T)概説

1993年(平成5年)3月22日、青森古文書研究会による筆跡鑑定の記者会見で取り上げられた筆跡鑑定対象は次の通り。

1.和田喜八郎氏自筆文
2.「安東船商道之事」
3.「高楯城」関係文書
4.「大泉寺」所蔵文書
5.「東日流六郡誌絵巻」抜粋
6.「東日流外三郡誌」抜粋(八幡書店刊)
7.「東日流外三郡誌」抜粋(北方新社刊)

この中で現代人が書いたものは「丑寅原稿」のみ。つまり「1」。あとは明治大正時代に先祖が書写したもの。

すると、「ふだん」の字とは、
1.和田喜八郎氏自筆文

すなわち「丑寅原稿」であり、「先祖」の字とは必然に、
2.「安東船商道之事」
3.「高楯城」関係文書
4.「大泉寺」所蔵文書
5.「東日流六郡誌絵巻」抜粋
6.「東日流外三郡誌」抜粋(八幡書店刊)
7.「東日流外三郡誌」抜粋(北方新社刊)

ということになる。

喜八郎氏が「似ている」と言ったのだから、「丑寅原稿」と他の筆写本類の筆跡が似ていることを認めたことになる。つまり、「丑寅原稿」は時分の書いたものだとの前提に立っての発言であった。

他に理解のしようがない。下図参照。

U)古田・和田氏側の2年後の反論

ところが古田氏は『新・古代学』第1集に「「これは己の字ではない」−砂上の和田家文書「偽作」説」という一文を発表し、鑑定で和田喜八郎氏・自筆とされた「丑寅原稿」(正式には「知られざる聖域日本国は丑寅に誕生した」といい、平成4年=1992年2月4日の日付がある)が、実は和田喜八郎氏の娘さんの筆跡であるという主張をする。もちろん、これは喜八郎氏の主張をとりまとめて書かれてある。

そして、『季刊邪馬台国』51号掲載の所謂「自筆原稿」の画像とそれに書き入れた喜八郎氏の字を示している。喜八郎氏の文は次の通り。

「これは娘の字
己の字
では(「は」の下は“書き損じ”)
ない
平成七年二月二十六日  和田(丸わく)
                 和田喜八郎」

※『新・古代学』第1集17頁の表記をそのまま引用。

そして、同18頁では次のように述べる。
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そこで、問題の『季刊邪馬台国』五一号を持参し、喜八郎氏に確認を求めたところ、一見すると、すぐ、
「ああ、これは己の字ではないよ。娘の字だ。」
と、いとも軽々と言い切られたのには、驚いた。
この事実は、一切の「偽作」論争をふっ飛ばす。
なぜなら、「偽作」論者は、「和田喜八郎氏の和田家文書(東日流外三郡誌)『偽作』は、昭和四〇年代にはじまった」とする。なぜなら、『市浦村史 資料篇(三巻)』に大量(全体の三分の一くらい、と言われる)の「東日流外三郡誌」が収録されたのは、昭和五一〜二年の頃だ(市浦村側入手は昭和四六年秋。白川村長〈当時〉による)。だから、「偽作」論者は右のように主張してきたのだ。そして問題の「宝剣額」についても、そうだ。そしてその根拠を「筆跡鑑定」においてきた。
ところが、昭和四〇年代と言えば、今から二〇年ないし三〇年前だ。喜八郎氏の娘さんは、まだ生まれていないか、生まれていても、幼少か少女の時代。とても「偽筆」をふるえるような「時間帯」ではないのである。
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要約すれば以下のような理路になるかと思う。

A.青森古文書研究会による7検体の鑑定結果は、和田喜八郎氏自筆文即ち「丑寅原稿」と他の古文書類の筆跡が一致し、それはとりもなおさず古文書類が喜八郎氏の手になるものである。

B.「丑寅原稿」は喜八郎氏の証言によれば喜八郎氏の娘さんが清書したものだと言う。しかるに娘さんは当該古文書類が書かれたとする時分には「まだ生まれていないか、生まれていても、幼少か少女の時代」であるから、それら古文書類を書くことなど出来ない。

C.よって、青森古文書研究会の鑑定結果は事実関係と齟齬を来しており、同一人によるものであるとの鑑定は無効である。このことは「一切の「偽作」論争をふっ飛ばす」。


V)さて、上述のような理路が成立するであろうか?古田氏は「この事実」とするが、これは“事実”でもなんでもない。偽作を疑われている人間が、その疑いを免れるために行った「発言」が、なにゆえ「事実」と言いうるのか?

喜八郎氏の娘さんがふだんの字を提出し、それが明らかに「丑寅原稿」と筆跡の一致を見るならば、これは娘さん清書説を裏付けるものとして取り扱うことも出来ようが、それは全く為されていない。ただ、「丑寅原稿」が娘さんの書いたものであるとの“発言”があっただけである。

娘さんも日常、字を書くことはあろう。それらの何点かを公開すればよい。学校での作文などもあろうし、友人らとやりとりした手紙なども提出することもできよう。しかし、そのような行為は全く為されていない。

それらを公開すれば瞬時に「丑寅原稿」が娘さんの筆跡であり、「偽作説」に大きなダメージを与えることになることは容易に想像できるというのに・・・。

今日に至るまで、客観的に娘さんのものと認められる文は、「真書派」から出されたことはなかろう。出ない。出さない。それは「出せない」からに他ならない。そのように疑われてもやむを得ないと言えるだろう。


W)さて、古田氏も認めている喜八郎氏の自筆筆跡を取り上げてみたい。『古代に真実を求めて』第2集247頁に掲載されている喜八郎氏の「受領書」である。

同頁に古田氏が書かれている通り、この「受領書」の「末尾二行は喜八郎氏の自筆と指紋押捺。(それより前は、古田の筆跡)。

この「受領書」末尾に見える「和田喜八郎」との書名中「和」と「郎」を、件の「丑寅原稿」と比較してみよう。下地となった画像は『季刊邪馬台国』51号グラビアの筆跡比較写真である。

一目瞭然!

両者とも喜八郎氏の筆跡である。