孫聖壹か孫聖臺か

『三国志』中で、「壹」と「臺」の異同が疑われている例を取りあげる。

古田氏は『三国志』全体から、「壹」と「臺」を抜き出して、それらの間に異同が発生していないとみられることを検証した。しかし、1例だけ、「わたしを思わずハッとさせた個所があった」と言う。51ページ「Ⅱ 真実はいずこに? 中国の大家との対決」から引用する。
以上のような検証の途中で、わたしを思わずハッとさせた個所があった。
「ここの壹は臺のあやまり」として、永らく中国古典研究史上の「定説」となっている個所が『三国志』中にあることを知ったからである。
それが、『呉志』「孫賁伝」の以下の文。
【孫賁字伯陽父羌字聖壹堅同産兄也】
拙訳は以下のごとく。
孫賁、字は伯陽、父は羌、字は聖壹 堅と同産の兄也
この部分について『三国志集解』を著した盧弼*が注釈を加えている。それが、
【孫賁字伯陽父羌字聖壹〈続漢書*作字聖臺孫堅字文臺孫静字幼臺羌為堅兄作臺是〉堅同産兄也】 ※〈〉内は細注。
これまた拙訳すれば、
孫賁、字は伯陽、父は羌、字は聖壹〈郝経の続漢書に字を聖臺に作る、孫堅の字は文臺、孫静の字は幼臺、羌は堅の兄と為し臺に作るは是なり〉堅と同産の兄也
というほどか。

『三国志』ファンの方なら先刻承知だろうが、孫賁は孫権のいとこに当たる。孫権の父である孫堅の兄・孫羌の子どもである。

古田氏はまず、「標点本」『三国志』の「聖壹」に対する校注に、元代の郝経『続後漢書』に、孫賁の字を「聖臺」とする旨の記述があることを知る。その原文*は以下の通り。
聖臺 拠郝経続後漢書五三
孫賁の親子関係についての郝経の誤読について古田氏は触れるが、この点は古田氏の見解は正しく、異論もないのでパス。

議論になったのは『三国志集解』の盧弼の考証。上に引いたように、盧弼はまず郝経『続後漢書』を引き、続いて自身の意見である「孫堅字文臺孫静字幼臺羌為堅兄作臺是」と続ける。古田氏の言葉を借りて平たく言えば、「羌を長男とする三人兄弟のうち、弟二人の「字」に「臺」がつくから、兄の羌も「聖壹」ではなく、「聖臺」だろうというのである」*。ここから古田氏は自論を展開してゆく。

この古田氏の所説については、白崎昭一郎氏*から適切な批判・反論が出されていて、ほとんど付け加えるものもないので、この部分については案内役に回る。できれば、古田氏、白崎氏双方の本を開いて、当該部分を読み比べながら、両者の主張の是非について、自身で判断して頂くのがベター。

まず、古田氏から。52ページ。
しかし、わたしは直ちに疑問をもった。盧弼の論証の前提となるのは、つぎの二点だ。

(A)『三国志』の時代では、兄弟は「一字」を共有した。
(B)したがって、三人の兄弟のうち、二人まで共有字があれば、あとの一人も同じ字を共有している、とみることができる。
こういう法則があってこそ、盧弼の考証は成り立つ。そこでわたしは、『三国志』内の人名から系図をつくってみた。ところが、このような法則は存在しない。〈中略、古田氏は『三国志』から3例を挙げて〉こうしてみると、問題の長男羌(聖壹)の場合、「聖壹」なら、まさに長男としてふさわしい。ところが、これを「聖臺」と直したら、長男であることを示す字を全くもたないことになるのである。これは、当時としては異例である。
として、『三国志』内の人名から3例を拾い出す。すなわち、
1. 蜀の劉備玄徳の三子、
禅(公嗣)-永(公寿)-理(奉孝)
2. 羌(聖壹)の二子、
賁(伯陽)-輔(国儀)
3. 孫子四子、
策(伯符)-権(仲謀)-翊(叔弼)-匡(季佐)
と述べ、
こうしてみると、問題の長男羌(聖壹)の場合、「聖壹」なら、まさに長男にふさわしい。ところが、これを「聖臺」と直したら、長男であることを示す字を全くもたないことになるのである。これは、当時としては異例である。
とする。これに対する白崎氏の反論。まず、白崎氏の10個の挙例から引く。
11.『魏志十一』 張範(公儀)-張承(公先)
12.『魏志十六』 鄭泰(公業)-鄭渾(文公)
13.『魏志二十七』 王黙(處静)-王沈(處道)
14.『魏志二十七』 王渾(玄沖)-王深(道沖)
15.『呉志七』 顧譚(子黙)-顧承(子直)
16.『呉志十六』 陸凱(敬風)-陸胤(敬宗)
17.『魏志十九』 曹操三子、曹丕(子桓)-曹彰(子文)-曹植(子建)
18.『魏志九』裴松之注 曹仁(子孝)-曹純(子和)
19.『魏志十九』裴松之注 丁儀(正禮)-丁(敬禮)
20.『魏志六』裴松之注 袁紹三子、譚(顕思)-煕(顕奕)-尚(顕甫)
そして、次のように述べる。
僅かの例ではあるが、兄弟の名字の判明している場合が余り多くないので、率としてはかなり高いのである。兄弟が字(あざな)に一字を共有する風習は、相当一般的だったと言えよう。古田氏のように「共有する習慣がない」などと言い切れるものではない。

しかも注目すべきことは、これら十例の兄の方に、長男を示す標識が附いていないことである。尤も兄だから必ずしも長子とは限らぬ、との議論もあるかも知れない。しかし長兄が夭折でもしない限り、名をなす機会は家の跡とりに多いであろう。袁譚の場合は確実に長男であるし、曹丕も、卞皇后の生んだ子としては第一子であった。長男に長子としての標識をつけないことは、当時決して異例ではなかった。

もちろん兄弟の順序を示す標識を持っている例もかなりある。その場合はしかし「伯仲叔季」の順に標識を入れていくのが大部分であって、壹の字を標識に用いた例は全く見あたらない(第一、壹の字を字に使った例が、孫聖壹以外に皆無なのである。臺の方は孫堅兄弟以外にもかなり使われている)。

壹は字には使われなかったが、名としてはある程度用いられている。そのうち、士壹、孫壹などは弟であるのに、名前に壹が使われている。こうなると、聖壹の壹が長男の標識であるという議論は、かなり怪しくなってくるのではなかろうか。

孫聖壹か、孫聖臺か、当時の金石文でも発見されない限り、何人もどちらが正しいか確言することは出来ないだろう。しかし私は上述の観点から、殊に袁紹と曹操の三子の例からみて、孫聖臺の方が正しいという心象に傾かざるを得ない。

もし孫聖壹が誤りであるとすれば、呉の始祖孫堅の兄のような重要人物の字を間違ったことになり、邪馬臺国か邪馬壹国かの問題にも影響するところが少なくないであろう。
引用が長すぎて分かりにくいかも知れないので、両者の言い分を箇条書きで示す。まず盧弼の考証を否定する古田氏の所説から。
21. 一字を共有する法則はない。
22. 「壹」は長男としてふさわしい。
23. 「臺」とすると、長男を示す文字を持たず、これは当時としては異例である。
続いて、盧弼の考証と白崎氏の主張。
31. 3人のうち二人に〝臺〟がつくので、他の例から見て〝壹〟も〝臺〟であろう。
32. 壹の字を字に使った例が、孫聖壹以外に皆無である。
33. 兄に長男をしめす標識を付けた例は、字を共有する10例の中にない。
34. 壹は名前として、弟に付けた例がある。
特に21.に注意。「一字を共有する法則」など誰も唱えてはいない。誰も主張していない「法則」を設定して、それを批判しているのだ。「法則」ならば、反する1例を挙げれば、その「法則」が成り立たないことを主張でるが、誰もそんな「法則」など主張していないので、1.から3.までの挙例は無効。仮にその「法則」を「傾向」(つまり、一字を共有する「傾向」はない)とゆるめて字義解釈しても成立しないことは、白崎氏の10個の挙例で明らかと言えよう。

22.については、そもそも「壹の字を字に使った例が、孫聖壹以外に皆無である」なので、これも無意味。
23.については、ご覧のとおりである。「長男としてふさわしい」といくら古田氏が言ったとしても、その実例を挙げなければ無意味だ。それどころか、「壹は名前として、弟に付けた例がある」というのだから、「長男としてふさわしい」などという古田氏の思いつきは、何の根拠もないことが明らかになる。

古田氏は、この項のまとめとして次のように書く。
このように考えてくると、原文の「聖壹」をあえて「聖臺」と改定するには、全くその道理がないことがハッキリする。清朝の考証学者として、あまりにも著名な盧弼の考証も、意外にその基礎はもろかったようである。
と言い、また、
しかし、わたしはこの一件の論証を終えてのち、つくづくと思わないわけにはいかなかった。後代の目によって、安易に原文を改定するという「習癖」は、元・宋の朱子学者より清朝の考証学者、さらに現代中国の学者にいたるまで一貫していることを!
と論断する。しかし、以上を振り返ってみれば、どうか。『三国志』中から、字を共有しない3例を拾い出して、「兄弟は「一字」を共有した」という自分が創出した「法則」を否定してみせるが、白崎氏が字を共有する10例を挙げているということは、古田氏はそれらを見落としたということになるのか。

『三国志』を開いて諸人物伝を見てみると「○○字□□」という書き出しが目に付く。人物伝の場合は多くがそのようなスタイルで、字に続いて血縁関係が書かれているケースも少なくない。「孫賁伝」も同様だ。だから、手間と時間はかかるが、この件について『三国志』を調べ尽くすということは、意志さえあれで出来ないことではない。しかし、3例を拾い出した古田氏が10例を見落としたとは考えにくい。

一般の読者は『三国志』を開いて、そのような検証をするとは思えない。古田氏はそう踏んで、一般の読者向けの「論証」をしてみせたのだ、と思うのは勘ぐりが過ぎるか。最後の「!」にその気持がよく表れているように、私には思える。「元・宋の朱子学者より清朝の考証学者、さらに現代中国の学者にいたるまで」古田氏は切って捨てたわけだから、〝ほう!〟と感歎する読者もいたのかも知れない。

「孫聖壹」と「孫聖臺」についての古田氏の所論と白崎氏の批判は以上のとおりである。文面は確かに「孫聖壹」だが、上記理由から「臺の誤であるかも知れない」との郝経や盧弼の考証には十分留意すべきかと思えよう。

白崎氏は慎重な物言いで、「孫聖壹か、孫聖臺か、当時の金石文でも発見されない限り、何人もどちらが正しいか確言することは出来ないだろう」と述べられるが、翻って思うに、「邪馬臺国」の場合は、宋代までの諸書に「邪馬壹」は一切出現せず、「邪馬臺」が多出するのだから、「孫聖壹」と「孫聖臺」の場合より、遥かに高い確度で「邪馬臺が是」であると言い得るのではないかと考えられる。

〈注〉

盧弼:清代の考證家。
続漢書: 『続漢書』ではなく、正しくは古田氏の引くように『続後漢書』である。『三国志集解』の脱字か。
原文:「標点本」『三国志 五』「呉書」巻末「校記」1505ページ。
第1書52ページ。
白崎昭一郎: 『東アジアの中の邪馬臺国』79ページ~86ページ。昭和53年7月31日第1刷発行。芙蓉書房刊。