「邪摩惟」が出ましたか! 2002/ 2/12 0:21
メッセージ: 1920 / 3639
 
で、少々調べました。

百衲本二十四史「後漢書」では「邪摩惟」
四史本「後漢書」では「邪摩堆」
「冊府元亀」引用「後漢書」では「邪摩堆」
「太平御覧」引用「後漢書」では「邪魔惟」
芸文印書館「後漢書集解」では「邪摩推」
「通典」では「邪摩堆」
「文献通考」では「邪摩維」
「太平寰宇記」では「邪摩惟」ただし、「惟」の文字が本文と同じ大きさになっている。
で、肝心の「隋書」では、本文で「邪靡堆」となっています。続けて「則魏志所謂邪馬臺者也」。
「北史」は当然、「隋書」の記事をおそっていますが、若干違って「邪摩堆」

これらの「材料」を元に考えられることは何でしょうか?

そうでした「梁書」では 2002/ 2/12 23:55
メッセージ: 1935 / 3639
 
「祁」になっていますね。これも「百衲本二十四史」の「梁書」では、ですけどね。

ある掲示板からの、孫引きになりますが、「百衲本」では「惟」ですが、同じ「後漢書」そのものでも、「汲古閣本」と「武英殿本」では「堆」ということです。この両者は、私は所蔵しておりませんので、誰か確認できる方は、ご教示を!

「邪摩惟」が出ましたか!2 2002/ 2/13 0:18
メッセージ: 1937 / 3639
 
「後漢書」に注を入れた李賢は、西暦684年、31歳で不慮の死を遂げています。唐の高宗と則天武后の次男です。

「隋書」の成立が636年。その中にある「都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」が、後漢書に見える李賢の注「案今名邪摩惟音之訛也」の「元ネタ」でしょう。

ということは、「隋書」が「邪靡堆」である以上、李賢の注も、本来「邪摩堆」とあったのではないでしょうか?

ただ、この「惟」「堆」「推」問題は、写本における文字の「異同」がどのように生じるかの非常に「面白い」テキストとなりそうですね。「影印本」を見ればわかりますが、これらの文字が、区別が付かなくなることは、容易に想像できます。

「珍宝部」の「壹與」が 2002/ 2/20 0:55
メッセージ: 1999 / 3639
 
出てましたね!

これだけは、私からは言い出すまいと思っていたのですが、「戦場」は厳しいですね。太平御覧・珍寶部・珠上に「又曰倭国女王壹與遣大夫率善等献真白珠五十孔青大勾珠二枚也」とあります。

こんなのは、ヤになっちゃいますね。

「太平御覧」は、「紹興」「紹煕」の元となった「咸平本」よりさらに、二十年ほど前に成立しています。私にとっては、これは困ることなんですが、ま、なんか説明は付くと思います。今日は眠いので、これまで!

「邪馬壹国」A 2002/ 3/ 5 23:19
メッセージ: 2066 / 3639
 
>陳寿が魏志倭人伝に『邪馬壹國』の記述をしているのを

というのが「問題」なのです。陳寿は「邪馬壹国」と書いたのではないのです。仮に陳寿の書いたのを「邪馬?国」という「未知数」に置き換えてみますね。その「未知数」の「解」を現在の我々はどのようにして求めるでしょうか?「三国志」は多くの正史・史書に引用されていますので、その引用のされ方をおって行けば何かがわかります。

その結果、実に「見事な」現象が現れるのです。つまり「北宋」(南北朝の「宋」ではなくて、十世紀半ばに成立した「宋」)までに「三国志」を引用したものは「邪馬臺国」とあり、宋代以降に引用したものに、突然「邪馬壹国」という表記が現れるのです。その後は「邪馬一国」というものまで現れます。もし、陳寿の「三国志」に「邪馬壹国」とあったのなら、十世紀までのいずれかの正史・史書に「邪馬壹国」あるいは「邪馬一国」なる表記が現れてしかるべきではないでしょうか?それが、「ない」のです。

特に象徴的なのが「隋書」ですね。この件については、以前にも書きましたので重複を避けます。

では、現在の「三国志」に「邪馬壹国」とあるのは「なにゆえか?」。それは「次のステップの問題」ではないかと考えます。

「隋書経籍志」 2002/ 7/16 23:48
メッセージ: 3048 / 3639
 
「隋書巻三十三経籍志二」に「三国志六十五巻(陳寿撰・・・裴松之注)」と見えていることから、「隋」の朝廷には「裴松之注」の「三国志」があったことが確認出来ます。

その「隋書巻八十一列伝四十六東夷イ妥国」には、ご承知のように、下記の文があります。則ち、

魏志所謂邪馬臺者也

この頃朝廷に所蔵されていた「三国志」には「裴松之」の注が入っていたのですから、「隋書」の著者、魏徴の見た「三国志」もそれだったはずです。その「三国志」を見て、魏徴は上記のような文をなした。つまり、魏徴の見た「三国志」には「邪馬臺国」とあったことになります。

そして、五世紀南朝劉宋の人裴松之は「三国志」に綿密な注を入れたことが知られています。陳寿の「三国志」の「邪馬壹」とあり、范曄の「後漢書」に「邪馬臺」とあったのなら、裴松之は注を入れたはずです。ところが「三国志」の「邪馬壹国」という表記には、裴松之は注を入れていないのです。これは何を意味するのか?五世紀時点の「三国志」に書かれてあったのは「邪馬臺国」であったということ・・・。

おわかりでしょうか?いったい「邪馬壹国」という「表記」は、いつ・どこで発生するのか?ヨーク考えてみてください。

「臺」と「壹」@ 2002/ 8/24 22:24
メッセージ: 3292 / 3634
 
これは、「『魏志・倭人伝』行程記事解析 」トピにわたしが書いたものですが、あちらでは、理解していただけなかったようなので、いろいろ思案いたしました結果、こちらで再度掲載させていただくことに致しました。あちらでお読みいただいた方には、重複となりますが、どうかお許しを・・・。


まず、我々が見ている「魏志」は現存する最も古い刊本でも「南宋初」の「紹興年間」に刊行された「紹興本」です。これは現在、あまり目にすることがありません。私が所有する書籍の中では、三品彰英編著「邪馬台国研究総覧」の巻頭に影印版が掲示されています。

次に古いのが、同じ「南宋」の「紹煕刊本」と言われるものです。これも「紹興刊本」と同じく「宮内庁書陵部」に所蔵されています。「百衲本二十四史」の中の「三国志」もこの「宮内庁」所蔵のものを用いていますが、巻の一から三までを欠いていて、この「三国志」を開いてみればわかりますが、巻の三までと巻の四以降とは、字体が違います。この巻の一から三までは、「紹興本」で補ってあります。したがって、先に紹介した「邪馬台国研究総覧」の掲載されている「紹興本三国志」の字体と、「百衲本三国志」巻の一から三まで字体とは同じです。

「臺」と「壹」A 2002/ 8/24 22:28
メッセージ: 3293 / 3634
 
さてさて、我々が見ている「三国志」に見える「邪馬壹国」が、陳寿の書いた通りか否か、という問題に立ち帰りますと、仮に二つのケースを考えてみるのが宜しいかと思います。すなわち、
@陳寿は「邪馬壹国」と書いた
A陳寿は「邪馬臺国」と書いた
ですね。@の場合は、どのようなことが導かれるかというと、陳寿の「三国志」を引用・参照した各種史書が、「邪馬壹国」と見ながら、ことごとく「邪馬臺国」と書き改めていった、といわなくてはなりません。Aの場合は簡単で、「三国志」に「邪馬臺国」と書いてあったから、のちの史書にも「邪馬臺国」と書き記された、ということになります。

「三国志」の刊本の中には「邪馬一国」と表記したものもあります。「芸文印書館四史本三国志」や1317年成立の「文献通考引用魏志」がそれです。これを以て、「陳寿原文はやはり邪馬壹国だった」と主張される方もおられるようですが、それには次の疑問に答えねばなりません。それは、これら「邪馬一国」に作る史書がすべて、刊本化された以降のものであるのはなぜか?ということです。言い直せば、11世紀「三国志」が刊行される以前に「三国志」を引用あるいは参照した史書に、何故「邪馬一国」の表記が現れないか?ということです。それらの史書には「邪馬一国」どころか「邪馬壹国」すら現れないのです。

それに引き替えAの場合はどうでしょう?宋代に刊本化されるまでは「邪馬臺国」だった、と考えると、上記の疑問はすべて解けます。何のことはない、目の前にある「三国志」に「邪馬臺国」とあるから「邪馬臺国」と転記したまでのことです。

「臺」と「壹」B 2002/ 8/24 22:29
メッセージ: 3294 / 3634
 
特に、このあたりのことを考える上でポイントになる史書は、以下の四つですね。
a.「三国志」(紹興本、紹煕本およびそれらの元になったといわれる「北宋咸平本」)
b.「太平御覧引用魏志」
c.「通志」
d.「冊府元亀」
それに、刊本が広く流布したあとに成立した「文献通考引用魏志」にも目を配る必要があるでしょう。この上記四書の成立した約200年間について考察することで、現行の「三国志魏書東夷伝倭人」がどのような資料的意味を持つものか、わかってくるものと思います。

「臺」と「壹」C 2002/ 8/24 22:49
メッセージ: 3295 / 3634
 
ちょっと一休み・・・。

宋代の地理書の一つ「太平寰宇記」の「倭国」の条に、次のように見えます。

按其王理邪為台国

「臺」がその通用字である「台」で書き直されているのですが、おかしいのは「馬」が「為」に「化けて」いるのです。

古田氏に言わせれば、これも「書き直した」と解釈するのでしょうね。「邪馬台」では国名にふさわしくない!「邪為台」なら、われわれのセンスとしてもいい。なんてね。

ま、もっともこの「太平寰宇記」は、いわゆる「活字本」のようなので、「誤植」かも知れませんがね・・・。

「臺」と「壹」D 2002/ 8/24 23:07
メッセージ: 3296 / 3634
 
話を戻します。

こんにち、われわれが最もよく目にする「魏志」は「百衲本二十四史」のなかのもので、概ね「南宋紹煕刊本」に依っています。

ただ、刊本が初めて世に出たのは「紹煕・紹興」ではなく、もちろん「北宋代」のことです。北宋第三代真宗の咸平五年(1002年)ことです。このとき刊行されたのが「三国志」「晋書」だったといいます。

このあたりの経過は非常に複雑で、素人の入り込む余地すらない状況なのですが、「学者先生」に言わせると「問題は必ずしもそんなに簡単なものではない」というのですから、何をか況や・・・です。

「臺」と「壹」E 2002/ 8/24 23:26
メッセージ: 3297 / 3634
 
さあ、その「咸平本」はどうなったか?

ご承知のように、宋は金に逐われ「紹興八年」ようやく「杭州」に遷都し「南宋」を立てます。当然「北宋」の都「ベン京」にあった書物のほとんどは失われましたが、地方や民間によって多くの書籍が刊行されました。これが「紹興本」というものです。「百衲本二十四史」の「三国志」の「巻一から三」までは、この「紹興本」を用いたとされます。

さて、その次によく知られていのが「紹煕刊本」と言われるものですね。これは「南宋・紹煕年間」に刊行されたとされますが、之もよく調べると「忌諱」から、「慶元刊本」と言うべきだとされます

「臺」と「壹」F 2002/ 8/24 23:48
メッセージ: 3298 / 3634
 
「臺」と「壹」Bで、下記の史料を挙げましたが、「倭人伝」の中から、一つ例を挙げて考えてみたいと思います。ただし、「冊府元亀」には例の「旅程記事」中に「対馬国」の部分が抜け落ちていますので、「文献通考」を取り上げてみます。

a.「三国志」(「百衲本」)
b.「太平御覧引用魏志」
c.「通志」
d.「文献通考」

「対馬国」です。「対馬国」は、上記四史料では次のようになっています。則ち、

a.「三国志」=「対海国」
b.「太平御覧引用魏志」=「対馬国」
c.「通志」=「対馬国」
d.「文献通考」=「対海国」

「太平御覧」の成立が、北宋・太平興国八年(984年)で、上記四つの中では一番古い。つづいて、1161年、王樹海・鄭祥樵撰の「通志」。之は「紹興年間」の末ですね。次に「紹煕刊本三国志=百衲本三国志」(というほど簡単なことではないのですが、とりあえずこう表現しておきます)。そして、元代成立の「文献通考」。

どうでしょうか?「対馬国」が、ある時から「対海国」に変わっている「経時変化」がおわかりでしょうか?

「臺」と「壹」Fの補 2002/ 8/25 23:06
メッセージ: 3322 / 3634
 
大事なものが抜けていました。

「三国志」の「紹興本」「汲古閣本」も「対馬国」です。

「紹興本」については、先にご紹介しましたので割愛させていただくとして、「汲古閣本」について少々・・・。

「汲古閣本」は、明代、汲古閣の主人「毛晋」が校訂・出版した多くの書籍を称して云うもので、別名「毛刻本」とも云います。この「毛氏汲古閣本」はかなり有名らしく、我が家にも清末・徳宗の光緒十三年(1887年)重刊の「三国志」版本があります。

手持ちの漢籍がほとんど「影印本」なのですが、これと「七家後漢書」「山海経」だけは、「刊本」で手に入れることが出来ました。

話がそれましたが、「対馬国」を見てもわかるとおり、いったん間違った文字は、そのまま延々と引き継がれてゆくという可能性を持っている好例かと思います。

「臺」と「壹」Fの補の補 2002/ 8/26 22:01
メッセージ: 3348 / 3634
 
またまた、大切なものが抜けておりました。「魏略」です。「魏略」も「対馬国」ですね。ただ、これは「翰苑」に引用されたもので、「翰苑」そのものの資料的価値が不明なので(特に我が国での写本のようなので)強くは言えませんが、ま、「対海国」とあった訳じゃないことだけは確かでしょうね。

「臺」と「壹」Fの補の補の補 2002/ 8/26 23:39
メッセージ: 3355 / 3634
 
えーい、他にもあった!

台北・啓明書局版「四史本三国志」も「対馬国」

北京・中華書局刊「校点本三国志」も「対馬国」

台北・新陸書局刊「武英殿版三国志」も「対馬国」

台北・成文出版社刊「仁寿本二十六史・三国志」は、「百衲本」と全く同じ版なので、当然「対海国」。が、「百衲本」の「魏書国志十二 崔[王炎]伝の頁にでかでかと2ヶ所押印してある「帝室・・・」の印が、「仁寿本」では無い!これはどういう意味だ?

「臺」と「壹」G 2002/ 8/24 23:53
メッセージ: 3299 / 3634
 
ちょっと一休み・・・。

「冊府元亀」を開いていたら、次の文面が目にとまりました。

日本国倭之別名

ありゃりゃ・・・。「日本国」と「倭」とは、「同じもの」だったんですねぇ。「九州王朝」はどうなるんでしょう?

「臺」と「壹」H 2002/ 8/25 0:12
メッセージ: 3300 / 3634
 
ここまでは「序の口」。

ここからやっと「臺」と「壹」の問題にはいるのです。

現在我々が目にしている「魏志倭人伝」こと「三国志魏書東夷伝倭人」に、「女王之都する所」として「邪馬壹国」とあります。之は、どなたにも異存はないことでしょう。だから・・・、陳寿が書いたのも「邪馬壹国」だってのが、間違いだという説明をこれからしようと思います。

なぜ、「間違い」というか?それは「太平御覧引用魏志」にその鍵があります。

「太平御覧」には「魏志に曰く」として、下記のようにあります。

又南水行十日陸行一月至邪馬臺国

これは、通行本三国志の文面とは違います。どう違うかは、比べていただければわかると思いますので、省略します。

ところが、この「太平御覧引用魏志」の文面は、「梁書」の文面と、ほとんど「同じ」なんです。

又南水行十日陸行一月日至邪馬臺国(「邪」は「祁」となっているが)

で、「太平御覧」が「魏志に曰く」とあるのは、実は「魏略」の間違いだとか、「梁書」を引き写したなんて解釈があるようですが、「魏志に曰く」は、あまりにも重い・・・といわざるを得ません。

「臺」と「壹」I 2002/ 8/25 0:29
メッセージ: 3301 / 3311
 
「三国志」の最初の刊本「咸平本」が成立したのが、咸平五年(1002年)。その数年後「冊府元亀」が成立。

その「冊府元亀」の文面は、「梁書」を引いて「邪馬臺国」とあります。「太平御覧引用魏志」と「梁書」のこの部分の文面が、ほとんど「同じ」だと先に申し上げましたが、この「冊府元亀」の文が、「梁書」によって為されたと言えるのはなぜかというと、校訂をするとすぐにわかることだからです。

ただ、先にも言いましたが、「魏志に曰く」は、あまりにも重く、「太平御覧引用魏志」と「梁書」の当該部分の文面が、ほとんど「同じ」であったことは、「動かない」ことだと言えます。

つまり、「梁書」の成立した7世紀から、「太平御覧」の10世紀までの、約300年間、「魏志」の文面は「邪馬臺国」だったと推定されると言うことになります。

「臺」と「壹」J 2002/ 8/25 0:41
メッセージ: 3302 / 3634
 
さて、「三国志」が刊行された以降のことを、追ってみよう。

「元」の「馬端臨」の編になる「文献通考」が成立したのが1317年。この「文献通考」に引用されている「魏志」には「邪馬一国」とある。

それから、百数十年後。「明」の英宗・天順七年(1463年)成立した「大明一統志」にも「邪馬一国」とあります。

このように「邪馬一国」なる表記が出現するのは、実に「宋代」各種刊本の刊行が盛んになって、史書が多く流布するようになってから以降のことなのです。

史書が多く流布するのは、非常にありがたいことなのでしょうが、いったん「誤った」文字は、そのまま何世代にもひきつがれてゆきます。

「臺」と「壹」K 2002/ 8/25 0:51
メッセージ: 3303 / 3634
 
逆に、「宋代」に「三国志」が刊行される以前の史書に、「邪馬臺国」は、どのように表記されているか?これは、これまで論ぜられてきたとおりです。

「後漢書」に始まって、「隋書」の「則所謂邪馬臺者也」から、唐代の「通典」、「梁書」、「北史」。先にも述べた「太平御覧引用魏志」など、すべて「邪馬臺国」です。

番外として、「翰苑」に引用されている「広志」にある「邪馬嘉国」なども、「邪馬臺国」とあったことを証しているように思えます。

「臺」と「壹」L 2002/ 8/25 1:18
メッセージ: 3304 / 3634
 
ここまでが、「幕下」です。

さて、11世紀初頭、「咸平本」が刊行されましたが、それも、かの「靖康の変」で南に逃れた宋は、やはり各種書籍の刊行に励みました。そして誕生したのが「紹興本」「紹煕本」なのです。

ただ、簡単に「紹煕本」と言いますが、実際は相当に複雑な様相を呈しています。

例えば、刊本の「中縫」の部分に「鬼志十三」とある次の頁に「鬼書十三巻」とあります。これは何を意味するかというと、版を彫った人が「同一人」でなかったということです。「同一人」でないばかりか、実は、別の版からの綴り合わせ出ある可能性を意味しています。

現在、我々がよく目にする「魏志倭人伝」は、おそらく「百衲本魏志」だと思います。この「百衲本」というのは、一言で言えば「綴り合わせ」という意味で、あちこちから、かき集めて体裁のいいものを作ったことを意味します。

「臺」と「壹」M 2002/ 8/25 1:25
メッセージ: 3305 / 3634
 
「唐末」の混乱からようやく、統一王朝「宋」が成立したものの、「金」の南下によって河南に逃れた「南宋」は、再び各種書籍の刊行に励みます。そこで刊行されたものが、海を渡って、我が皇室に伝えられて、現在まで残っているのです。まるで「冷泉家時雨亭文庫」を想起させますね。

この「南宋代」の刊行に際しては、各種史書の収集が計られたようですが、そこで一つ、不思議な現象が発生するのです。

本日は、ここまでとします。また、明日のお楽しみに・・・。

「臺」と「壹」N 2002/ 8/26 23:04
メッセージ: 3353 / 3634
 
さて、次に進む前に、一応「古田説」についても触れておかねばならないでしょう。#3239「ひまつぶしに」の続きとして読んでください。その前に、おさらいから・・・。


古田武彦氏の基本テーゼ「卑弥呼の都した国名は邪馬壹国である」について、その基本点は3つに要約される(「邪馬台国論争は終わった=その地点から」『続・邪馬台国のすべて』朝日新聞社、昭和52年所収)。
@「邪馬壹(一)国」は三国志全版本の事実
A三国志の「壹」(86個)と「臺」(56個)にあやまりと認識しうるものなし
B「魏臺」は天子一人を指す(魏朝)

このうち、Bについて「ひまつぶしに」で紹介しましたので、@についてまず。

長いけど引用します。「続・邪馬台国のすべて」(朝日新聞社・昭和五十二年)9頁。

古田は「邪馬壹国」ということをいうけれども、あれは天下の弧証である、という言葉を使った方もあります(前記、藪田氏)。それを読んだ読者は”ああそうか、『三国志』の中ではだいたい「邪馬臺国」と書いてあるんだな、ちょっと変わった「邪馬壹国」という版本があったので、古田はそれを取り上げて「邪馬壹国」が正しいと、大げさにいっているのだな”とお思いになる方があるかもしれない。しかし事実はそうではありません。

古田氏の言われる「天下の弧証」発言は、「歴史と人物」昭和五十年9月号に掲載された、藪田嘉一郎氏(故人)の「『邪馬臺国』と『邪馬壹国』」でのことです。

それは、南宋刊本『三国志』の「邪馬壹国」は天下の弧証であるということである。以後、この影響をうけたと見られるテキストについては論外である。

と述べ、以下延々と「壹」が「南宋刊本」に初出と見られる理由を、他の多くの史書を引いて、論ぜられています。

これに対して古田氏は、この藪田氏の文を読んだ上で、上記のような「仮定の反論状況」を構築し、それに対して、得々と再反論を試みておられるのだ。

古田氏が反論しているのは、誰も云っていない

ちょっと変わった「邪馬壹国」という版本があったので、古田はそれを取り上げて「邪馬壹国」が正しいと、大げさにいっているのだな

という架空の状況に対してなのです。

@「邪馬壹(一)国」は三国志全版本の事実

という古田氏の命題その一は、空虚なものであることが明々白々。なぜなら、自分で作り出した「架空の反論」にしか「再反論」できないからなのです。

「臺」と「壹」O 2002/ 8/26 23:55
メッセージ: 3356 / 3634
 
つづいて、

A三国志の「壹」(86個)と「臺」(56個)にあやまりと認識しうるものなし

について・・・と思ったけど、午前零時。明日も早いので、又明日。おやすみなさい!

「臺」と「壹」Oのつづき 2002/ 8/27 22:27
メッセージ: 3365 / 3634
 
A三国志の「壹」(86個)と「臺」(56個)にあやまりと認識しうるものなし

は、古田氏の「邪馬壹国国名論三原則」の筆頭にあげられるものです。氏が昭和四十四年九月「史学雑誌」78−9に発表された「邪馬壹国」が氏の「邪馬台国論争」参入の出発点でした。

「三国志」中に現れる「臺」と「壹」の「全検証」を行い、その結果、それらが「誤写された」ものは「皆無だった」というものでした。

おそらく当時、古代史研究の世界に一定の波紋を広げた発表であったことは間違いないでしょう。

ところが・・・(つづく)

「臺」と「壹」P 2002/ 8/27 23:05
メッセージ: 3366 / 3634
 
よくよく考えてみたら、おかしい!ってことに気づくはずですね。何がおかしいって?

古田:「臺」と「壹」は誤写されうるほど似ていない!

はい、そうですか!そりゃスゴイ検証結果だ!ん?なんかおかしいな????
じゃ、他の史書に見える「邪馬臺国」はどうなるんだ?

古田:それは「改訂されたのです」。「范曄」が「後漢書」を書いた五世紀時点では「邪馬臺国」だった。後の史書、例えば「隋書」の「魏志にいわゆる邪馬臺なる者なり」と書いても、それは決して、そのような「三国志」の版本にもとづいているのではなく、「後漢書」にもとづく改訂結果を表している・・・。(「『邪馬台国』はなかった 92頁)

そうか!改訂されたのか!ん?なんかおかしいな?

「文字の異同」は「改訂」によっても生じるのか・・・!じゃ、古田氏の「臺」と「壹」の検証結果って、意味無いじゃん!

だって、古田氏の「検証」は、「誤写の可能性」の「検証」だったよね。そりゃ「誤写された」可能性は否定されても、「改訂」された可能性は、強くなったんじゃない?

だって、古田氏自身「隋書」などの「邪馬臺」は、「後漢書」によって「改訂された」と結論づけているのだから・・・。

結果!例の古田氏の「検証結果」は、「三国志」の「オリジナル」に「邪馬壹国」とあったことを裏付けるものには成り得ない!

「臺」と「壹」Pおまけ 2002/ 8/27 23:13
メッセージ: 3368 / 3634
 
前レスで紹介した「『邪馬台国』はなかった」92頁で、古田氏は「版本」という言葉を使っていますね。

以前紹介した、藪田氏の「『邪馬臺国』と『邪馬壹国』」への反論として古田氏の書いた「九州王朝の史料批判−藪田嘉一郎氏に答える−」(「歴史と人物」昭和50年12月)の中でも、「裴松之の時点では・・・とする版本は・・・」と述べられています。


この頃の古田氏は「版本」というものが、もっとずっと後に初めて出現することをご存じなかったようですね。この頃は当然「写本」。それとも、興奮していて、とっちらかったのか・・・。事実、上記記事での古田氏は、相当興奮しておりましたです・・・。

「臺」と「壹」Q 2002/ 8/28 23:24
メッセージ: 3384 / 3634
 
途中、古田説へ迂回しましたが、これはMの続きとして読んでください。

>この「南宋代」の刊行に際しては、各種史書の収集が計られたようですが、そこで一つ、不思議な現象が発生するのです。

と述べましたが、具体的に云うと

「臺」と「壹」Q(つづき) 2002/ 8/29 22:32
メッセージ: 3387 / 3634
 
「一大率の孤独」・・・ということです。

あれだけ「べったり」魏志の文を引き写していたはずの「通志」「太平御覧」「文献通考」それに「梁書」「北史」「冊府元亀」その他の関連史書のほとんどすべてに「一大率」の部分が「抜け落ちている」のです。

比較的最後まで並行関係を維持していた「冊府元亀 土風一」までが、

「自女王国以北・・・」から以降が「空白」なのです。

又、その「空白部分」を初めて埋めるのは「太平御覧引用魏志」で、かの

「草伝辞説事・・・」で復活します。この間の「76文字(紹興本・武英殿本・汲古閣本は『諸国』が連続して出ているので、78文字)」が、他のどの史書にも「現れない」のです。

そして、やや不思議なことなのですが、たった一つ「旧唐書」のなかに、

「置一大率検察諸国皆畏怖之」

と、現存する「魏志」と「全く同じ」文面が見えるのです。

さあ、これは何を意味するのでしょう?

「一大率」の機能について述べている部分で、他の史書に引用する折りに、特に省いても構わないとも思えないのですが・・・。

「臺」と「壹」R 2002/ 8/29 22:49
メッセージ: 3388 / 3634
 
二つの想定が考えられます。

その前に、「文献通考」に引用された「魏志」については、この際オミットしても構わないのではないかと思います。例の「紹煕本」の成立から百年以上を経た、元代の成立ですから。

逆に、最も注意しなければ成らないのは「通志」でしょうね。次が「太平御覧」でしょう。つづいて「冊府元亀」。

理由は、「通志」が南宋「紹興年間」の末。例の「紹興本」「紹煕本」などの刊行が盛んであった、まさにその時期だからです。

次の「太平御覧」については、述べるまでもなく、北宋「太平興国八年」の成立で、その約二十年後に成立した「冊府元亀」とともに「北宋代」のものだからです。

「冊府元亀」については、時期的に非常に微妙な時に(1013年)成立しているのですが、「梁書」「北史」系統からの引用部分と「魏志」からの引用部分とが混在していて、肝心な所(例えば旅程記事)で、確信を得る材料とするには、やや心許ない気がします。

「臺」と「壹」S 2002/ 8/29 23:11
メッセージ: 3389 / 3634
 
二つの想定のうちの、その一。

「一大率」が果たして、最初から「魏志」にあったのか?そりゃ、あったでしょう。かの「一大率の孤独」の部分には、「自女王国」とか「常治伊都国」とか「帯方郡」とか、他の時代にはあり得ない表記がありますからね・・・。でも、「書物」には何が起こるかわからない!これが「唐代」の「作文」だったとしたら?つまり「一大率」というのは「大宰府」のこと。「伊都国」とか「女王国」というのは、「作文」・・・。「割注」がいつの時点、本文に紛れ込んだ・・・。

おっとっと・・・、これはまあ、「トンデモ説」と捉えていただいて結構です。

次なる、その二が、わたくしの云いたいことなのですから・・・。

「臺」と「壹」(21) 2002/ 8/29 23:51
メッセージ: 3390 / 3634
 
二つの想定のうちの、その二。

例の北宋「咸平本」が、本当に「紹興本」「紹煕本」の「元」になったのか?ということです。

このあたりのことは、先にも述べましたが、「超専門的」な部分で、素人の入り込む余地はなさそうです。ところが、北宋から南宋への、南遷の折り、果たして「咸平本」が、再刊行のテキストとなるほど、良好な状態で残っていたか?それが、はっきりとしません。

専門の学者先生からは、おそらく「北宋版を元にしたと考えてよい」という返事がくるでしょう。しかし、「版本」の系統を考証することはあまりにも複雑で、碩学といわれる方々をもってしても、確信ある返答は得られないのではないかと思うのです。

「臺」と「壹」(22) 2002/ 8/30 0:14
メッセージ: 3391 / 3634
 
さあ、重大な鍵を握っているのが「通志」と「太平御覧」です。

「宋の南遷」を挟んで、「魏志」を引用・参考にした二つの「史書」について考察することで、実は「太平御覧引用魏志」の「重要性」が見えてくるのです。そして、それはひとり「倭人伝」に限らない。

「粗雑」の誹りを受けながら、また「傷だらけ」の「太平御覧引用魏志」に、現存する「倭人伝」が抱える諸問題を解く鍵が潜んでいるように思えるのです。それはまた、明日のお楽しみに・・・。

「臺」と「壹」(23) 2002/ 8/30 23:00
メッセージ: 3392 / 3634
 
まず、「通志」から見てゆきたいと思います。

「通志」は「南宋」「紹興年間」の末、1161年、「王樹海」「鄭樵」によって編纂されました。「三国志」「紹興本」とほぼ、同じ時代です。「紹煕本」は、これより数十年遅れて成立します。

この「通志」の文面を追って行くと、「三国志」刊本間を除くと、最も親しい関係にあることがわかります。現存する「三国志」、「通志」それに「文献通考引用魏志」とは、「倭人伝」部分についてみる限り、並行関係にある部分については、非常に近接した文面となっています。もちろん、文字の異同は各所にあります。

この三書については、「投馬国」「邪馬壹国」への旅程記事が同じなのです。すなわち、「南至投馬国水行二十日」のなっており、「太平御覧引用魏志」の「又南水行二十日至投馬国」とは相違しています。

つまり、「宋の南遷」を境にして、この部分の文面に相違が見られるのです。これは、「北宋・南宋」の間に、刊本を巡る状況が激動した一つの小さな現れではないかと見ています。

この「通志」が、他の二書「三国志」「文献通考引用魏志」と違っているのは、なんと「邪馬臺国」の部分なのです。

これだけ似通った三書なのに、「通志」では「邪馬臺国」、「三国志」では「邪馬壹国」そして、「文献通考引用魏志」では「邪馬一国」なのです。

先にも述べましたが、「文献通考引用魏志」が「邪馬一国」に作るのは「三国志」の「邪馬壹国」を簡略化したもので疑問の余地はありません。「通志」の「邪馬臺国」は、何故「邪馬壹国」ではないのか?

この問題は、本論からやや外れますので、別の機会に考えてみることにします。

「臺」と「壹」(24) 2002/ 8/30 23:14
メッセージ: 3393 / 3634
 
つぎにいよいよ「太平御覧引用魏志」について考えます。

「倭人伝」について云えば、通行本「三国志」と「太平御覧引用魏志」とは一応、並行関係にはあります。しかし、各所で食い違いが見られ、前述の三書の並行関係とは同等とは見ることが出来ません。

このことから、「太平御覧引用魏志」は粗雑だとか、「魏略」の引用だとか、いや「梁書」を引いたのだ、とか云われています。しかし、「魏志に曰く」は「魏志に曰く」とまず見るべきではないかと思うのです。無論、引用書の錯誤は十分あり得ますので、その可能性を否定するものではありません。

さて、それでは、「魏志倭人伝」以外での「太平御覧引用」文献と、その「文献」との校合をしてみてはどうだろうか?

その結果・・・!

「臺」と「壹」(25) 2002/ 8/30 23:46
メッセージ: 3394 / 3634
 

まず「後漢書倭伝」と「太平御覧引用後漢書倭伝」。
かなりの並行関係にあります。「太平御覧」の方に、文字の欠落はあるものの、文意の変わるような、あるいは解釈の分かれるような文字の変動は見られません。これは「見事」と言っていいほどだと思います。

次に「南史(宋書)倭国伝」と「太平御覧引用南史」。これも並行関係にあります。そして、並行している部分の文字の並びは、通行本「南史」と比べ、大きな乱れはありません。もちろん、文字の欠落はあります。

次に「北史(隋書)倭国伝」と「太平御覧引用北史」との関係。これも見事なものです。例の「三書」間の並行関係よりは劣るものの、「三国志倭人伝」の場合よりは、遙かに近似しています。

今度は「魏志韓伝」に行きます。これも、先に挙げた例と同様、文字の乱れや欠落はありますが、語順の前後しているような部分は見あたりません。ただ、「養豚」の記事が「太平御覧引用魏志韓伝」とかの「三書」、それに「通典」との間で、面白い関係を見せていますが、これは本筋から外れますので、言及しません。

次に「魏志ワイ伝」。これまた見事に並行関係にあります。これまでで一番でしょう。

最後に「扶余伝」。これは、並行している部分は少ないのですが、その部分については、かなりの近似関係にあります。


「臺」と「壹」(26) 2002/ 8/30 23:58
メッセージ: 3395 / 3634
 
さて、実に大まかに、各種史書と「太平御覧」に引用された、その史書との比較を行ってみました。これは、一番重要なポイントなので、実例を挙げながら説明するとよかったのかも知れませんが、後の機会に譲ります。

「太平御覧」に引用された「魏志」などの史書が、あまり信を置かれなかったのは、私が見てきた範囲では、一にかかって「倭人伝」部分にあるといえるかも知れません。「倭人伝」部分は、通行本「魏志倭人伝」と、相当な、しかも重要な部分で、相違を生じているのです。

しかし、これまで見てきたように、この「相違」が「太平御覧」の編纂姿勢の問題でも、使用した史書全体に問題があるからでもないことが伺えるのではないでしょうか?

「太平御覧」に引用された史書は、特に「信を置けない」ものではない、ということ。すなわち、「太平御覧」に引用された「魏志」には「邪馬臺国」とあり、また、かの「旅程記事」も「又」の連鎖でつながっていたと見るのが相当だと言えます。

ではなぜ「一大率の孤独」とか、他にも挙げられる「不思議な現象」が、「太平御覧引用魏志」と「通行本魏志」との間に生じているのか?

以下、明日につづく・・・。

「臺」と「壹」(27) 2002/ 8/31 22:26
メッセージ: 3396 / 3634
 
>ではなぜ「一大率の孤独」とか、他にも挙げられる「不思議な現象」が、「太平御覧引用魏志」と「通行本魏志」との間に生じているのか?

これまで見てきたように、「太平御覧」は、目の前にある「魏志」を概ねそのまま引用しています。ということは、「太平御覧」の引用した「魏志」と、現在我々が目にしている「魏志」とは、少なくとも「倭人伝」部分は「別物」ではないか?という疑問が生じます。

しかも、ここが重要な点なのですけれど、「太平御覧」が引用した「魏志」よりも、「通行本魏志」の方が、「整っている」のではないか・・・という疑いが生じます。

これこそが、最大の「疑問点」なのです。「太平御覧」が編まれた「北宋」時点で手にすることができた「魏志」よりも、「通志」や「南宋」「紹興・紹煕本」の刊行されたときに底本とされた「魏志」の方が、整っていた・・・。

つまり、「南宋」代、「三国志」が刊行された折りに、その底本とされた「魏志」は、新たに「出現した」「魏志」だったのではないか?という想定をするのです。

そして、その「新たに出現した」「魏志」というのは、かなり「特異」な「異系統本」ではなかったのか?つまり、各王朝で代々受け継がれ、正史編纂の史料とされた「魏志」とは、趣を異にする「本」だったのでは・・・。

「臺」と「壹」(28) 2002/ 8/31 22:51
メッセージ: 3397 / 3634
 
説明の順序が逆になりましたが、

>不思議な現象

とは、皆さんすでにご承知の「一大国」「一支国」、「景初二年」「景初三年」、「会稽東冶」「会稽東治」、そして論争の核心にも関わってくる「邪馬臺国」「邪馬壹国」、「臺與」「壹與」・・・。

「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」vs「又南水行十日陸行一月至邪馬臺国・・・」の部分。

少なくとも「北宋」「太平御覧」成立時点までは、これらの「不思議な異同」は発生していなかったのではないかと思えます。

一つお断りしておきますが、「不思議」という言葉を用いたのは、「この史書とあの史書とで文字の異同がある」という、「一対一」の「異同」ではないことを称しています。つまり、「一対多」の「異同」なのです。それも、ある時点までの「多」に対して、その以降の「一」という・・・。

その最大の例が「臺」と「壹」なのです。

「臺」と「壹」(29) 2002/ 8/31 23:03
メッセージ: 3398 / 3634
 
この「太平御覧引用魏志」から、我々は遡ってゆくことが出来ます。9世紀初頭の「通典」、7世紀の「隋書」「北史」「梁書」そして「翰苑」。5世紀の「後漢書」と、「三国志」に注を入れた「裴松之」の証言。

「邪馬臺」の文字は、中国正史に脈々と受け継がれているのです。このことを軽視して、12世紀に成立した現存最古の刊本に初めて出現する「邪馬壹国」を、三世紀の「卑弥呼の都した国名」とすることは到底出来ないことなのです。

言い方を変えます。これまでも多くの方から唱えられていることの繰り返しになりますが、「邪馬壹国」の名は、「12世紀」に至るまで、どこにも「出現しない」のです。

たった一つの「場所」を除いては・・・。

「臺」と「壹」(30) 2002/ 8/31 23:27
メッセージ: 3400 / 3634
 
>たった一つの「場所」を除いては・・・。

「たった一つの場所」というのは、「南宋」代、「三国志」刊行の底本とされた、新たに出てきた「三国志」だったのです。

唐末の混乱、宋の南遷に伴う戦火にも失われることなく、よくその全体をとどめていた写本が、「紹興・紹煕」の刊行の際用いられたのではないか?だからこそ、他の史書にも引用されない部分が「生き延びて」その姿をいま、我々の前に見せているのだ。

ただそれは、これまで数百年にわたって営々と書写されてきた「三国志」の文面とは、かなりの「異同」を内包していた。

例えば、「北宋・仁宗」の「嘉祐年間」以後、「宋」から「周」に至る七史の校訂が行われ、「徽宗」の「政和年間」それが完成したが、「金」の南侵によって「北宋」が滅び、この「七史」もほとんど失われた。これを復活する際に、戦火をこうむらなかった「四川」の各地からこの校訂本を集めたという。

大陸の「正史」が、我が皇室に保存されていたように、大陸にあっても、直接戦乱の影響を受けなかった所に、各種の「書籍」が、「完本」の形で残っていたことは容易に想像しうる。

だが・・・。

「臺」と「壹」(31) 2002/ 8/31 23:49
メッセージ: 3401 / 3634
 
この「三国志」は、各王朝によって、代々書写されたものではなく、地方に残っていたものではないか?ということです。

そのような想像を裏付けるエピソードがあります。

「北斉」の「顔之推」の「顔氏家訓・書証篇」には、次のようにあります。

「漢書」にある”中外[示是]福”という、[示是]という字は、”示篇”に従うべきなのに、江南地方の書本では、誤って「手偏」に従っているものが多い。「後漢書」の酷史・樊曄伝で、”寧見乳虎穴”とあるのが、江南地方の書本では、みな誤って”六”に作っている(「漢籍版本入門」陳国慶 研文出版)。

かつて「イ妥」と「倭」についての書き込みの際にも触れましたが、「異体字」ではなく、本来「別字」であるはずの文字に置き換わるということが、特に「地域性」という部分で、見られるのではないかと思うのです。

通行本の「隋書」「北史」「後漢書」と、「太平御覧」に引用された、それら史書の「イ妥」と「倭」の文字について考えるとき、先に挙げたエピソードが、これらの問題の「解答」を示唆しているように思えるのです。

「臺」と「壹」(32) 2002/ 8/31 23:56
メッセージ: 3402 / 3634
 
つまり「邪馬壹国」は、中国の「ある地域」で書写された「魏志」において生まれた「表記」ではないかということです。だからこそ、併せて「臺與」が「壹與」と変わっているのです。

単なる「誤写」と見るには、「念が入っている」と言えます。

「臺」と「壹」、どちらが「陳寿原文」であるか?現在われわれが手にする材料を元に考える場合、「臺」がそれであると結論づけるほかないのではないかと思います。

そして、「又投馬国・・・」であり、「又邪馬臺国・・・」が、「陳寿原文」であったと考えることが出来ると見られることから、やはり「魏志倭人伝」の示している「邪馬臺国」の位置は、「畿内」であると考えざるを得ないと思うのです。

「臺」と「壹」(33) 2002/ 9/ 1 0:08
メッセージ: 3403 / 3634
 
ちょっと、脇道にそれますが、「隋書」に次の記事が見えます。

流求国居海島之中當建安郡東水行五日

この「隋書」の「流求」とは、今日の「台湾」と見られていますので、「建安〜流求」というのは、「台湾海峡横断」の距離だと言えます。これが「水行五日」。「魏志」の頃とは時代が違いますが、参考にはなるかと思います。

「臺」と「壹」(34) 2002/ 9/ 1 0:28
メッセージ: 3404 / 3634
 
この「臺」と「壹」シリーズの途中で、古田説に触れましたが、実は、古田説に真っ向から向き合うということは、ものすごい「戦い」になるということなのです。

古田氏の挙げられる資料は膨大で、その一つ一つに対して「反証」することは、到底、一素人のなし得る業ではないのです。が、幸い、古田説の矛盾というのは、その「根幹」にあります。どんなに「枝葉末節」で正しい論理を組み立てていても、その「根幹」が間違っていれば、そこを突くことで、古田氏の矛盾を指摘することが出来ます。

古田説が世に出されてから三十年を経た今、ほとんど史実としての「正当性」は否定されているものの、なぜ古田説が「誤りと言えるのか?」については、十分な説明が為されていないように思います。

だから、次から次へと、「古田シンパ」「古田チルドレン」が誕生するのでしょう。しかも、「さっと染まった連中」ほど、古田説を我がものとはしていないように見受けられます。それは、古代史関係のトピに書き込んでいる「古田シンパ」「古田チルドレン」とおぼしき人々の理解度を見ても容易にわかることなのです。

「臺」と「壹」(35) 2002/ 9/ 1 23:50
メッセージ: 3411 / 3634
 
これまで一通り、「臺」と「壹」について述べてきましたが、実はまだまだ乗り越えなくてはならない問題があるのです。

それは、「太平御覧」の成立した10世紀終盤から、「冊府元亀」の11世紀前半、それに「通志」の12世紀なかばまでの間に発生した「文字の異同」について、個々に考えてゆかねばならないとということです。

例えば、「太平御覧巻八百二珍寶部 寶 珠上」に引かれる「魏志」見える

倭国女王壹與遣大夫・・・

が挙げられます。これは以前「天誅君大先生」の指摘を受けたことでもありますが、

同じ「太平御覧巻七百八十二 四夷部三 東夷三 イ妥」に引かれる「魏志」には、

卑弥呼宗女臺擧・・・(臺擧はもちろん臺與)

と見えることをどう説明するか?

これと同様のことが「冊府元亀」でも見られます。これはいかに?

「冊府元亀 巻九六六 外臣部 継襲一」の中には、「臺與」とあり、「巻九六八 外臣部 朝貢部一」には「一與」とある・・・。

これらのことをどう考えてゆけばいいのか?大枠での私の考えは動かないと思いますが、十分な確信を持つには、まだまだ思い巡らすことも多々あるようですね。

「臺」と「壹」(36) 2002/ 9/ 2 23:52
メッセージ: 3412 / 3634
 
「太平御覧」と「冊府元亀」での「臺」と「壹(一)」の同居という現象をどう考えるか?

「太平御覧」を見てみると、手元にある「四部叢刊三編本」は、日本の「帝室図書寮」と京都「東福寺蔵」の「南宋蜀刊本」と「岩崎静嘉堂」に存した、旧・陸心源蔵「北宋刊本三百六十余巻」などを用いて影印されている。

それらの中で「南宋蜀刊本」を主としていて、補綴も少なく、定評ありと自画自賛している。

初めの部分を仮に開いてみると「覧目(目次)一 六」「第四十巻」までと「巻四十一」からとでは、字体が突然変わる。そして「覧目」ではなく「巻目」と「中縫」の部分に記してある。それは、「巻目二 四」までで、その次からはまた、以前と同じ「覧目」となり、字体も復する。

つまり、「太平御覧一千巻」といっても、現在我々が目にしているものは、主だったものだけでも、上記3〜4種類の綴りあわせだということだ。

そして、「主とした」といわれる「南宋蜀刊本」にしても、全体としてよく残っていたということで、さて、個々の文字の正誤については、全体の三分の一を残すのみであった「北宋版」に勝るものであったかとうか?

何より重要なことは、この「太平御覧」という書物自身の中に「宋の南遷」という刊本を巡る「激動」を「内包」していると言えるのではあるまいか?

そのような状況下にあって出現したのが、通行本「太平御覧」内での「臺と壹の同居」という現象だったのだ。「北宋版太平御覧」に果たして「臺」と「壹」とが同居していたかどうかは、今となっては知りえない事かもしれない。が、通行本「太平御覧」のテキストとして「北宋本」「南宋本」が混在していること、このことが、その「同居」の原因と考えるほかないのではないかと思う。

「臺」と「壹」(37) 2002/ 9/ 3 22:39
メッセージ: 3413 / 3634
 
一方「冊府元亀」の方は、「台湾中華書局版影印明本」だが、その巻頭「弁言」にこの「影印明本」の来歴が示してある。その末尾に「今宋刻既無完本」と見えて、当然事ながら「宋本」が完本として揃わず、「明本」を影印したことが述べられている。

#3411で挙げた、
>「冊府元亀 巻九六六 外臣部 継襲一」の中には、「臺與」とあり、「巻九六八 外臣部 朝貢部一」には「一與」とある・・・。

のうち、後者の「一與」は「壹與」を略したものだが、これが「冊府元亀」のオリジナルかどうかはわからない。「明本冊府元亀」の時点での文字の錯誤かもしれない。

が、
>「太平御覧巻八百二珍寶部 寶 珠上」に引かれる「魏志」見える「倭国女王壹與遣大夫・・・」から考えると、この「冊府元亀」にしても、案外、当初からその中に「臺」と「一(壹)」の同居があったのかも知れない・・・。

「臺」と「壹」(38) 2002/ 9/ 3 23:08
メッセージ: 3414 / 3634
 
これまで、「臺」と「壹」について、思う所を述べてきましたが、文や例証が簡略に過ぎ、なかなか要領をえなかった面があるかも知れません。そこで、以後、個々のケースについて見てゆくことで理解の一助になればと思います。

その前に、「臺」と「壹」について、極めて要約すれば、

「壹」は、「宋代」の刊本に「初出する」のであって、それ以前に成立した各種史書には、「邪馬壹国」なる文字は「引用・参考・注」のいずれの形でも出現しない。よって、「三国志魏書東夷伝倭人」のオリジナルは「邪馬臺国」である。「裴松之」が注を入れなかったのは、当時数多く存した「後漢」の記録(七家あるいは八家後漢書)に「邪馬臺国」とあったことを示している。「范曄」の「後漢書」は「邪馬臺国」であり、「魏志」のオリジナルも「邪馬臺国」であったから、「裴松之」は当然、注を入れなかった。

ということになります。

ここで、三国志版本の系統について参考・引用した書を紹介しておきます。

至文堂・日本歴史新書「邪馬台国(改訂増補版)」榎一雄・昭和51年11月15日発行¥1200。

の中の「第二章 邪馬台国の位置(一)−本文の系統−」です。

ご注意:この本は著名な本ですが、上記の「本文の系統」という章は「改訂増補版」にのみ設けられています。ぜひご覧になることをお奨めします。

「臺」と「壹」(39) 2002/ 9/ 4 23:14
メッセージ: 3415 / 3634
 
#3394 で「養豚」のことに触れましたが、ここでちょっとご紹介。その前にお断りを。「魏志韓伝」の本文では、「豬」となっており、これは「イノシシ」のことですね。今日の「猪」の文字に当たります。「魏志」と「通志」は「豬」ですが、「太平御覧引用魏志」「文献通考」「通典」「後漢書」「冊府元亀」は「豕」となっていて、意味は「豚、猪類の総称」。

さて、本題に戻ります。これまでたびたび説明してきましたように「魏志」と「通志」とは極めて「並行関係」が強い、と言えます。この「魏志韓伝」「通志」の「養豚」の部分も同様で、この前後の文は両者ほとんど同じです。

「後漢書」と「冊府元亀」はほぼ同じ語順で、「魏志」「通志」のグループとは違います。

問題は、ここでも「太平御覧」です。「太平御覧」は「魏志曰く」といい、「魏志」の「有州胡在馬韓之西海中・・・」を引きながら(事実、「養豚」までは「魏志」の文面とほぼ同じ)、「衣有上無下好養牛豕」という語順は、「後漢書」「冊府元亀」と同じなのです。「冊府元亀」が「後漢書」を引用していることは、前後の文が全く同じで、「魏志」とは相違していることから容易に理解出来ますが、「魏志曰」とする「太平御覧」が、この部分(養豚)のみは、「後漢書」の語順そのままであるというのが、不思議なのです。

だから、「太平御覧」は信用ならない!とは言えないのです。以前にも述べましたが、他の部分では、語順が変わるような引用の仕方はしていないのですから・・・。

いったいどう考えればいいのやら?

「臺」と「壹」(40) 2002/ 9/ 4 23:52
メッセージ: 3416 / 3634
 
さて、それでは個々の文字の異同について触れてゆきたいと思います。

まず「一大国」から・・・。

「魏志」「通志」「太平御覧引用魏志」「文献通考引用魏志」、いずれも「一大国」に作ります。

一方、「一支国」に作るのは「(翰苑所引)魏略」「梁書(北史)」ですね。

この「大」と「支」とは、「梁書」の七世紀と、「太平御覧」の十世紀との間で、誤写が発生したと見られます。

ただ、ここで又不思議なのが、「太平御覧」より約三十年あとに成立した「冊府元亀」では「 支国」と「一」が抜けていますが、「一支国」とあったことが伺えますので、一見「転化」の逆転が起きているように見えますが、これは理由は簡単。

「冊府元亀国邑一」は「梁書」によって文を成しているからです。従って、「支」から「大」への転化は、先に述べたとおりの時期に発生したと考えられます。

「臺」と「壹」(41) 2002/ 9/ 5 0:14
メッセージ: 3418 / 3634
 
一つ謎が解ければ、また一つ・・・。

通行本「魏志」と「太平御覧引用魏志」の文面が相違している部分で、なんと「太平御覧引用魏志」と「魏略」とが類似しているケースがあります。

「魏志」「通志」「文献通考引用魏志」の
「官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里」の部分が、「太平御覧引用魏志」では、「置官與対馬同地方三百里」。「魏略」では「置官至対同地方三百里」。前半は、「対馬国」と同じ内容ゆえの「省略」かと思えるが、後半は「なぜ同じなの?」と考えたくなる。

同様の例は、少し後にも出てくる。「草木茂盛行不見前人好捕魚・・・」が「    人善捕魚」。なぜ、「太平御覧引用魏志」と「魏略」の文面が同じなの?

しかも、「人」は「行くに前人を見ず」と読んでいたのに、「人善く魚を捕らえ」と読む。なんじゃ、こりゃ?

いったい「太平御覧」の見た「魏志」と、通行本「魏志」とは、どれくらい違った「本」だったのか?考えると頭が痛くなる。

「臺」と「壹」(42) 2002/ 9/ 5 22:32
メッセージ: 3420 / 3634
 
「一大国」と順序が後先になりましたが、「対馬国」。

通行本「魏志」では「対海国」ですね。これも経時変化を見ることが出来ます。

まず「対海国」とあるのは、通行本「魏志」の系統(「百衲本三国志」≒「紹煕本」)で、後にこの系統の版本を引いたと思われる「文献通考引用魏志」「大明一統志」です。

「対馬国」とあるのは「翰苑所引魏略」「太平御覧引用魏志」があります。また、少々複雑なのは、「魏志」の刊本の間でも「対馬国」と「対海国」とに分かれるということです。

「紹煕本」より先んじて成立した「紹興本」が「対馬国」ですし、「汲古閣本」「武英殿版」「中華書局校点本」も「対馬国」です。

どうも「対海国」という表記は、「南宋代」に生じたようですね。「馬」と「海」は字面も似ていません。「似ているゆえの誤写」とは思えません。でも、「対海国」という国名があったという証拠は「皆無」ですので、「誤」であることには違いありません。「似ていなくとも」「誤写」は生じるのです。

古田氏にいわせれば、国境の地名は双方からの呼び名など、二つあってもおかしくはない、といわれますが、「対海国」という表記の記録が他に全くありませんから、この反論は却下ですね。そんなことをいうと、「邪馬壹国」「邪馬臺国」のほかに「祁馬臺国」「邪為台国」などいろいろの表記がある「ヤマタイコク」は、「国境の国」ということになります。

また「壹與」「臺與」のほかに「臺擧」とか「臺輿」とか「一奥」とか書かれている「イヨ」は、「国境の人」ということに・・・。少々、悪のりか?

「臺」と「壹」(42)の補 2002/ 9/10 23:09
メッセージ: 3465 / 3634
 
「魏志」の字句の異同について論じてゆけば、「古田説」に触れないわけにはゆきません。よって、書き込みがあっち飛んだりこっち飛んだりしますが、お暇な方は追跡しながら読んでいただければと思います。

「対海国」について・・・。

古田氏は、第一書141頁に於いて、概ね次のように述べられる。

1.「紹煕本」は「北宋咸平本」の「重刻本」である。
2.「紹興本」は、南宋代の学者達が「南宋代」の知識によって「改訂」をあちこちに加えた「改訂刻本」だった。

よって、「紹煕本」にある「対海国」がオリジナルである。

残念ながら、「北宋咸平本」の18年前に成立した「太平御覧引用魏志」も「対馬国」だし、「翰苑所引魏略」も「対馬国」である。「南宋代の知識によって・・・」というのは、的はずれである。

古田氏は「太平御覧」については信用していないので、またぞろ「改訂だ」で済ませるのかも知れない。しかし「翰苑」については、いろいろと解釈を加えて、自説の補強に使われているから、よもや「信用出来ない」なんぞとは仰るまい。

「魏略」は「魏志」が直接参照したか、もしくは、両者共通の「原資料」によって編まれたとも云われるほど、「魏志」と「親密な」関係にある。それに「対馬国」とあれば、そりゃ「魏志」にも「対馬国」とあったでしょう。

これに抗するに、古田氏は「改訂だ!改訂だ!」を乱発するしか方途はないのです。

「臺」と「壹」(42)の補A 2002/ 9/10 23:20
メッセージ: 3466 / 3634
 
ここで、以前ご紹介した、榎一雄著「改訂増補版邪馬台国」から・・・。

僅かに咸平六年の中書門下の牒のついている単行の呉志やいわゆる紹煕刊本の三国志が咸平の刊本を底本として利用しているかも知れないと想像させる程度である。その想像が当たっているかいないかは、厳密にテキストの比較をしてみた上で決定せられるのである。それには今後長い時間を必要とするであろう。従ってはっきりもしていないのにこれは紹興刊本だとか紹煕刊本だとか決めてかかり、そのどれが絶対に信頼に値するテキストだなどと軽々しく妄断して倭人伝を研究するのは、研究の第一歩を誤っているものである。そうして誤った独断の上に立ってどんな理屈を並べてみたところで、全く意味がないというよりは、並べれば並べるほど間違ってしまうというほかはない。

上記、榎氏の著書が刊行されたのが昭和53年。古田氏の「『邪馬台国』はなかった」(昭和46年)を意識しての文であろうことは容易に推測出来る。

「臺」と「壹」(43) 2002/ 9/ 5 23:17
メッセージ: 3421 / 3634
 
少々、マイナーな「異同」を。

例の21ヶ国のなかの「都支国」ですが、これも版本間で表記が分かれます。「百衲本」「武英殿版」「紹興本」は「都支国」なのに、「汲古閣本」は「郡支国」。以後、引用は「通志」「文献通考」「大明一統志」が「郡支国」。

これも、さきの「対馬国」と同じように、「魏志」の刊本間でも複数の表記がそのまま受け継がれてゆくありさまを見ることが出来ます。

ついでに「女三国」も。有名な「女王国以北」が「紹興本」では「女三国」になっています。さすがに、これはほとんどの版本でも「女王国」ですね。「王」の縦棒が「虫食い」か「破れ・かすれ」で読めなくなり、「三」と読まれたのでしょうねぇ。そこまで「忠実に」やるか?

ここまで見てきてもわかるとおり、正史やそれに準じる書物にしても、完璧な校訂など出来ていないということです。そりゃそうでしょう。文意の通じる・通じないの校訂はするでしょうが、他の文献の該当部分と比較して固有名詞まで校訂するなんて、ムリというものではないでしょうか?特に夷狄の国名・人名など・・・。

「臺」と「壹」(44) 2002/ 9/ 5 23:52
メッセージ: 3422 / 3634
 
「景初二年」について。

これは「景初三年」が正。「日本書紀引用魏志」にも「景初三年」。他に「三年」とするのは「通志」「太平御覧引用魏志」「翰苑所引魏志」「梁書」。

「日本書紀」の編纂は、当然「刊本魏志」の成立より遥か以前の出来事。ここに「景初三年」とあることは、如何ともしがたい。まさか、「日本書紀」の編者が「魏志」の「景初二年」を見ながら、他の史書(例えば「梁書」)の「景初三年」に引きずられて「景初三年」と書いた、とか、「日本書紀」も初めは「二年」だったが、その後の書写の段階で、「三年」に改訂された、とかの抗弁をする人はいるまい。

ただ、「二年」がどこから出てきたか?については、単なる「誤写」の可能性の他に、「通典」の次の記事に引きずられた可能性は考え得る。即ち、

景初二年司馬宣王之平公孫氏也(「唐類函」引用「通典」では、「司馬懿之・・・」とある)

の文。この「二年」が「犯人」かも。因みにこの部分は「魏志烏丸鮮卑東夷伝高句麗」条の次の文に依っている。

景初二年太尉司馬宣王率衆討公孫淵

どちらにしても「三年」は動きませんね。

ついでに「北史」では「五年」。「景初」は「三年」までしかないのは周知の事実。「三」が「五」に見えたから、「五」にした・・・。かなりいい加減ですねぇ。

「臺」と「壹」(45) 2002/ 9/ 6 0:22
メッセージ: 3423 / 3634
 
「臺」と「壹」(26)で、

>「太平御覧」に引用された「魏志」には「邪馬臺国」とあり、また、かの「旅程記事」も「又」の連鎖でつながっていたと見るのが相当だと言えます。

と書きましたが、結局のところ、「陳寿」のオリジナルを肝心な所で留めていたのは
「太平御覧」に引用された「魏志」だったのではないかという事になります。

このことの意味する所については、また明日!

「臺」と「壹」(46) 2002/ 9/ 8 23:12
メッセージ: 3449 / 3634
 
「日本国見在書目録」によれば(←いきなりはじまる!)9世紀我が国に渡来していた漢籍の中に「漢書」「後漢書」「三国志」の名が見える。

また、遡って「続日本紀」称徳天皇神護慶雲三年(769年)十月の条に下記のように見える。すなわち、

大宰府言。此府人物殷繁。天下之一都會也。子弟之徒。學者稍衆。而府庫但蓄五經。未有三史正本。渉獵之人。其道不廣。伏乞。列代諸史。各給一本。傳習管内。以興學業。詔賜史記。漢書。後漢書。三國志。晋書各一部。

かの「三国志」がこの時点で朝廷にあったことが伺える。#3422で、「日本書紀」に「魏志」が引用されていることに触れたが、上記二書は、このことを裏付けるものと言える。

「日本国見在書目録」に見える「三国志」は「裴注」のものであり、遣唐使など、当時の官民の交易によって我が国にもたらされたものだろう。

「日本書紀」の文が、「芸文類聚」からの借用だということは、以前「天誅君大先生」から指摘をいただいていましたが、他にも「漢書」「後漢書」「梁書」「隋書」からも借用しているようですね。

以上によって、「景初三年」は動かず、古田説の一角が崩れることとなります。

注)「日本国見在書目録」(にほんこくげんざいしょもくろく)は、9世紀、宇多天皇の勅命を受けて藤原佐世が編纂したもので、当時我が国に存在していた漢籍の総合目録です。書名は1579部、16,790巻にのぼるといいます。

「臺」と「壹」(47) 2002/ 9/ 9 0:10
メッセージ: 3450 / 3634
 
さて、かの古田氏は当然、この「日本書紀」の「景初三年」についても言及される。「『邪馬台国』はなかった」134頁。

明帝は景初三年一月に急死した。だから、「明帝景初三年六月」などというのは、架空の年月日だ。先の『梁書』のような理路から、「景初二年」を「景初三年」に改訂した。ところが、帝記に明記された明帝の急死すら、この改訂者は知らない。ひどい粗雑さである。「魏志に云ふ」などと一見直接引用文のようにみえても、このような「後代改訂の手」の加えられた文面を「証拠」として、『三国志』の原文を「改訂」することは許されない。

古田氏の言われる「梁書のような理路」というのは、「梁書」が「景初三年」とするのは、編者「姚思廉」の「改訂」であり、それは「戦中の遣使などできない」という考えだという。「日本書紀」の「景初三年」を記した編者も「梁書」とおなじ考えで「景初二年」と見ながら「景初三年」と改訂したというのだ。

実に馬鹿馬鹿しい反論だ。なぜなら、「戦中の遣使」などと考えると云うことは、この編者が「三国志」を通じて、当時の情勢を把握していたことを意味する。古田氏自身も同書128頁、「五つの疑いを解く」の中で、「魏の情勢」の史料として、(1)〜(5)と挙げられるが、そのうちの(1)〜(4)には「明帝記」を挙げられる。つまり、「戦中の遣使が出来ない」証拠としてあげられている。

翻って、「姚思廉」や「書紀」の編者が「戦中の遣使が出来ない」と考えるに至るには、上記「明帝記」を読まなければならないはずだ。少なくとも古田氏はそう説明している。

「明帝記」によれば、魏を巡る情勢は険しく「戦中の遣使など出来ない」、だから、「戦後の遣使」すなわち「景初三年」に「改訂した」と云われるわけだ。

あれ?おかしいじゃない!古田氏は、同書134頁で、「帝記に明記されていた明帝の急死すら知らない」という。

一方では「帝記を読んだ」といい、もう一方では「帝記を読んでいない」という。

これでおわかりでしょう。古田説の「論理」というものが・・・。結局、「日本書紀」の「景初三年」を「景初二年の改訂」だとする根拠はなく、やはり「日本書紀」の編者の見た「三国志」にも「景初三年」とあったのです。

「臺」と「壹」(42)の補B 2002/ 9/10 23:50
メッセージ: 3467 / 3634
 
榎氏が、古田氏を意識していたのではないかと窺わせるところの一つに「牒」がある。古田氏は、第一書の140頁に写真入りで「北宋咸平六年の牒(紹煕本)」を紹介している。この「蜀志」の「牒」については、榎氏の「改訂増補版邪馬台国」の30頁に詳しく解説してある。

「咸平六年の牒」が「蜀志」にあるから、この「紹煕本」は「北宋咸平本」の「重刻だ」というのは、あまりに浅い認識だというのが理解されうると思う。

そればかりか、張元済氏の意見を引用して、

「いわゆる紹煕刊本がどういうテキストにもとづいたのか見当がつかないことになる。従ってそれはそれ以前に出ていた刊本のどれかか、或いは当時行われていた写本の三国志の一つであったろう」

といわれる。張元済氏のことは古田氏も引用されているが、引く人によって読み手に与える印象が逆になる。

なお、古田氏が139頁で、「百衲本二十四史」の「三国志」が「皇室図書寮」にあった古版本によったと述べているのは、早合点である。榎氏の著32頁に次のようにある。

「百衲本は、少し誇張していうと、その大半近くが書陵部本とは別の本ではないかとさえ思われるものである」

詳しくは、同書32−33頁を。

しかるに、榎氏は38頁で次のようにも述べておられる。

「以上、三国志の宋版について極めて初歩的なことを述べて来た」

そして、「本文の系統」の最後で述べられたことを「肝に銘ずべき」ことであると信じるものである。すなわち、

「倭人伝のテキストはすべて独立で対等の価値を主張しているのである。それを検討し取捨して、どれに従うべきか定めてゆくことこそ倭人伝の研究なのである。これは宋版のみではない。系統のはっきりしない場合には、宋以後のあらゆる版本にも適用される事実である。否、三国志とか魏志とかいう成書の形をもつもののみではない。魏志倭人伝として引用されているもの、或いは魏志倭人伝と明記されていなくても、魏志倭人伝に依ったと考えられるあらゆる引用文についても言えることなのである」

「臺」と「壹」(48) 2002/ 9/11 0:39
メッセージ: 3468 / 3634
 
ついでに「会稽東冶」について・・・

古田氏はこれも「魏志」にある「会稽東治」が正しいとされる。これについて諸本を見てみよう。「紹興本」とほぼ同時期の成立である「通志」には「会稽東冶」とある。他にも「晋書」「後漢書」は「東冶」だ。「冊府元亀土風一」は「東治」。これまた、北宋代あたりに混乱が発生したと見られる。

なお、古田氏は「会稽東治」の意味をぐたぐだと解説しておられるが、ご自分が挙げた「呉志」の例は「会稽東冶」で、まさに「邪馬台国時代」の真っ最中。しかるに古田氏曰く。これは「陳寿の地の文なので、執筆時点の名称云々・・・」。

執筆時点で云うなら、かの「臺」字は「容斎続筆」に依れば、「晋宋の間朝廷禁省を謂いて臺となす」とある。「范曄」が「後漢書」を書いたのも「宋」なので「邪馬臺国」なんて書けるはずはない。

「後漢書倭伝」の冒頭。「倭在韓東南大海中・・・」。「范曄」が「後漢書」を記したのが5世紀。そのころ「韓」なんてどこにもありません。いや、「倭王」の「将軍号除正」には出てきますがね・・・。もっと挙げてもいいけど、時間の無駄。結局、「会稽東冶」でなんの不思議もない!ってこと。

「臺」と「壹」(48)の補 2002/ 9/13 23:52
メッセージ: 3477 / 3634
 
「後漢書」の「会稽東冶」について・・・。

「後漢書倭伝」には、「其地大較在会稽東冶之東」とあります。また、「倭伝」の末尾、「東[魚是]人」「夷州」「[サンズイ+亶]州」の記事中、

「人民時至会稽市会稽東冶県人有入海行・・・」とあります。この文は「三国志呉志孫権伝黄竜二年」の中の、以下の記事とほぼ同じですね。

「人民時有至会稽布会稽東県人・・・」

この前後の文も、「後漢書」と「呉志孫権伝」ではほとんど同じですから、「後漢書」が「呉志」によったか、両者共通の原資料に依ったか、でしょうね。

「臺」と「壹」(48)の補A 2002/ 9/14 0:38
メッセージ: 3478 / 3634
 
本日、某所にて「中国歴史地名大辞典」というものを拝見することが出来た。

(株)凌雲書房 1980年初版発行 原著:劉鈞仁 編者:塩英哲 定価:144,000円也。

とても手が出ない!

それによると、

漢置冶県。後漢曰東侯官。故城在今福建[門+虫]侯県東北冶山之麓。漢時交跡貢献、皆由東冶[サンズイ+乏]海而至。


とあります。以後、時代的な記事はありません。「東冶」というのは「冶県」とか「冶山」の「冶」と、「東侯官」の「東」とを組み合わせて県名にしたのでしょうか?「福建州」が「福州・建州・泉州・汀州・[サンズイ+章]州の初めの二州の「福」と「建」とを併せて「福建」としたように・・・。

いったいその後、「東冶」はどうなったんでしょうね?どなたか詳しい方、ご教示を!

「臺」と「壹」(48)の補B 2002/ 9/16 1:03
メッセージ: 3479 / 3634
 
王先謙「後漢書集解郡国志四会稽郡」には、実に詳細に亘って「会稽郡」の来歴が記してある。その中に「東冶」についても縷々述べられているが、それを見てちょっと思ったことを・・・。

「魏志」に「会稽東治」とある、この「治」について、ま、単純に「ニスイ」と「サンズイ」の「誤」とするのが最も理解しやすいのだが、ちょっとうがった見方をすれば、次のようなことも考えられる。

上記「後漢書集解」のその部分には、よく見ると「府治」「郡治」「都尉治」という言葉が出てくる。「治」とは「治所」のことだ。従って「東治」を「東侯官」の「治所」すなわち「東治」とする解釈も出来ないだろうか?ちょっと苦しいか?

何しろ、この「後漢書集解」にも「会稽東冶」「会稽之冶県」「東冶」などボロボロ出てくるので・・・。一方「東治」という言葉は出てこない!

「臺」と「壹」(48)の補C 2002/ 9/16 1:56
メッセージ: 3480 / 3634
 
ついでに・・・。

古田氏の「『邪馬台国』はなかった」106頁に次のような記述がある。

@1〜2世紀 会稽東冶
A3世紀後半 建安東冶
B5世紀   会稽東冶

@はもちろん、実在する。問題はA〜Bだ。古田氏も言われるように、三国呉の永安3年(260)にそれまでの「建安県(後漢献帝の建安12年=207年に年号にちなんで立てられた)」を「建安郡」とした。ところが、「建安東冶」という表記があるのか、確認出来なかった。古田氏自身、同書104〜105頁で「会稽」と「建安」の例を挙げておられるが、「会稽東冶」はあっても「建安東冶」はない。

下って「東晋(317〜420)」代に「建安県」と改められた。かつて「東冶」は「県名」だっから、この時点で「建安東冶」という表記は考えにくい。両方とも「県名」ということになるからだ。

唐の「武徳年間(618〜626)」に「建安郡」を「建州」と改めた。

このような経緯を見るに、古田氏の言われるA「建安東冶」もB「5世紀の会稽東冶」も実在が疑わしい。106頁に古田氏が述べられている「范曄の時代(南朝劉宋・五世紀)にもまた、「建安郡」という郡名はすでに行政上姿を消していたことである」は、「郡名」としては言い得ても「地名」としてはあったので、Bの「5世紀に会稽東冶」というのは、事実の裏付けがあるのか、今のところ私の知るところではない。

以上のことは、古田氏の「東治」説に対する直接の反論と云うより、古田氏の論理に対する「信憑性」の検討材料としてあげてみた。「東治」説に対する反論は、既にトピを重ねて述べてきたので、ここでは繰り返さない。

「臺」と「壹」(48)の補D 2002/ 9/16 23:46
メッセージ: 3486 / 3634
 
古田氏の言われる「5世紀の会稽東冶」の裏付けは、今のところ私は取れていない。

「後漢書」の編者「范曄」が、当時の呼称「会稽東冶」によって文をなした。今までの学者は「後漢書」の権威に従って、「三国志」の文面を軽く見ていた、と古田氏はいわれる(第一書106頁要旨)。

ところが、5世紀に「会稽東冶」という呼称が無かったならば、古田氏の推論は根拠を失う。「范曄」は、原資料にあった「会稽東冶」をそのまま襲ったに過ぎないという、常識的な推定が正しいということになる。
ところで、その後「建安東冶」について否のような文を見たので、紹介しておく。

「晋書地理志五」
建安郡 故秦[門+虫]中郡漢高帝五年以立[門+虫]越王及武帝滅之従其人名為東冶又更名東城後漢改為侯官都尉及呉置建安郡統県七戸四千三百

「後漢書集解郡国志二十二会稽郡」
謝云地闕呉表建安郡有東冶県又別出侯官章安然弧証並闕之

後者の文はよく意味がわからない。誰か、解説していただけるとありがたいが・・・。

「臺」と「壹」(48)の補E 2002/ 9/17 23:22
メッセージ: 3492 / 3634
 
ひつこい・・・って云われそうですが、せっかく「会稽東冶」について探求してきましたので、発見したものはご報告を、と思いまして、続きを!

私の所有しております「仁寿本二十六史」のうちの「後漢書」を開いてみました。この「仁寿本」の「三国志」は「百衲本」と同じものであることは、以前にもご紹介しました。違うと云えば「百衲本」の方に「帝室図書・・」という巨大な「印」が押してあることくらい。

で、「仁寿本」は「そんなもん」と思っていたのですが、「後漢書」はちょっと様子が違いました。「百衲本」のほうにしても「三国志」よりはなかなかムズカシイ環境の中での刊行だったことが「百衲本二十四史後漢書覆校記略」に記してあります。

ところが、「仁寿本」は、その底本が「百衲本」とは違うのです。「百衲本」は主に「南宋紹興本」を用いているのですが、「仁寿本」のほうは「南宋福唐郡庠重刊・北宋淳化監本」の影印だというのです。

何をぐだぐだ云ってるかというと、上記両者は別の版本を影印していると云うこと。「倭伝」の部分もはっきりと違います。そして・・・(改ページ)

臺」と「壹」(48)の補Eの補 2002/ 9/18 23:20
メッセージ: 3497 / 3634
 
「仁寿本」の底本を「南宋福唐郡庠重刊・北宋淳化監本」としましたが、実は「百衲本」も「百衲本二十四史後漢書覆校記略」のなかで、「故宮博物院」所蔵の「南宋福唐郡庠景祐監刊元代修補本・・・」とあります。

この「南宋福唐郡庠」の「庠」というのは、「古代の学校」「田舎の学校」という意味らしく、「福唐郡」というのは「福州」の県名としては見えますが、郡名では検索にも引っかかってきません。おそらく同じ場所だと思います。「太平広記巻四百二十九虎四」の「張逢」という人物の話の中で、「福州福唐県」という記事が見えます。


また「景祐」というのは「北宋第四代仁宗」の年号で、以前紹介した榎氏の著作によれば、「景祐元年(1035)」に「史記」「(前)漢書」「後漢書」「三国志」を校訂させた、とありますから、このときの「後漢書」かも知れません。「監刊」というのは、各王朝の「国子監(文部省)」が刊行した書物のこと。それを「元代」に補修したものが、台北の「故宮博物院」に所蔵されており、それに基づいたという意味でしょう。


つまり「庠」という「田舎の学校」にしか残っていなかった刊本を本にしていると云うことではないでしょうか。朝廷や貴族などのところにあったはずの、それらの書籍は動乱の中で、ことごとく滅んでいったのでしょうか?

「臺」と「壹」(48)の補F 2002/ 9/17 23:46
メッセージ: 3494 / 3634
 
あの「東[魚是]人」の記事の後に出てくる「会稽東冶県人」が、「仁寿本後漢書」のその部分では、はっきりと「会稽東治県人」となっています。

この東[魚是]人の記事は「後漢書巻七十五 十四」ですが、一つ前の葉「十三」即ち「倭人」の記事中には、これまたはっきりと「会稽東冶の東」とあります。

ご承知の通り「百衲本」の「後漢書」の当該部分は、両方とも「東冶」です。

古田氏の言われる「東治」というのは、夏后少康の子の会稽王としての治績(第一書107〜108頁)のこと。が、「会稽東治県」では意味が通じません。「県」が入ってないから、「会稽東治」で「会稽王としての治績」という解釈を生み出せた訳ですね。

この「仁寿本後漢書」の「東冶」「東治」の例は、実に見事に「冶」と「治」の誤写の例を示しています。しかも、すぐ近接した十三葉と十四葉。前に「東」がついた「東冶」と「東治」。

はい、間違えるんです。いつでも、どこでも、どんな文字でも、間違いは発生するのです。

「mutouha」さん、これでおわかりいただけたでしょうか?

「仁寿本後漢書」 「百衲本後漢書」

やあ、お久しぶりですね! 2002/ 9/12 23:27
メッセージ: 3470 / 3634
 
「mutouha」さん。いや、毎日のように書き込みしてる我々の方が、ちょっとおかしいのかも・・・。

昨日は、例の特集番組を見てて、そのまま寝ましたので、レス失礼しました。

さて、
>「会稽東治」

という「つっこみ」ですね。諸本を見てみますと「通志」は「東冶」ですね。それより、「晋書」「後漢書」が「東冶」ですから、「東冶」でいいんじゃないんでしょうか?

「東治」とあるのは「魏志(諸版本)」と「冊府元亀土風一」です。

>三国志の中に他にも会稽東冶が出てきますがこちらは間違えていない。

は、当然のご指摘ですが、他の場所で間違わなかったから、ここでも間違わないはずだ、というのは少々説得力が弱いと思います。

例えば、「紹興本」の「女三国」については前にもご紹介したと思いますが、「倭人伝」の中に「女王」「女王国」というのは、何カ所か出てきます。でも、他の場所では間違っていない。「女王国」というのは固有名詞ではなく、普通名詞ですから、文意から見て、固有名詞よりは間違いにくいと思います。「女三国」ではなんのことかわからないでしょう。でも、

「自女三国以北其戸数道里可得略載・・・」

となっているのです。

ところで、「会稽」というのは、わりと後まで地名として残っていたようですね。現在の地名「紹興」ですので、例の「紹興本」のころには、すでに「会稽」よりも「紹興」という名で通っていたようで。また「会稽郡」というともっと広い範囲で、現在の「浙江省」「福建省」のあたりのようです。「会稽」というのは古来、有名な地名でした。が、「東冶」というのはどうでしょう?唐代あたりからは「福州」と呼ばれていたようですので、「北宋代」「三国志」が刊行された頃、はたしてそれほど著名な地名だったのでしょうか?

このあたりのことは、中国史家にご教示をいただきたいところですがね。

>そして明らかに魏志をコピーしたと思われる後の史書からは東冶(治)は消えている。

の意味がいまいちよくわかりませんでした。「東治」も「消えている」という意味でしょうか?またお暇の時にでもレスを下さい。

「mutouha」さんは「影印本」の史書をひらいてみたことがおありでしょうか?「スゴイ!」と思いながらも、「ありゃ?これゃなんだぁ?」と思う部分があって複雑な気持ちにさせられると思いますよ。

「臺」と「壹」(49) 2002/ 9/12 23:46
メッセージ: 3471 / 3634
 
>また明日!

といいながら、もう五日も過ぎてしまいました。いや、六日か・・・。

>結局のところ、「陳寿」のオリジナルを肝心な所で留めていたのは、「太平御覧」に引用された「魏志」だったのではないかという事になります。


結論を先に云っておきます。「卑弥呼」の都した国名は「邪馬臺国」。「邪馬臺国」への旅程は「順次式」に読むべきもので、「水行陸行」の日数から、「畿内」と考えるのが相当ということになります。

通行本「魏志倭人伝」と他の史書との間の文字の異同については、ほとんどの部分で他の史書の方が、「陳寿」のオリジナルを留めている。

「北宋」の第三代真宗の咸平五年に初めて「三国志」が刊行されたときに用いられた「底本」は、その二十年ほど前「太平御覧」の編纂時に参照された「三国志」とは「別物」で、新たに集められた写本の中の、より「体裁よく保存されていた」ものだったのではないか?

そう考えることによって、「諸本」間に見られる「字句の相違」が、最もよく説明出来ると考えられるのです。

ところが・・・

「臺」と「壹」(50) 2002/ 9/12 23:51
メッセージ: 3472 / 3634
 
>ところが・・・

この本には「邪馬壹国」と書いてあった!

これについて、「臺」を「壹」と改めたのは、刊本の編者で、「宋代」の「攘夷思想」のなせる業だ!と唱える方もおられます。なるほど、と思いたくなりますが、他の部分の「文字の異同」についての説明には援用出来ません。やはり、やや特異な「写本」の出現を想定した方が、よりよく説明出来るのではないかと思う次第です。

「臺」と「壹」(51) 2002/ 9/18 23:40
メッセージ: 3498 / 3634
 
さてさて、「邪馬臺国」を「畿内」とするには、まだまだくぐらなければならない関門がありますね。

「南」

これは、どう見たって「南」。どの刊本、史書を見ても「南」。どうすることも出来ない。「陳寿」のオリジナルが「南」であったことも、100%確実だ。

その上で、「邪馬臺国」が実際に、北部九州から見て「南」にあったのかどうか?を考えねばならない。

「会稽東冶の東」という記事から、当時「倭」の世界が、韓半島の東南大海中に南北に長く存在していたという認識を示しているのではないかと思う。

なぜそのように考えるのか?それは又、明日の・・・。

>沖縄や鹿児島 2002/ 9/19 22:55
メッセージ: 3501 / 3634
 
沖縄はいいとして、鹿児島は少々「北」すぎませんか?「会稽東冶」から見て・・・。

「会稽東冶」というのは、「会稽郡」の「東冶県」ですから、現在の福州市。台湾海峡の西岸ですね。

「魏志」などに「会稽東冶之東」と出てくるのは、どうも「倭」というものを、中国南部との絡みで理解しようとする意識が史家の間に「常識」としてあったからではないかと思えますね。「(呉)太伯之後」とか「夏后少康之子」とか「徐福」とか「会稽東冶県人」とかが登場しますが、華北の人は出てこない。

日本列島が、北部九州を北端として、南北に長くのびていれば、ちょうど「畿内」は「会稽東冶」の東あたりに位置することになるんですが・・・。

「臺」と「壹」(52) 2002/ 9/19 23:43
メッセージ: 3504 / 3634
 
以前、「魏志倭人伝」も、綴り合わせだ、と言ったことがありましたが、そのことについて・・・。

「狗奴国」の位置についてですが、
「魏志」には、例の21ヶ国の最後の「奴国此女王境界所盡其南有狗奴国・・・」とあります。別の所で「女王国東渡海千余里復有国皆倭種」。
「後漢書」は、「自女王国東渡海千余里至拘奴国雖皆倭種而不属女王・・・」

一見すると、「後漢書」の「狗(拘)奴国」観は、「魏志」の二つの部分の記事を「合成」したように見えますね。さて、どちらが正しいのか?

その前に、かの「21ヶ国」の最後の「奴国」のあとに「其の南」とある「狗奴国」は、「奴国」の南にあるのか、「女王国」の南にあるのか?つまり「其の」というのは「奴国」にかかるのか?それとも「女王国」にかかるのか?それによって、ずいぶんと「女王国」の位置観が変化するのではないかと思います。

湖南・内藤虎次郎の「卑弥呼考」によれば、「其の」は「奴国」にかかるとの解釈で、当然「狗奴国」は九州中南部、「狗古智卑狗」は「菊池彦」としています。

一方、内藤の論敵・白鳥庫吉は「倭女王卑弥呼考」のなかで、「狗奴国」は「河野氏」で、「狗古智卑狗」は、河野氏の遠祖「子致彦」ではないかと言います。

これら両者の論文はいずれも明治四十三年の夏に発表されており、邪馬台国論争の基本理論の双璧だと言えるでしょう。

(つづく)

「臺」と「壹」(53) 2002/ 9/20 23:33
メッセージ: 3505 / 3634
 
湖南の「菊池彦」にしろ、白鳥の「河野子致彦」にしろ、唸りたくなるような比定ですね。「狗奴国」の比定で、この両者を越えるものは、未だ出てはいないと云っても宜しいかと思います。どちらかが正解!という意味ではなく、実によく出来た「比定」だという意味で・・・。

この両者は、一言で云えば、「邪馬台国」と「狗奴国」を巡る「絵図」をどのように描くか?と言うことに尽きるでしょう。

そこで、私は「其の南」について少々考えてみたいと思います。

「魏志」「通志」「文献通考所引魏志」はいずれも「其南有狗奴国」となっています(「文献通考所引魏志」は「後漢書」と同じく「拘奴国」ですが)。この三書が同じ表現なのは当然のこと。

一方「太平御覧所引魏志」と「翰苑所引魏略」は「女王之南有狗奴国」となっています(「翰苑所引魏略」は「拘」の字に似て、扁が「壮」の扁(ダイorショウヘン)。

ここでも、上記二書が共通の表記を見せています。ここだけの事だったら、それぞれの編者が、「其の」の意味を「女王国の」と捕らえて書き直した、と考えられないこともないのですが、これに続く部分でも、通行本「魏志」よりは「魏略」のほうが「太平御覧所引魏志」に近い表記となっています。

「臺」と「壹」(54) 2002/ 9/20 23:55
メッセージ: 3506 / 3634
 
「これに続く部分」とは、

1.「二書」の「不属女王也」の「也」が「三書」には見えない。
2.「二書」では「自帯方至女国」。「王」の字が無い。
3.「三書」の「男子」の前に、「二書」には「其俗」がある。
4.「二書」にはある「聞其旧語自謂太伯之後」が、「三書」にはない。
などです。

つまり、以前から私が主張しているように、「太平御覧所引魏志」と「魏略」とは、相当親しい関係にあるのではないかと考えられます。「陳寿」の「魏志」のオリジナルも、上記「二書」とほぼ同じであったろうという推定をしているわけです。

この推定に立つと、「狗奴国」の位置はどうなるか?「女王国の南」ということになります。かの「二十一ヶ国」は、いわば「付録」として挿入されたものでしょう。

それは、次の表現からも窺えます。すなわち、

「自女王国以北其戸数道里可略載〜二十一ヶ国〜女王之南又有狗奴国・・・」

この「二十一ヶ国」を飛ばして読んでみてください。「女王(国)」の「北」と「南」が記載されているのです。

つまり、「倭の世界」というものは、「南北に連なっている」という理解の元に、「魏志」や「魏略」の元ネタ(「王沈」の「魏書」という説もありますが)が書かれたのではないかと考えられるのです。

このような考えに至ったについては、もう一つの史料の存在がポイントになりました。それは又、明日のお話としましょう。

「臺」と「壹」(55) 2002/ 9/21 23:53
メッセージ: 3507 / 3634
 
>もう一つの史料

とは、「広志」です。これは唐の張楚金の「翰苑」に引用されていて、成立は西晋代(280年頃)とされています。ただし、この「広志」そのものは既に滅びて伝わらず、いろいろな書物に引用された形で残っているのです。「翰苑」もその一つです。

また「翰苑」そのものも大陸では伝わらず、我が太宰府天満宮に、平安時代の写本として伝わるのみなのです。昭和29年に国宝に指定されています。

この「翰苑」には「倭国」の部分だけでも「後漢書」「魏略」「宋書」「広志」「括地志」などの書物が引用されており、宋代各書が刊行される以前の姿をうかがう貴重な資料と言えます。

この「翰苑」を見るだけでも、「古田説」の矛盾が露呈するのですが、横道にそれますので、機会を改めます。

「臺」と「壹」(56) 2002/ 9/22 0:20
メッセージ: 3508 / 3634
 
その「広志」の文面ですが、「魏志」などと相近い文面を見せています。ところが、例の21ヶ国のうちの「斯馬国」「巴百支国」「伊邪国」の3ヶ国のみが記されています。そして、その後には、他の史書に見えない「安倭西南海行一日有伊邪分国」などと云う記事が見えます。

つまり、「広志」も「魏志」「魏略」と同じ史料を元にして書かれた部分があり、また、他の史書が用い得なかった史料を使った部分もある、と言うことになります。

例の「21ヶ国」は、従って、「魏志」「魏略」「広志」が共通して参照した史料には「魏志のような形では」無かった、ということですね。

この「21ヶ国」部分は、ひょっとしたら、「陳寿」が独自に用いることができた倭の国々の名前の史料を「挿入」したのではないか?

早い話、「倭」について「陳寿」が主に使用した史料には、「21ヶ国」の名は無く、「女王国」の「北」と「南」の記事が連なっていたのではないかと考えるのです。

以下、「翰苑所引広志」を挙げますが、書写本なので、原文は漢字が「体を為していない」ところが多々あります。このような本を見て「誤写するな」という方がムリのような気がしますが、とりあえず・・・。

倭国東南陸行五百里到伊都国又南至邪馬嘉国百女国以北其戸數道里可得略載次斯馬国次巴百支国次伊邪国無布帛以革爲衣盖伊耶国也

「臺」と「壹」(57) 2002/ 9/22 22:32
メッセージ: 3511 / 3634
 
そもそも、「倭=南方」観というのは時代的に見て、どのあたりまで遡ることが出来るのでしょうか?

まず「漢書地理志八下」にある有名な一節。
「夫楽浪海中有倭人分為百余国以歳時来献見云」
また、その如淳注に「魏略」を引いて、
「倭在帯方東南大海中依山島為国度千里復有国皆倭種」

これは「燕地」の記事ですから、中国南部との関わりは意識されてはいないようです。
ただ、同じ「漢書地理志八下」「呉地」には、「会稽海外有東[魚是]人分為二十余国以歳時来献見云」とあります。「後漢書」の記事は、ここから引っ張ってきたことが窺えますし、また「同粤地」では、「文身断髪以避蚊龍之害」とか「貫頭衣」など倭の風俗に関するおなじみの記事が見えます。

もちろん、これら「漢書」の「南方的」風俗は「倭人」についての記事ではないのですが、「魏志」では「倭人の風俗」として記載されていますね。

また、「山海経」には次のような記事も見えます。
「盖国在鉅燕南倭北倭属燕」。そして、その注に、どの文献からの引用かはつまびらかではないものの、
「倭国在帯方東大海内以女為王其俗・・・」。

「東[魚是]人」の記事を除けば、この頃までは、まだ「倭」は、「燕」に近い・・・との認識があったようです。

「臺」と「壹」(58) 2002/ 9/22 22:56
メッセージ: 3513 / 3634
 
それでは、「後漢書」ではどうでしょうか?「倭在韓東南大海中・・・」というおきまりの文ではなくて、「金印紫綬」の部分でちょっと気になるのは、
「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使自称大夫倭国之極南界也」。

この「倭奴国」が「魏志」に云う北部九州の「奴国」だとしたら、「極南界」とはどういう意味なのか?

無論この問題にもこれまで多くの人が、見解を発表してきましたが、未だに「これでよい!」というものは出ていないようですね。

ただ思うのは、「倭の世界」というものが、何かとてつもなく「南に伸びている」ような印象をこの「極南界」から受けるのではないでしょうか?

「臺」と「壹」(59) 2002/ 9/24 0:00
メッセージ: 3514 / 3634
 
>極南界

のもう一つの解釈として、倭の世界を朝鮮海峡を挟んだ海峡国家としてみる捉え方がありますね。かの「漢委奴国王」の金印が志賀島から出土していることから見ても、相当の説得力を持つ考え方と言えます。

時あたかも、北部九州は弥生文化の花咲く頃。文献と考古から見て「これで決まり」と言いそうになるのですが、いや、ちょっと待て!もう少し「後漢書倭伝」をよく読んでみよう。

そうそう、「倭伝」なんですね。
「凡百余国自武帝滅朝鮮使駅通於漢者三十許国国皆称王世世伝統其大倭王居邪馬臺国」なんですよね。ん?じゃ、「倭国之極南界」の「倭国」って、な〜に?「海峡国家」なら、この海峡を挟んで三十とか百とかの国々があったの?そりゃちょっと無理な相談。

「安帝永初元年倭国王帥升」の「倭国」、「桓霊間倭国大乱」の「倭国」って、な〜に?冒頭の「大倭王」との関係は?「女王国」と「倭国」は違うの?

ちょっとォ、「范曄」さん!いったいどうなってんのォ?

「臺」と「壹」(60) 2002/ 9/24 0:12
メッセージ: 3515 / 3634
 
どうも「范曄」さんも、いろいろ史料を並べて書いたようですね。「後漢書」ですから、「後漢代」のいろいろな史料をかき集めて書いたのはいいのですが、どうも五世紀の「雑音」が混じってんじゃないかって、疑いたくなります。

「范曄」の青春時代は、ちょうど「倭の五王」の「南朝劉宋」への遣使が始まった頃。な〜んか、この頃の「倭国」についての情報が先入観として「范曄」の頭の中にあったんじゃ?そう疑いたくなるような記述ですね、「大倭王」なんて・・・。

「臺」と「壹」(61) 2002/ 9/24 22:46
メッセージ: 3516 / 3634
 
「倭=南方」観というものが、どうやって生まれたのか、つらつら鑑みるに、どうもそれは「漢書」あたりに源を発しているようにも思えますね。

「後漢書」に見える「東[魚是]人」というのは、もちろん「漢書」の「呉地」からの引用ですね。それが「後漢書」では、「倭伝」の末尾に付録のようにくっつけてある。あたかも「倭」と何らかの関係があるような書きぶりです。

また、「粤地」の記事中の「武帝元封元年」以下の風俗記事は、ほとんどそのまま「魏志倭人伝」の中に取り入れられています。

してみると「魏志倭人伝」の風俗記事は、どうやら「漢書」あたりからの「剽窃」のようにも見えますね。それに、新たに知り得た情報を加えて、「てんこ盛り」にしたのが、「魏志倭人伝」の風俗記事、いや、「魏志倭人伝」全体ではないかと思うのです。

従って、「魏志倭人伝」の風俗記事全体を、三世紀の「倭」の風俗だと解釈して、ああだこうだと議論するのは、早計に過ぎるのではないかと案ぜられるのです。

「臺」と「壹」(62) 2002/ 9/24 23:02
メッセージ: 3517 / 3634
 
そう言えば、「男子無大小皆黥面文身」以下の記事は、通説「倭の風俗」と解釈されてきましたが、水野祐博士は「狗奴国の風俗だ」との解釈を出されていますね。

これは面白い解釈ですが、批判もあります。成る程という批判です。詳しくは佐伯有清編「研究史 戦後の邪馬台国」(吉川弘文館)194頁以降をご覧下さい。

このような解釈が発生してしまうのも、実は「陳寿」が、あちこちから「倭」の関するとおぼしき史料をかき集めてきて、「ちゃんぽん」にしたことによるものではないかと思いますね。

>ヤマトの大倭王 2002/ 9/25 23:32
メッセージ: 3519 / 3634
 
レスありがとうございます。

ご高説、難解にしてよく飲み込めませんでしたが、我が国の古代国家の成立について言及されていると理解すれば、それこそ私の最終的関心事です。

「後漢書」の記事はどうも得体が知れません。どこまで「後漢」代のこととして信じていいのか?

「凡百余国」というのは、「漢書地理志燕地」からだし「武帝滅朝鮮」は、同じ「漢書武帝紀元封三年」の記事から。「三十許国」というのは、まさか「魏志」の「今使訳所通三十国」からではないと思うが、「後漢代」に「三十国」が「通じていた」というのは、どこから来たのでしょうね?

「建武中元二年」の「倭奴国」の時ではないだろうし、「安帝永初元年」の「倭国王帥升等」の正体が「三十国」なのか・・・。

そう言えば、「倭奴国」の時は「使人」が行ったようですが、「永初元年」の時は「帥升等」が「生口」を献じて、「請見を願って」いるので、「帥升等」自身が行ったとする解釈をどこかで読んだような気がします。

「魏志」には「今」と書いてあるので、「三十国」は「魏代」それも、ニュアンスから「魏志」の書かれた時代に近いようにも思えますが、「後漢書」の「三十許国」というのは、はっきりしませんね。

私自身は、九州勢力の畿内侵入という「絵図」を素人的に期待しているのですが、「二つの金印」に挟まれた「倭国王帥升」あたりが、謎解きのポイントになるような気がします。

とりとめもないレスで申し訳ないのですが・・・。

「臺」と「壹」(63) 2002/ 9/26 0:17
メッセージ: 3521 / 3634
 
この「倭=南方」観というものの形成に一役買ったのが「太伯之後」でしょう。「倭人」自身がその出自を「呉の太伯」と称しているという通説が、古代の中国にあって、彼等の「倭観」の大きな要素の一つになっていたのではないかと思えます。

この「太伯之後」は、不思議なことに「魏志」に見えません。ところが「太平御覧所引魏志」「翰苑所引魏略」「梁書」「北史」「晋書」「通典」「冊府元亀」に見えます。

少々、横道にそれますが、この部分の「魏略」が「翰苑」と「通典」に引用された形で残っています。面白いですね。「翰苑」のほうは、
「聞其旧語自謂太伯之後」
「通典」のほうは、
「倭人自謂太伯之後」

何が面白いかって?「聞其旧語」と「倭人」が違いますね。え?それくらい引用者の考え次第?ところが「太平御覧所引魏志」には、「翰苑所引魏略」とほとんど同じ文で引用されているのです。と言うことは、「太平御覧」が見た「魏志」には、この「太伯之後」があった!

このことは#3506の「臺」と「壹」(54)でもお話ししましたよね。

「呉の太伯之後」なら、当然、「倭」というものが「呉」の東の海上にあるという想像が働きますね。「呉地」「粤地」の風俗記事が、「魏志」の風俗記事中に取り込まれたのは、このような想像の産物なのではないのかと、疑ってみたのですが・・・。

「臺」と「壹」(63)の補 2002/ 9/26 0:27
メッセージ: 3522 / 3634
 
「冊府元亀」の「太伯之後」について、補足を。

「冊府元亀」の中でも「土風一」に引用されている「魏志」には「太伯之後」は見えません。が、「種族」に引用されている「魏志」には「自謂太伯之後」と見えます。これが「魏志」ではなく「晋書」からの引用ではないかとも考えられます。事実、「使詣中国〜水禽」までは、「晋書」「魏志」「冊府元亀土風一」とは非常に似通った文を成しています。ただ、よく見ると、やはり「冊府元亀種族」の「太伯之後」は「晋書」からと言うより「魏志」から引用されたと見た方が良さそうです。

これは何を意味するか?「冊府元亀」の見た「魏志」にも「太伯之後」という文があったのか?それとも、「あってしかるべき」として、「魏略」あたりから引用したか?

「臺」と「壹」(64) 2002/ 9/26 22:39
メッセージ: 3525 / 3634
 
さて、話を「狗奴国」に戻しますが、どうも「魏志」と「後漢書」の「狗奴国観」の違いが釈然としません。で、もう一度おさらいしてみます。

「漢書地理志」の「夫楽浪海中・・・」に注して引用される「魏略」には、次のようにあります。
「倭在帯方東南大海中依山島為国渡海千里復有国皆倭種」
「渡海千里」に「方角」は記されていません。この「渡海」が「後漢書」に見える「自女王国東渡海千余里至狗奴国」の「東への渡海」か、それとも朝鮮海峡を三回渡る「渡海」のことなのか?はたまた「魏志」に見える「女王国東渡海千余里復有国皆倭種」の「渡海」なのか?

いずれにしても、私が「狗奴国」を「女王の南」と捉える立場からは「後漢書」の「東渡海千余里至狗奴国」というのは、どうも「合成臭い」ですね。

なぜかというと、「東渡海千余里至狗奴国」から「東渡海千余里」の「倭種の国」という記事と、「女王の南狗奴国有り」という記事とを「二つの文」に分ける理由が思い当たりませんから。それよりも、「二つの文」を「一つの文」に合成した、とする方が考えやすいようなのですが、いかがなものでしょうか?

「臺」と「壹」(65) 2002/ 9/26 22:56
メッセージ: 3526 / 3634
 
ついでに「侏儒国」について云えば、「其南四千余里」とあります。ここでも「其」が問題になります。直前の「東渡海千余里」の「倭種」の国の南なのか、それとも「女王国」の南なのか?いずれにしても、「南へ」という意識は拭い切れません。

その上「裸国」「黒歯国」まで「其東南」。この「東南」は「南」かも知れません。というのは、「後漢書」にも「東南」とあるのですが、「太平御覧所引魏志」は「南」ですね。それと「梁書」と、それを受けた「南史」は「南」です。五分五分かも知れません。

どうでしょう?いかに大陸の人が「倭の世界」を「南に長く」考えていたか?おわかりいただけたと思います。

>東治 2002/10/ 1 0:00
メッセージ: 3529 / 3634
 
やはり苦しいと思いますよ、「mutouha」さん。「東侯官」の「治所」を「東治」とする解釈は・・・。自分で言い出しておいて、こんな事を言うのもおかしいのですけれどね。

だって、「東侯官」というのは、「後漢代」のことですね。ところが「夏后少康之子封於會稽〜」というのは、「夏王朝」の故事であり、紀元前十数世紀の記述中に、「後漢代」に置かれた「東侯官の治所=東治」が出てくるというのはムリがありますね。どうしても「東治」と読みたいのなら、やはり古田氏の言われるように「夏后少康之子」の「東方での治績」と解釈するしかないと思います。が、「東方の治績=東治」なる用法がこの頃の文献にあるのか?少なくとも前四史(「史記」「漢書」「後漢書」「三国志」)について検証してみる必要があるでしょうね。その上で例証があれば、その可能性も否定は出来ないのでしょうが・・・。

因みに、この「夏后少康之子〜」は「史記」「越王勾践世家第十一」に次のように見えます。

越王勾践其先烏禹之苗裔(注略)而夏后帝少康之庶子也封於会稽以奉守禹之祀文身断髪・・・

また、注に「呉越春秋」という書を引いて、その「庶子」の名を「無余」と記しています。

>間違う筈はないA 2002/10/ 3 0:18
メッセージ: 3532 / 3634
 
>字形が似ており読みも同じであれば間違えた可能性絶対無いとは言い切れませんが

一つ例を挙げます。

かの「狗奴国」の官「狗古智卑狗」の「智」が「汲古閣本」では「制」となっています。「汲古閣本」は私も持っていますので確認出来ます。間違いなく「制」ですね。

で、「智」と「制」が似ているか?「臺」と「壹」との違いとどちらが近いと思いますか?

既に刊本が多く出回った後ですから、「刊本間」の異同は、他の史書間の異同よりは少ないことは想像に難くありません。それでも、このような「異同」が生じているのです。

もう一つ、つまらない「揚げ足取り」を・・・。

古田氏の第一書「『邪馬台国』はなかった」120頁に「倭人伝の卑弥呼の景初二年、景初四年、および・・・」とある文中の「景初四年」は当然「正始四年」の誤。他の頁(例えば126頁)では正しく「正始四年」とあるので、単純なケアレスミスでしょうね。

私の所有しているこの本は、昭和46年11月の初版発行から1年3ヶ月余後の昭和48年2月28日、第10刷のもの。その時点でもまだ「誤」の訂正がなされていません。

さて、この「景初」と「正始」が「似ている・似ていない」という議論を始めたら、どうでしょう?もちろん、「mutouha」さんの云われるように、

>引用の場合の方が原本を見ずに

の例にあたるのでしょう。でも、これも「誤写」なのです。「似ている」というのは「誤写発生」の原因の一つであり、すべてではありません。言い直すと、

>写本をする人は字を見ながら書く

場合でも、勝手に書き手が「別の」文字に書き替えることもあります。ちょっと他の文献に当たれば、すぐに間違いとわかる場合(「仁寿本後漢書」の「会稽東治県」のように)でも、「誤」はそのまま。

長くなりましたので、これくらいにして・・・。

邪馬一国 2006/ 6/28 0:02 [ No.45098 / 46004 ]
 
三十余年目の小さな“新発見”!


古田氏はある時期から「邪馬壹国」を「邪馬一国」と表記するようになりました。書名にもこぞって「邪馬一国」と書きます。

『三国志』の刊本の中には、確かに「邪馬一国」と表記するものがあるのは事実で、また『文献通考』でも「邪馬一国」と見えます。実に古田氏らしい用語法だな・・・と感心していたのです。が・・・


ひょっと気になることがあって調べてみました。私が確認できる「邪馬一国表記」の『魏志』は、2000年11月号『歴史読本』グラビアの「元刊・明嘉靖年間修補・寛永寺勘学寮旧蔵・国立公文書館蔵」のものですが、「邪馬一国」の表記に対して、「壹與」は3カ所とも「壹與」のまま!『文献通考』も上記刊本と軌を一にして「邪馬一国」「壹與」なのです。

私は「一」は「壹」を揃って略記したものだと(呉志残卷にも見える)合点していたのですが、このような理解は早計のようです。

もちろん、『冊府元亀』『太平寰宇記』では、「壹與」の「壹」は「一」に作りますので、“個別の略記”ではあり得ます。

古田氏が「邪馬一国」と書き始めたときから、私はてっきりそれらの漢籍には「壹與」も「一與」と書いてあるものとばかり早合点していました。


なんか、難しいものですね〜!!!