/ 8/22 23:58
メッセージ: 845 / 1101
 
どちらでもありません。「隋書」の「北」は「土ヒ」です。。

もちろん、文脈の中で「北」と理解出来るところを「比」と誤ることは少ないでしょうが、東夷の人名です。

それと、他の史書がほとんど「比」に作ることはすでに他の方によって紹介されていますが、

>「北」を「比」に改定する根拠も

という認識では、「文字の異同」についての理解は進まないのではないかと思います。

「北」とあるものを「比」と読む、のではないのです。現在残されている各種の文面では「北」と「比」とに分かれているが、オリジナルはどうだったのか?ということを考察する(校勘)してからでないと、「タリシヒコ」だ、いや「タリシホコ」だなんて言う議論は始まらないのです

「イ妥」=「倭」 2002/ 8/16 15:53
メッセージ: 665 / 1101
 
殿、わたくしから少々・・・

「南史」に「倭国其先所出及所在事詳北史・・・」と見えて、「魏志」や「宋書」の記事をほとんどそのまま引用しています。ところが「北史」には「隋書」の「イ妥」字が用いられていますね。

「南史」「北史」ともに唐の「李延寿」の撰で、「隋書」よりやや遅れて、おおよそ650年から683年の間に成ったとされます。

「南史」「北史」ともに同一人の撰で、しかもその本文に「倭国其先所出及所在事詳北史・・・」とあることから、「南史」の「倭国」と「北史」の「イ妥国」が同じ国のことであることは論を待ちません。

ほぼ同時期に成立した「梁書」「晋書」「翰苑」もみな「倭」とありますから、「南史」「北史」の成立した時代、唐の史家の間で「倭」と「イ妥」が「別物であった」という認識があったとは認められません。

しからば、何故「隋書」には「イ妥」とあるのか?以下、つづく。

「イ妥」=「倭」A 2002/ 8/16 16:14
メッセージ: 666 / 1101
 
しからば、何故「隋書」には「イ妥」とあるのか?

そのヒントは「太平御覧」にあります。

「太平御覧巻第七百八十二・四夷部三・東夷三・イ妥」に「イ妥」として、以下のようにあります。則ち、

「後漢書曰イ妥在韓東南大海中依山島為・・・」
「魏志曰倭国在帯方東南大海中依山島為・・・」
「南史曰倭国風俗・・・」
「北史曰隋開皇二十年倭王・・・」


いかがでしょうか?まず、「李延寿」が「北史」で「イ妥」としたのは、引用した「隋書」が「イ妥」とあったからと考えられます。ところが、「太平御覧」ではその「北史」も「倭国」なんです。

一方、多くの史書に引用されている「後漢書」が、この「太平御覧」では「イ妥」となっています。これはどう考えればいいのでしょうか?

「後漢書」の「イ妥」は、この「太平御覧」引用のものを除いて私の知るかぎり出てきません。「翰苑所引後漢書」「通典」「唐類函引用通典」「通志」「文献通考引用後漢書」もすべて、「倭」です。(つづく)

「イ妥」=「倭」B 2002/ 8/16 16:32
メッセージ: 667 / 1101
 
「太平御覧引用後漢書」に「イ妥」とあって、「太平御覧引用北史」に「倭」とあるのはなぜか?

まず「後漢書」のほうから考えてみます。「范曄」のオリジナルが「倭」だったことは、まずどなたにも異論がないと思います。それがなぜ「太平御覧引用後漢書」では「イ妥」となっているか?「太平御覧」編纂時にテキストに「倭」とあったものを「イ妥」と改めたのか?これは全く理由がありません。「イ妥」とあったものを、他の史書に合わせて「倭」としたというなら、一理あるでしょうが。

理由は一つです。テキストに「イ妥」とあったからにほかなりません。つまり、「太平御覧」成立の北宋時点で「倭」を「イ妥」に作る「後漢書」のテキストを以て「巻七百八十二・東夷三・イ妥」は書かれた。引用した最初の「後漢書」の「イ妥」をもって、タイトルの「イ妥」とした。

なお、追記しておきますが、同じ「太平御覧」に引用された「後漢書」の「韓」の項には、「南與倭接」とか「其南界近倭」とあって「イ妥」ではなく「倭」が用いられています。(つづく)

「イ妥」=「倭」C 2002/ 8/16 16:49
メッセージ: 668 / 1101
 
そうすると、「北史」の「イ妥」と「太平御覧引用北史」の「倭」とは、どのような説明をすればよいのか?

ここで、大胆な推理をしなくてはなりません。それは「隋書」のオリジナルが、果たして「イ妥」であったかということです。相当無茶な発想のような気がしますが、これまで述べてきた事実から、そう言う疑いが発せられるのは当然とは言えないでしょうか?

「南史」における「李延寿」の記述を見ても、「イ妥」と「倭」を書き分けているという「意識」が感じられないのです。

「三国志」の場合、刊本の由来がいろいろ論じられていますが、「隋書」の場合は、そのことについて論考を目にする機会に恵まれません。「百衲本隋書」について言えば「元大徳九路刊本」を底本としており、「三国志」の「紹興本」「紹煕本」より、なお百年ほどあとに成立したようです。(つづく)

「イ妥」=「倭」D 2002/ 8/16 17:11
メッセージ: 670 / 1101
 
「北宋」から「南宋」にかけての各種典籍の刊行の際に「隋書」も含まれたかどうかは、私の未だ知り得ないところですが、校訂作業では同様のことが行われたのでしょうから、このときに各種異本が収集されたのでしょう。

このときに用いられた底本が「太平御覧」に引用され、「倭」を「イ妥」とする、「後漢書」の系統の異本であったのではないか?という推定をするのです。

「北宋」十世紀末、「太平御覧」が編纂されたときに使われた「隋書」「北史」と、「元大徳刊本」の底本とされた「隋書」「北史」とは、「別系統」のものではなかったのか?ということです。

すなわち、「太平御覧引用後漢書」と「元大徳刊本底本隋書・北史」とは、同じ系統の本であり、その本の特徴として「倭国」の「倭」を「イ妥」と作ったのではないかと推定するのです。

「イ妥」=「倭」E 2002/ 8/16 17:25
メッセージ: 671 / 1101
 
以上、縷々述べてきましたが、一つ注意しなければ成らない点があります。それは、「太平御覧引用後漢書」の「イ妥王居邪馬臺国」です。これは、通考本「後漢書」の「其大倭王居邪馬臺国」に相当する部分です。

「イ妥王」は「大倭王」に相当するものと見られますから、「大倭=イ妥」とも考えられます。また、ただ単に「大」の字が抜け落ちただけだとも考えられます。前者だとしたら、古田氏の着眼がこの部分では当たっているのかも知れません。

しかし、それはあくまで「用字上」の問題であり、これまで述べてきたように、「倭」と「イ妥」とが「別々のもの」を表していると見なすことは到底できないことだと言えます。(つづく)

「イ妥」=「倭」F 2002/ 8/16 17:40
メッセージ: 672 / 1101
 
さて、このことは「古田説」と密接に関係します。古田氏も既にこのことは「邪馬壹国の資料批判」(「邪馬臺国の常識」昭和49年・毎日新聞社所収)の中で以上ほとんどの事例を引いて論ぜられています。

ところが、古田氏の言や、すべて「書き直し」で説明しようとするのです。すなわち、「太平御覧引用後漢書」の「イ妥」について、

これは要するに「太平御覧」の著者の判断で、「後漢書」に対する判定として先のような私の場合とは違った判定をしたわけです。つまり一・二世紀に「イ妥」と呼ばれたと判断したのです。

以後、「太平御覧引用北史」の「倭」についても

その部分を全部「倭」に直して書いてあるわけです。・・・古くは「イ妥」、後に「倭」になったんだ、という立場からご丁寧にも原文の「倭」をいちいち「イ妥」に直したり、「イ妥」を「倭」に直したりして書いているのです。

これだけ読んでも、古田氏の解釈が苦しいことがおわかりになると思いますが、それより何より、「李延寿」はなんと言っているか?

「倭国其先所出及所在詳北史」

古田氏流にこれを名付ければ「李延寿の明証」とでも言えましょうか?

「書き直した」とか「昔は倭・・・今はイ妥」なんて言うのが、まったく説得力の無いことが容易に理解されるというものでしょう。

「イ妥」=「倭」G 2002/ 8/16 18:00
メッセージ: 673 / 1101
 
続いて、同じ「邪馬壹国の資料批判」の中で、古田氏は「壹=倭」、「臺=大倭」と述べられています。このことについては、既にこのトピでしたか、他のトピでしたかで、論ぜられておりましたので、触れませんが、いわゆる「臺与」について述べられたところをご紹介することにします。

「太平御覧」に引用されている「魏志」に見える「臺擧」について、以下のように述べられます。

「壹與」というのは、ちょっと名前としておかしい・・・「壹」はおそらく「臺」だろう、そして「臺與」もおかしい、「與」は「擧」の間違いだろう、「臺擧」なら一応われわれのセンスとして人名でいい、こういうことで、「臺擧」になおしているわけですね。

また、「通典」にみえる「壹輿」については、

「壹」を「臺」に直すのは先ほど申しましたように結構なんですけれども、「與」を「輿」という字で書き直したのは人名として「臺與」では少し貧弱である、ということで書き直したわけでしょう。

おわかりでしょうか?古田氏の言われる「おかしい」「センス」「貧弱」とは何なんでしょうか?

「書き直した」「書き直した」・・・。

「壹」と「臺」が誤写されうるほどには似ていない、という基本命題から出発した古田説の正体がこれです。

なんのことはない。「臺」は「壹」と、「倭」は「イ妥」と「書き直された」と考えれば、多くの問題がスンナリと解決するのではないでしょうか?ただ、その「書き直し」の時期がいつであったのか?次なる問題とはなりますが・・・。

古田説批判を始めると、どんどん広がってゆきますので、今回はここまでで、いったん休止と致します。

>思う壺 2002/ 8/19 23:22
メッセージ: 738 / 1101
 
で思い出した話を一つ。

「壺」の話です。「歴史と人物」昭和50年9月号に、藪田嘉一郎氏(故人)の「『邪馬台国』と『邪馬壹国』』という一文が掲載されています。

この中で藪田氏は、
「臺」と「壹」は「壺」の字を介して混同する。
と述べられています。まず、
「鑿臺」を「鑿壺」と書くことがある。「史記巻七十八春申君伝」に「殺智伯瑤於鑿臺之下」の「鑿臺」を「後漢書郡国史并州太原郡」に「鑿壺」に作り、注に「史記曰。韓魏殺智伯埋於鑿壺之下」とある。

以下、「後漢書」「文選」「礼記」の例を引いて「臺」を「壺」に作る例を挙げられています。次に、

「沙壺」を「沙壹」に作ることがある。

と述べられて、「華陽国史」と「後漢書」の例を挙げておられる。

因みに、諸橋大漢和にも「臺[魚台]」を「コタイ」とよみ「臺」は「壺」の訛なりとしてあります。

「イ妥」=「倭」(おまけ) 2002/ 8/19 23:52
メッセージ: 739 / 1101
 
藪田氏の説をご紹介したついでに、同じ文の中での「イ妥」と「倭」の話を一つ・・・

「倭」と「イ妥」とは古音においては同字でもあった。「委」と「妥」は唐代以前に混用されていた。

として、以下の例を挙げられている。

1.唐の大暦九年(774)に顔元孫が撰した「于禄字書」には混用されいている多くの文字を挙げ、その正・俗・通を弁別しているが、そのなかに「綏」と「糸委」を並べ、混用されている。
2.大暦十一年(776)に張参の撰した「五経文字」巻上の「手部」に「てへん:妥」と「てへん:委」、「綏」「糸委」を並べて、その混用を示している。
3.北宋の大中祥符元年(1008)に「唐韻」を増補して成った「大宋重修広韻」巻二も下乎声「戈(の点のないもの)第八」に「てへん:委」をあげ、む「俗に[てへん:妥]に作る」とある。

以上、故・藪田氏のお説を引用させていただきました。既に四半世紀以上も前に、かかる重要な指摘がなされていたのです。

「イ妥」=「倭」(完結編) 2002/ 8/20 0:07
メッセージ: 740 / 1101
 
従って、「イ妥」は「倭」であり、「倭」を「イ妥」に作る系統の写本が流布していたと考えざるを得ません。それは、ごくわずかな地域で行われて「通字」ではなく、かなり広く行われたのではあるまいか?ゆえに「宋」あるいは「元」代になっても生き残り、而して「刊本」上にその字体を永遠に残すこととなった次第であろう。

以上が、「イ妥」と「倭」に関する私の思うところです。反論のある方は、同レベルの資料を挙げてから、反論されることを切にお願いいたします。くれぐれも「循環論法」「前提の誤り」などに陥りませんように老婆心より申し添えておきます。