出版説明(原文)



  魏文帝黄初元年到晋武帝太康元年(公元二二〇-二八○),是中國歴史上魏、蜀、呉三國鼎立的時期。記載這六十年歴史發展的比較完整的史書,是西晋初年陳壽著的這部三國志。
  唐代以前,本以史記、漢書、東觀記爲三史,後來東觀記失傳(現存的東觀漢記是後人輯佚書),就稱史記、漢書、後漢書爲三史,後人推重陳壽的史學和文筆,於是又加上三國志,稱爲四史。三國志繼承史記、漢書而作,成書遠在後漢書以前。司馬遷的史記是通史體,班固的漢書是斷代史體,三國志把三國分成三書-魏書三十巻,蜀書十五巻,呉書二十巻,共六十五巻,在斷代史中別創一格。
  陳壽成書的年代雖然不能確定,但知他死在晉惠帝元康七年(公元二九七),這時候魏的最後一個君主陳留王尚未死去。當時魏、呉兩國已先有史,官修的有王沈魏書、韋昭呉書,私撰的有魚豢魏略,這三種書是陳壽所根據的基本材料。惟蜀國無史,必須由陳壽直接採集。陳壽是蜀人,又是史學家譙周的弟子,在蜀未亡時即注意蜀事,他所採集雖然不及魏,呉官史那様豐富,也終於完成蜀書,與魏、呉兩書並列。但正因爲三國史料的來源不同,所以三書的成就也有差異。呉書因爲韋昭的舊著本來相當好,再經陳壽整比,更加完美。蜀書没有藍本,因而比較簡略。魏書多是根據魏史舊文,而王、魚原書的記載,有些是秉承司馬懿意旨誣加的(例如關於曹爽的罪惡),陳壽是晉臣,不敢擅改原文,這就難免有些失實的地方。總括的説,因爲陳壽見到的史料有限,所似三書的内容都還不够 充實。三國志没有志表,正是爲了材料不足;後來裴松之所以要給它作注,也是要補救這個缺陷。
  魏、蜀、呉三書本是各自爲書,到了北宋雕板,始合爲一種,改稱三國志。舊唐書經籍志以魏書入正史類,蜀書、呉書入編年類,這種分類法,固然錯誤可笑,但由此可以知道三書在宋以前是獨立的。三國志最早的刻本-北宋咸平六年(公元一〇〇三)國子監刻本,呉志分上下兩帙,前有刻呉志牒文。後來紹煕的重刻本裏,也保留著一頁咸平國子監刻蜀志的牒文。可知咸平刻書時雖已合併爲三國志,但還是三書分別發刻的。

出版説明(書き下し文)



  魏ノ文帝黄初元年カラ晋武帝太康元年(公元二二〇-二八○)ニ到ルマデハ,是レ中國歴史上、魏・蜀・呉三國鼎立的(ノ)時期ナリ。記載這(ハ=者)六十年ニシテ、歴史發展的比較完整的史書ナルハ,是レ西晋初年ニ陳壽ノ著セシ的這(コ)ノ部、三國志ナリ。
  唐代以前,本ハ史記、漢書、東觀記ヲ以テ三史ト爲シ,後來(ノチ)ニ東觀記ハ失傳(現存的(ノ)東觀漢記ハ是レ後人ノ輯佚書ナリ)シ,史記、漢書、後漢書ヲ稱シテ三史爲(ト)就(ナ)シ,後人ハ陳壽的(ノ)史學和(ト)文筆ヲ推重シ,是ニ於テ又三國志ヲ加上シテ,四史爲(ト)稱ス。三國志ハ史記・漢書ヲ繼承シテ而シテ作リ,書ノ成ルハ遠(ハルカ)後漢書以前ニ在リ。司馬遷的(ノ)史記ハ是レ通史體,班固的(ノ)漢書ハ是レ斷代史體,三國志ハ三國ヲ把(モッ)テ三書ニ分成ス-魏書三十巻,蜀書十五巻,呉書二十巻,共(アワセ)テ六十五巻,斷代史中ニ在リテ一格ヲ別創ス。
  陳壽ガ成書的(ノ)年代ヲ確定スルコト能(アタハ)然不(ザ)ルト雖モ,但ダ他ニヨリテ死ノ晉惠帝元康七年(公元二九七)ニ在ルヲ知ル,這(コ)ノ時候ハ魏的(ノ)最後ノ一個君主陳留王ノ尚ホ未ダ死去セズ。當時魏・呉兩國ハ已ニ先ンジテ史有リ,官修的ニハ王沈魏書・韋昭呉書有リ,私撰的ニハ魚豢魏略有リ,這(コ)ノ三種ノ書ハ是レ陳壽ノ根據的基本材料トスル所ナリ。惟(タ)ダ蜀國ニ史無ク,必ズヤ須(スベカラ)ク由リテ陳壽ノ直接採集スルトコロナラン。陳壽ハ是レ蜀人ニシテ,又是レ史學家譙周的(ノ)弟子,蜀ノ未ダ亡ビザル時ニ在リテ即ハチ蜀ノ事ニ注意シ,他所ニ採集セシ魏・呉ノ官史ノ那様ニ豐富ナルニ及バ然不ルト雖モ,也(マタ)終(ツ)ヒニ蜀書ヲ完成スルニ於ヒテ,魏・呉兩書與(ト)並列ス。但ダ正ニ三國史料的(ノ)來源ノ
不同ヲ爲スニ因リテ,三書的(ノ)成就也(マタ)差異ノ有ル所以(ユエン)ナリ。呉書ハ因リテ韋昭的(ノ)舊著ヲ本來相(ア)ヒ當好ト爲シ,再ビ陳壽ノ整比ヲ經テ,更ニ完美ヲ加フ。蜀書ハ藍本没有シ,因リテ而シテ比較スルニ簡略。魏書ノ多クハ是レ魏史舊文ヲ根據トシ,而シテ王・魚原書的記載,些カ是レ司馬懿ノ意旨ヲ誣加的(例如關於曹爽的罪惡)ニ秉承スルモノ有リ,陳壽ハ是レ晉臣ニシテ,敢ヘテ原文ヲ擅改(ホシイママニアラタメル)セ不(ズ),這(コ)レ些失ノ有ルヲ免レ難キト就(ナ)スモ、實的ニハ地方ナリ。總括的ニ説ケバ,因ッテ陳壽見到的(ノ)史料ハ有限ナリト爲(シ),三書的(ノ)内容都(コトゴト)ク還ッテ充實セルトコロ够(オホ)カラ不(ザ)ル所似ナリ。三國志ノ志表ヲ没有スルハ,正ニ是レ材料不足ニテ了(オハ)ル爲ナリ;後來(ノチ)ニ裴松之ノ它(他)ヲ給シ注ヲ作(ナ)スヲ要シ,也(マ)タ是レ這個ノ缺陷ヲ補救スルヲ要セシ所以ナリ。
  魏・蜀・呉ノ三書ハ本(モト)是レ各自書ヲ爲シ,北宋雕板ノ了ハルニ到リ,始メテ合ハセテ一種ト爲シ,三國志ト改稱ス。舊唐書經籍志ハ魏書ヲ以テ正史類ニ入レ,蜀書・呉書ハ編年類ニ入ル,這(コ)ノ種ノ分類法ハ,固然(モトヨリ)錯誤笑フ可シ,但ダ此ニ由リテ以テ三書ノ宋以前ハ是レ獨立的ニ在リシヲ知道ス可シ。三國志ノ最早的刻本ハ-北宋咸平六年(公元一〇〇三)國子監刻本,呉志ハ上下兩帙ヲ分カチ,前ニ呉志牒文ノ刻有リ。後來(ノチ)ノ紹煕的重刻本裏(ニハ),也(マ)タ一頁ニ著シテ咸平國子監刻蜀志的(ノ)牒文ヲ保留ス。咸平刻書時ニ已ニ合併シテ三國志ト爲スト雖モ,但ダ還ッテ是レ三書ノ發刻ノ分別的ナルヲ知ル可シ。


出版説明(口語意訳)



  魏の文帝黄初元年から晋武帝太康元年(紀元220-280)に到るまでの間は,中國歴史上で魏・蜀・呉三國が鼎立した時期である。記載の六十年に及び、歴史發展的にして比較的完整した史書は、西晋初年に陳壽が著わした書物『三國志』である。
  唐代以前において、本(もと)は『史記』、『漢書』、『東觀記』を以て三史と爲したが、後に『東觀記』は失傳(現存の『東觀漢記』は後人の輯佚書である)し、『史記』『漢書』『後漢書』を稱して三史となした。後の人は陳壽の史學と文筆とを推重し、よって又『三國志』を加えて、四史と稱した。『三國志』は『史記』『漢書』を繼承して作り、その成立は後漢書の遠(はる)か以前である。司馬遷の『史記』は是れ通史体、班固の『漢書』は是れ斷代史体、『三國志』は三國を以て、魏書三十巻、蜀書十五巻、呉書二十巻、合わせて六十五巻の三書に分けて成している。斷代史中に在って別格である。
  陳壽が書を成した年代を確定することができないとは云っても、但だ他からその死が晉惠帝の元康七年(公元二九七)であることを知る。この時期は魏の最後の一君主である陳留王が尚未だ死去していない。當時、魏・呉兩國には已に先だって史書が有る。官撰としては王沈の『魏書』・韋昭の『呉書』が有り、私撰としては魚豢の『魏略』がある。この三種の書は陳壽が根據とした基本材料となったものである。ただ蜀國には史書が無く、きっと陳壽が直接採集したところに由ったのであろう。陳壽は蜀の人であり、又史學家譙周の弟子で、蜀が未だ亡ばない時に在って、即ち蜀の事については注意し、他所から採集した魏・呉の官史がいかにも豐富であるのには及ばないと謂っても、それでも終(つい)に蜀書を完成するに至って、魏・呉兩書と並列させた。但し正に三國の史料の來源が同じでないことに因って、三書の成立にまた差異が有った所以である。呉書は韋昭の舊著を本來適当とし、再び陳壽の整比を經て、更に完美を加えた。蜀書は藍本(よりどころとする本)がなく、だからして比較的簡略である。魏書の多くは魏史の舊文を根據とし、そうして王沈・魚豢の原書の記載と、是に些か司馬懿の意旨を誣加的(例如關於曹爽的罪惡)に秉承(採って受けつぐ)するところがある。陳壽は晉臣であり、敢えて原文を擅改(恣に改める)せず、これを以て些失(少しの誤り)が有るのを免れ難いとしても、質實的には地方のことである。總括的に説くと、因って陳壽の見ることができた史料には限りが有って、三書的の内容が結局のところ、都(ことごと)く充實するところの多くない所似である。三國志に志・表がないのは、是れは正に材料不足のまま了(おわ)った爲である。後に裴松之が他から補足し注を作(な)す必要があったのも、是はまたこれらの缺陷を補救することが理由である。
  魏・蜀・呉の三書は本(もと)各自書を爲し、北宋雕板(版木に彫る=刊刻する)が終わるに到って、始めて合わせて一書と爲し、『三國志』と改稱した。『舊唐書』「經籍志」は『魏書』を以て正史類に入れ、『蜀書』『呉書』は編年類に入れている。この種の分類法は固然(もとより)錯誤であること笑うべきであろう。但だ此に由って以て三書が宋以前は獨立して存在したことを知ることが出来る。『三國志』の最も早い刻本は、北宋咸平六年(紀元1003年)國子監刻本であり、『呉志』は上下兩帙を分け、その前に呉志牒文が刻してある。後の紹煕の重刻本にはまた、一頁に咸平國子監の刻した蜀志の牒文を留め著してある。咸平の刻書時に已に合併して『三國志』と爲しているとは雖っても、これはまた、この三書の發刻が分別的であったことを知ることができる。


二(原文)

  陳壽死後約一百三十餘年,裴松之爲三國志作注,至宋文帝元嘉六年(公元四二九)告成。東晉以後,史料的發現已經漸漸多起來,裴松之廣泛地捜輯,利用這些資料來補充陳書,正像他自己所説「繪事以衆色成文,蜜蜂以兼採爲味」。裴注的體例,在他的進書表裏提到有以下四個方面:一、「壽所不載,事宜存録者,則罔不畢取以補其闕」;二、「同説一事而辭有乖離,或出事本異疑不能判,並皆抄納以備異聞」;三、「紕繆顯然,言不附理,則隨違矯正以懲其妄」;四、「時事當否及壽之小失,頗以愚意有所論辮」。按隋書経籍志著録裴注三國志,除本書六十五巻外,還有敍録一巻。可惜唐以後敍録失傳,使我們對於作者的意旨不能得到更深刻的瞭解。
  一般注釋古書,大都專門注意訓詁,裴注的重點則放在事實的増補和考訂上,對於原文的音切和解釋並不詳備。四庫提要稱:「其初意似亦欲如應劭之注漢書,考究訓詁,引證故實。……欲爲之而未竟,又惜所已成,不欲刪棄,故或詳或略,或有或無。」這話毫無證據,只能認爲撰提要者的臆測之辭罷了。
  裴注多過陳壽本書數倍,明以前人若王通、劉知幾都譏其繁蕪,葉適至認爲「注之所載,皆壽書之棄餘」(文獻通考一九一)。清代學者雖然推重裴注,但也有人指責他有的應注而不注,有的不應注而注,引書有改字等等(見趙翼陔餘叢考六、四庫提要四五及廬文弨的批注)。其實這些都是小缺點,並不能因此掩没它的長處。裴注引用的魏、晉人著作,多至二百十種,著録在隋書經籍志中的已經不到四分之三,唐、宋以後就十不存一了。而且裴注所引的材料,都首尾完整,儘管説它「繁蕪」,説它「壽之棄餘」,單就保存古代資料這一點説,也是値得重視的。
  作後漢書的范嘩和裴松之同時,以年齡論,裴比范長二十歳,范死在宋文帝元嘉二二年(公元四四五),裴死更比范後六年。兩人雖然生在同一時期,同様捜集史料,但他們運用史料的方法不同,范嘩組織所得的史料編成後漢書,裴松之則用來注陳壽的三國志。試取陳壽、范嘩兩書中篇目相同的十六篇列傳比較,范書比陳書篇幅增多約一倍,那些多出來的材料,大多是和裴注相同的。

二(書き下し文)

  陳壽ノ死後約一百三十餘年ニシテ,裴松之ハ『三國志ニ作注ヲ爲シ,宋文帝元嘉六年(公元四二九)ニ至リテ成ルヲ告ス。東晉以後,史料的發現ハ已ニ漸漸多ク起來スルヲ經テ,裴松之ハ廣泛ノ地ヲ捜輯シ,這些ノ資料モ利用シ陳書ノ補充ヲ來(ナ)ス,正ニ他ニ自己ノ所説「事ヲ繪(エガ)クニ衆色ヲ以テ文ヲ成シ,蜜蜂ハ兼採ヲ以テ味ト爲ス」ヲ像(カタド)ル。裴注的(ノ)體例ハ,在他的進書表裏提到スルコト以下ノ四個方面ニ有リ:一、「壽ノ載セ不(ザ)ル所,宜シク存録スルニ事(ツト)ムル者(ハ),則チ罔(シ)ヒテ畢(コトゴト)ク取ラ不(ザル)ヲ以テ其ノ闕ヲ補フ」;二、「同説ノ一事ハ而シテ辭ニ乖離有リ,或ヒハ出事ノ本ト異ナリ疑ヒテ判ズル能ハ不(ザ)ルハ,並ビテ皆抄納シ以テ異聞ニ備フ」;三、「紕繆ハ顯然トシ,言ハ理ニ附サ不(ザ)ルハ,則チ違ニ隨ヒテ矯正シ以テ其ノ妄ヲ懲(イマシ)ム」;四、「時事ノ當否及ビ壽之小失ハ,頗ル愚意ヲ以テ論辮スル所有リ」。按ズルニ隋書経籍志ノ著録セシ裴注三國志ハ,本書六十五巻ヲ除キテ外ニ,還(マ)タ敍録一巻有リ。惜シム可クハ唐以後敍録ハ失傳シ,我們(ワレワレ)ヲシテ作者的意旨於(ニ)對(コタ)ヘ更ニ深刻的瞭解ニ到ルヲ得ル能ハ不(ザ)ラ使(シ)ム。
  一般ノ注釋古書ハ,大都(アラマシ)訓詁ノ注意ヲ專門ニス,裴注的(ノ)重點ハ則チ事實的増補和(ト)考訂ヲ放在スルニ上(ヨリ),對(カエ)ッテ原文的音切和(ト)解釋トニ於ヒテ並ビテ詳備セ不(ズ)。四庫提要ハ稱ス:「其ノ初意ハ亦タ應劭之注スル漢書ノ如キヲ欲スルニ似タリ,訓詁ヲ考究シ,故實ヲ引證ス。……欲シテ之ヲ爲シ而シテ未ダ竟(オハ)ラズ,又已ニ成ル所ヲ惜シム,刪棄ヲ欲セ不(ズ),故ニ或ヒハ詳ラカニシ或ヒハ略ス,或ヒハ有リ或ヒハ無シ。」這(コノ)話ハ毫モ證據無ク,只ダ能ク撰ヲ爲シ提要スル者的(ノ)臆測之辭ニ罷了スルト認メラル。
  裴注ノ多過ハ陳壽本書ノ數倍ニシテ,明以前ノ人若王通、劉知幾ハ都(ミナ)其ノ繁蕪ヲ譏(ソシ)ル,葉適ニ至ッテハ「注之所載ハ,皆壽書之棄餘スルトコロ」(文獻通考一九一)ト認爲ス。清代ノ學者ハ然(タト)ヒ裴注ヲ推重スルト雖モ,但ダ也(マタ)他ニ有ル的(ノ)應注ノ而シテ不注セルヲ指責スル人有リ,應注セ不(ザ)ル的(ノ)而シテ注スルモノ有リ,引書ニハ改字等等有アリ(趙翼陔餘叢考六、四庫提要四五及廬文弨的批注ヲ見ヨ)。其ノ實這(ハ)些カ都(ミナ)是レ小缺點ニシテ,並(アマネ)ク因リテ此ノ它(他)的長處ヲ掩没スル能ハ不(ズ)。裴注引用的(ノ)魏・晉人著作ハ,二百十種ノ多キニ至リ,著録ハ隋書經籍志中ニ在ルモノ的(ノ)已ニ經テ四分之三ハ到ラ不(ズ),唐・宋以後ハ十ニ就(ツ)キ一モ存セ不(ズ)ト了(ナ)ル。而シテ且ツ裴注所引的(ノ)材料ハ,都(ミナ)首尾完整シ,儘ク管説ハ「繁蕪」ト它(コトナ)ル,説キテ「壽之棄餘」トセシトコロトモ它(コトナ)ル,單ニ古代資料ヲ保存スルト就(ナ)ス這(コ)ノ一點ヲ説キテモ,也(マタ)是レ重視ヲ得ルニ値スルモノ的(デアル)。
  後漢書ヲ作(ナ)ス的(ノ)范嘩和(ト)裴松之ハ同時ニテ,年齡ヲ以テ論ズルニ,裴ハ范ニ比ベ二十歳長ジ,范ノ死ハ宋文帝元嘉二二年(公元四四五)ニ在リ,裴ノ死ハ更ニ范ニ比ベ後(オクレ)ルコト六年。兩人ハ然(タト)ヒ同一時期ニ生在スルト雖モ,同様ニ史料ヲ捜集ス,但ダ他們(彼ら)ハ史料ノ運用的(ノ)方法ヲ同ジクセ不(ズ),范嘩ハ所得的(セシ)史料ヲ組織(組み立て)後漢書ヲ編成ス,裴松之ハ則チ用ヒテ陳壽的(ノ)三國志ニ注ヲ來(ナ)ス。試ミニ陳壽・范嘩兩書中篇目ノ相同的(スル)十六篇ノ列傳ヲ取リテ比較スルニ,范書ハ陳書ニ比ベ篇幅ノ增多スルコト約一倍,那(イカ)ニ出來的(セシ)材料ノ些多ナリトテモ,大多ハ是レ裴注和(ト)相同的。


二(口語意訳)

  陳壽の死後約百三十年餘にして、裴松之は『三國志』に注を施し、宋文帝元嘉六年(紀元429年)に至ってそれが成ったことを報告した。東晉以後、史料的な發現は已に漸漸(段々と)多く起來するようになって、裴松之は廣泛の地を捜輯し、些かなる資料をも利用して陳書(三國志)の補充を行なった。これは正に自己の所説である「事ヲ繪(エガ)クニ衆色ヲ以テ文ヲ成シ,蜜蜂ハ兼採ヲ以テ味ト爲ス」を他のところで表わしている。裴注の體例(概要や細則)は、別にある「進書表」中に提示してあるように、以下の四つの点に有る。(上の「事ヲ・・・」は裴松之:上三國志注表中の文言)
 一、「陳壽が記載していない所は、よく存録するように努めるが、かといって強いて全てを採らず其の闕を補っていること」
 二、「同説の一事については辭に乖離が有る。,或いは出典と異なり疑っても判らないものは、並べて皆抄納し以て異聞に備えていること」
 三、「紕繆(誤り)が顯然(はっきり)としていて、言葉に理が無いときは、則ちその相違に隨って矯正して以て其の妄を懲(いましめ)ていること」
 四、「時事の當否、また陳壽の小失は、かなり愚見を以て論辮する所の有ること」
考えるに『隋書』「経籍志」の著録している裴注『三國志』は、本書六十五巻を除いた外に、また「敍録」一巻が有る。惜しいことに、唐以後「敍録」は失傳し、我々をして作者の意旨に對(こた)え、更にもっと深い瞭解に到ることが出来なくなってしまっている。
  一般の注釋古書は、あらまし訓詁の注意を專門にしている。裴注の重點は則ち事實の増補と考訂を放在することによって、對(かえ)って原文の音切と解釋とを共に詳備しない。四庫提要は稱している。「其の初意はまた、應劭の注する漢書のようなものを欲しているのに似て、訓詁を考究し、故實を引證する。……これを>爲そうと欲したものの、未だ終わらず、又已に成る所を惜しむ。刪棄(削り棄てる)を望まず、故に或るところでは詳しいが或るところでは略している。有ったり無かったりである」。この話は毫(少し)も證據が無く、ただ能く撰を爲し提要した者の臆測の辭でしかないと認められる。
  裴注の多過は陳壽本の書くところの數倍にして、明以前の人である若王通、劉知幾はみな其の繁蕪を譏(そし)り、葉適(南宋の思想家)に至っては「裴注の所載は皆陳壽の書が棄餘したとろこである」(文獻通考一九一)と認めている。清代の學者は然(たと)え裴注を推重すると雖っても、また他には見える應注に注していないことを指責する人も有る。應注していないところに注するものも有る。引書には改字などが有り(趙翼「陔餘叢考」六、「四庫提要」四五及び廬文弨の批注を見よ)。其の實際は些か都(みな)是れ小缺點であって、並(あまね)く因って此の他の長處を掩没することはできない。裴注が引用した魏・晉人の著は、二百十種の多きに至り、著録しているものは『隋書』「經籍志」中に在るもので已に時を經て四分の三は到ず、唐・宋以後は十に就(つ)いて一つも存してはいないのである。そしてそれ故に裴注所引の材料は都(みな)首尾完整し、儘く管説(見識の狭い言説)が「繁蕪」とするのとは異なっいる。説いて「壽之棄餘」とするところとも異なる。ただ單に古代の資料を保存すると就(な)すこの一點について説いても、またこれは重視するに値するものである。
  『後漢書』を作(な)した范嘩と裴松之は同時代であって、年齡を以て論ずると、裴松之は范曄と比べて二十歳長じている。范曄の死は宋文帝元嘉二二年(紀元445年)であり、裴松之の死は更に范曄と比べ後(遅れ)ること六年。兩人は然(たと)え同一時期に生在すると雖っても、同様に史料を捜集した。但だ彼らは史料運用の方法を同じくしていない。范嘩は所得した史料を組み立てて『後漢書』を編成し、一方、裴松之はそれを用いて陳壽の『三國志』に注を施した。試みに陳壽・范嘩兩書中の篇目の相同する十六篇の列傳を取って比較してみると、范曄の書は陳壽の書に比べて篇幅が倍にも增多している。いかに出來した材料の多少があるとは云っても、大方は裴注と同じようなものである。


三(原文)

  現在最通行的三國志刻本有四種:一、百衲本,據宋紹興、紹煕兩種刻本配合影印;二、清武英殿刻本,據明北監本校刻(鉛印石印各本都據武英殿本翻印);三、金陵活字本,據明南監馮夢禎本校印;四、江南書局刻本,據毛氏汲古閣本校刻。這四種刻本,除百衲本影印外,其餘三種雖然在重刻時還不免增加了一些錯字,但都經過認眞校勘,並改正了原本的不少錯誤。我們的校點工作,就用這四種通行本互相勘對,擇善而從。
  清代學者對於三國志的校勘考訂工作、曾經作了很大的努力。自顧炎武、何焯以下約二十餘家,都能根據本書前後文互證,並參考它書,對於宋、元以來各種版本相沿未改的錯誤,分別提出意見,或批注書眉,或成爲專門著作刊布。後來梁章鉅三國志旁證及盧弼三國志集解,先後彙集諸家校語,作了兩次總結。我們利用了梁、盧兩家的成果,又取他們所據原書覆勘,並加採蔣杲、翁同書、楊通、呉承仕諸家之説,對本書作進一歩的整理。處理辧法,分成兩類:
  甲、屬於編排上的錯誤,依前人校語經改。例如:
     一、巻四陳留王傳「復除租賦之半五年」,各本都以五年兩字另行起,與下文連接,成爲「五年乙卯,以征西將軍鄧艾爲太尉,鎭西將軍鍾會爲司徒、皇太后崩」。按鄧艾爲太尉,鍾會爲司徒,皇太后崩,都是景元四年十二月裏的事,已見本書巻五明元郭皇后傳及巻二十八鄧艾、鍾會傳。且「皇太后崩」之後,又緊接著「咸煕元年春正月」。景元五年即是咸煕元年,下文既然有咸煕元年,前面就不應該再有景元五年了(此條據翁同書説)。
     二、巻三十七法正傳注「先主與曹公爭」一段六十七字,乃裴氏因諸葛亮有「法孝直若在」之歎,故引此事爲證。應該列在傳末諸葛亮語下,各本都誤列在陳評之後(此條據陳景雲説)。
  乙、本書中可疑及難解的字句,經前人校改者很多,我們採取了比較重要的。這類改字,校改者雖然言之成理,但可能還有其它的看法。我們把它改了,不敢説改的一定對,所以加上圓括弧(表示刪的)和方括弧(表示增的)兩種符號,表明原本的字和校改的字。讀者如果認爲校改不妥當、可以仍照原文讀下去。校改的根據,另有「校記」説明。
  舊刻本三國志還保留著一些古體字,亦即當時通行的字,意義和現代不同。我們原想一律改成現代通行的字,以便利讀者,但又覺得讀古書應該瞭解那時候所用的字,從此舉一反三,對於讀其它古書還有些方便,所以保留這些古體字,不加更政。爲了便於讀者檢査起見,把這些字擇要摘出,並附注現代通行的字。

不(否)  内(納)  由(猶)  見(現)  邪(耶)  拊(撫)  罔(網)  要(腰)  匪(非)
振(賑)  旅(膂)  陳(陣)  禽(擒)  童(僮)  絜(潔)  解(懈)  閒(間)  辟(避)
寤(悟)  稟(廩)  蓐(褥)  領(嶺)  歐(嘔)  適(嫡)  縣(懸)  疇(儔)  離(罹)

至於像「以」字和「已」字,「置」字和「致」字,是互相通用的,也没有改。「丹楊」有寫作「丹陽」的,「滎陽」有寫作「熒陽」的,前後頗不一致。爲什麼寫法不同,清代學者曾經做過很多考據,但終究没有定論。現在本書中統一改爲丹楊和滎楊。
  舊刻本的目録,正傳姓名作大字,附傳姓名作小注,現在一律用大字,附傳的姓名較正傳低一絡,在毎一行姓名下加注頁碼。但有個別的幾行例外,如董卓傳所附的李傕、郭氾,他們兩人的事蹟分散在董卓傳中,没有明確的起訖,因此就不注頁碼了。目録和正書有不符之處,如婁圭、孔融等有目無傳,霍弋、黄崇等有傳無目,今分別加上方圓兩種括弧的符號,表示應増和應刪。
  三國志過去還没有過標點本。我們限於水平,可能有很多錯誤的地方,希望讀者随時指正,以便再版時修改。
中華書局編輯部一九五九年十二月

三(書き下し文)

  現在最モ通行的(セシ)三國志刻本ハ四種有リ:一、百衲本,宋紹興・紹煕兩種刻本ニ據リ配合シテ影印ス;二、清武英殿刻本,明北監本校刻(鉛印石印各本都據武英殿本翻印)ニ據ル;三、金陵活字本,明南監馮夢禎本校印ニ據ル;四、江南書局刻本,毛氏汲古閣本ノ校刻ニ據ル。這(コ)四種刻本ハ,百衲本影印ヲ除クノ外,其ノ餘ノ三種ハ然(タト)ヒ重刻時ニ在リテ還(サラ)ニ一些ノ錯字ヲ增加了(セ)シコトヲ免レ不(ズ)ト雖モ,但ダ都(コトゴト)ク校勘ニ認眞ヲ經過ス,並ビニ原本的(ノ)少ナカラ不(ザ)ル錯誤ヲ改正了(セリ)。我們(ワレワレ)的(ノ)校點工作ハ,這(コレ)四種通行本ヲ用ヒテ互ヒニ相勘對ヲ就(ナ)シ,善ヲ擇ビテ而シテ從フ。
  清代ノ學者ハ三國志的(ノ)校勘於(ヲ)對(シラ)ベ考訂工作シ、曾經シテ作了セルハ很(ハナハ)ダ大ヒ的(ナル)努力ナリ。顧炎武・何焯自(ヨ)リ以下約二十餘家,都(ミナ)能ク本書ヲ根據ニ前後ノ文ヲ互ヒニ證ス,並ビニ它(他)書ヲ參考ニシ,宋・元以來各種版本於(ヲ)對(シラ)ベ未ダ改メザル的(ノ)錯誤ニ相沿ヒ,分別シテ意見ヲ提出シ,或ヒハ書眉ニ批注シ,或ヒハ專門著作ノ刊布ヲ成爲(ナ)ス。後來ニ梁章鉅ノ三國志旁證及ビ盧弼ノ三國志集解ハ,先後シテ諸家ノ校語ヲ彙集シ,兩次ノ總結ヲ作了ス。我們(ワレラ)梁・盧兩家的(ノ)成果ヲ利用了(シ),又他們(カレラ)ノ原書ニ據リテ覆勘セル所ヲ取ル,並ビ加ヘテ蔣杲、翁同書、楊通、呉承仕諸家之説ヲ採ル,本書ニ對シテ進ミテ一歩的整理ヲ作(ナ)ス。處理辧法ハ,分ケテ兩類ヲ成ス:
  甲、編排上的(ノ)錯誤ニ屬スモノニ於ヒテハ,前人ノ校語ニ依リ經改ス。例如(タトヘバ):

     一、巻四陳留王傳「復除租賦之半五年」,各本ハ都(ミナ)五年ノ兩字ヲ以テ另(レイ:別)行ヲ起シ,下文與(ト)連接シ,「五年乙卯,以征西將軍鄧艾爲太尉,鎭西將軍鍾會爲司徒、皇太后崩」ト成爲ス。按ズルニ鄧艾ヲ太尉ト爲シ,鍾會ヲ司徒ト爲シ,皇太后崩ズ,都(ミナ)是レ景元四年十二月裏(=中)的(ノ)事ニシテ,已ニ本書ノ巻五明元郭皇后傳及ビ巻二十八鄧艾・鍾會傳ニ見ユ。且ツ「皇太后崩」之後,又緊接シテ「咸煕元年春正月」ト著(シル)ス。景元五年ハ即チ是レ咸煕元年ニシテ,下文ハ既ニ然リテ咸煕元年ト有ル,前面ハ應該セ不(ズ)再ビ有景元五年ト就(ナ)了(セリ)(此條ハ翁同書ノ説ニ據ル)。
     二、巻三十七法正傳ノ注「先主與曹公爭」ハ一段六十七字,乃チ裴氏ハ諸葛亮ニ因リテ「法孝直若在」之歎有リ,故ニ此事ヲ引キテ證ト爲ス。應該ノ列ハ傳末ノ諸葛亮ノ語ノ下ニ在リ,各本ハ都(ミナ)列ヲ誤リテ陳評之後ニ在リ(此ノ條ハ陳景雲ノ説ニ據ル)。
  乙、本書中疑フ可キ及ビ難解的(ナル)字句ハ,前人ノ校改ヲ經ル者(ハ)很(ハナハ)ダ多ク,我們(ワレラ)ハ比較重要的(ナル)ヲ採取了(セリ)。這(コ)ノ類ノ改字ハ,然(タト)ヒ校改者ノ之ヲ言ヒテ理ヲ成スト雖モ,但ダ還(マ)タ其ノ它(他)的(ノ)看法有リトスルモ可能ナリ。我們(ワレラ)ハ它(他)ヲ把(ト)リテ改了シ,敢ヘテ改的一定ノ對ヲ説カ不(ズ),上圓括弧(表示刪的)和方括弧(表示增的)ノ兩種符號ヲ加ヘル所以ハ,原本的(ノ)字和(ト)校改的(ノ)字トノ表明ナリ。讀者ノ果タシテ校改ヲ妥當ナラ不(ザ)ルト爲スト認ムルガ如キハ、以ッテ原文ニ照ラスニ仍(ヨ)リテ下ヲ去(ステ)テ讀ム可シ。校改的(ノ)根據ハ,另(別)ニ「校記」有リテ説明ス。
  舊刻本三國志ハ還(サラ)ニ一些(イササカ)ノ古體字ヲ保留シ著(シル)シ,亦タ即チ當時通行的(ノ)字ナレド,意義ハ現代和(ト)同ジカラ不(ズ)。我們(ワレラ)ノ原想ハ一律ニ現代通行的字ニ改成シ,以テ讀者ノ便利トスルモ,但ダ又古書ノ應該ヲ讀ムヲ得テ那(イカナル)時候ニ用ヒル所的(ノ)字ナルカ瞭解スルヲ覺ヘ,從ヒテ此レヲ舉(アグ)ルハ一ニシテ反(モド)スハ三,其ノ它(他)ノ古書ヲ讀ムニ於ヒテ對(シラ)ブルニ還(サラ)ニ些ノ方便有ルハ,這(コ)ノ些(イササカ)ノ古體字ヲ保留スル所以ニシテ,更政ヲ加ヘ不(ズ)。便ハチ讀者於(ノ)檢査起見シ,這(コ)ノ些字ヲ擇要摘出スルヲ把(モッ)テ,並ビテ現代通行的(ノ)字ヲ附注セムト爲(ナ)了(セリ)。

不(否)  内(納)  由(猶)  見(現)  邪(耶)  拊(撫)  罔(網)  要(腰)  匪(非)
振(賑)  旅(膂)  陳(陣)  禽(擒)  童(僮)  絜(潔)  解(懈)  閒(間)  辟(避)
寤(悟)  稟(廩)  蓐(褥)  領(嶺)  歐(嘔)  適(嫡)  縣(懸)  疇(儔)  離(罹)

像(形)ニ至於(オ)ヒテ「以」字和(ト)「已」字,「置」字和(ト)「致」字,是レ互ヒニ相ヒ通用的(ナリ)テ,也(マタ)改ムルコト有ル没(ナ)シ。「丹楊」ハ「丹陽」ト寫作スル的(モノ)有リ,「滎陽」ハ「熒陽」ト寫作スル的(モノ)有リ,前後頗ル不一致。什麼(イカナル)寫法モ不同ト爲シ,清代ノ學者ハ曾(カサ)ネテ過很ヲ經做(作)シ多ク考據(考証)スルモ,但(タダ)終(ツヒ)ニ究シテ定論ノ有ル没(ナ)シ。現在ノ本書中ニテハ統一シテ丹楊和(ヲ)滎楊ト改爲ム。
  舊刻本的(ノ)目録,正傳ノ姓名ハ大字ニ作リ,附傳ノ姓名ハ小注ニ作ル,現在一律ニ大字ヲ用ヒ,附傳的姓名ハ正傳ト較ベ一絡ヲ低メ,一行毎ニ姓名ノ下ニ頁碼(頁数)ヲ加注スル在リ。但ダ個別的ニハ幾行カノ例外有リ,董卓傳ニ所附的(スル)李傕、郭氾,他們(彼ら)兩人的(ノ)事蹟ノ董卓傳中ニ分散シテ在ルガ如ク,明確的(ナ)起訖ノ有ル没(ナ)シ,因リテ此レ頁碼ヲ注セ不(ザ)リト就(ナ)了(セリ)。目録和(ト)正書ハ不符之處有リ,婁圭、孔融等ニ目有リテ傳無ク,霍弋、黄崇等ニ傳有リテ目無キガ如ク,今分別シテ圓兩種括弧的(ノ)符號ヲ上方ニ加ヘ,應増和(ト)應刪ヲ表示ス。
  三國志ハ過去ニ還(マ)タ没有過標點本。我們(ワレラ)ハ水平於(ノ)限リ,很多錯誤的地方(場所)有リト可能ナレバ,讀者ノ随時指正スルヲ希望シ,以テ再版時ノ修改ノ便ニセム。
中華書局編輯部一九五九年十二月

三(口語意訳)

  現在最も通行している三國志刻本は四種類有る。
 一、百衲本:宋紹興・紹煕の兩種刻本に據って配合して影印したもの。
 二、清武英殿刻本:明北監本校刻(鉛印石印各本都據武英殿本翻印)に據るもの。
 三、金陵活字本:明南監馮夢禎本校印に據るもの。
 四、江南書局刻本、毛氏汲古閣本の校刻に據るもの。
這(コ)四種類の刻本は、百衲本影印を除いた外の三種は然(たと)え重刻時に在って還(さら)に一些(いくらか)の錯字が增加してしまったことを免れないとしても、但だ都(ことごと)く校勘によって認眞を經過へていて、並んで原本の少なからざる錯誤を改正してある。我們(われわれ)の校點作業は、この四種の通行本を用いて互いに相勘對を行ない、善いものを擇(えら)んでそれに從った。
  清代の學者は、『三國志』の校勘を對(しら)べ考訂作業をし、曾經して作(な)し終えたことは很(はなは)だ大いなる努力であった。顧炎武何焯より以下の約二十餘家は、みな能く本書を根據にして前後の文を互いに證(あか)し、並んで他書を參考にして、宋・元以來の各種版本を對しら)べ未だ改められていない錯誤に沿って、分別して意見を提出し、或いは書眉(欄外)に批注して、或いは專門著作の刊布を成爲(な)した。後來(のち)に梁章鉅の『三國志旁證』及び盧弼の『三國志集解』は、先後して諸家の校語を彙集し、兩次の總結を作(な)し了(おえ)た。我們(われら)は梁・盧兩家の成果を利用し、又他們(かれら)の原書に據って覆勘してある所を取る。並び加えて蔣杲翁同書楊通呉承仕など諸家の説を採り、本書に對して進んでいま一歩の整理を作(な)した。處理辧法は、分けるところ二種類と成る。

  甲:編排(編集)上の錯誤に屬するものに於いては、前人の校語に依って經改した。例えば:

     一、巻四陳留王傳「復除租賦之半五年」。各本は都(みな)五年の兩字を以て別行を起こし、下文と連接し、「五年乙卯,以征西將軍鄧艾爲太尉,鎭西將軍鍾會爲司徒、皇太后崩」と成爲(な)している。考えるに鄧艾を太尉と爲し、鍾會を司徒と爲し、皇太后が崩じたというのは、都(みな)是れ景元四年十二月中の事であって、已に本書の巻五明元郭皇后傳及び巻二十八鄧艾・鍾會傳に見える。且つ「皇太后崩」の後、又緊接して「咸煕元年春正月」と著(しる)している。景元五年は是れ即ち咸煕元年であって、下文には既にかく咸煕元年と有る。前面とは應該せずに再び有景元五年と就してしまっている(此條は翁同書の説に據った)。
     二、巻三十七法正傳の注「先主與曹公爭」は一段六十七字。乃ち裴氏は諸葛亮に因って「法孝直若在」の歎が有り、故に此の事を引いて證と爲している。應該の列は傳末の諸葛亮の語の下に在り、各本は都(みな)列を誤って陳評の後に在る(此の條は陳景雲の説に據った)。

  乙:本書中の疑うべき及び難解な字句は、前人の校改を經ているもの很(はなは)だ多く、我們(われら)は比較的重要なものを採取した。この類の改字は、然(たと)え校改者が之に言及して理のあるものと雖っても、但だ還(ま)た其の他の看法(見方)が有るとすることも可能である。我們(われら)は他を把(と)って改了し、敢えて改めるような一定(一律)の對(答え)を説かない。上圓括弧(表示を刪る)和方括弧(表示を增やす)という兩種の符號を加える所以は、原本の字と校改の字との表明である。讀者が果たして校改を妥當ではないと認めるようなときは、以って原文と照らし合わせることで下を去(すて)て讀むのがいいであろう。校改の根據については別に「校記」が有るので、そこで説明する。
  舊刻本三國志は還(さら)に一些(いささか)の古體字を保留して著(しる)している。これは亦た即ち當時通行していた字であるが、その意義は現代と同じではない。我們(われら)の原想(元の考え)は、一律に現代通行している字に改成して、以って讀者の利便とするが、但だ又古書の應該するところを讀むことを得たとして、那(いかなる)時候に用いられた字であるか瞭解することを覺え、從って此れを舉(とりあ)げるのが一であるのに対して反(もど)すのは三である。其の他の古書を讀むことによって對(しら)べると還(さら)に些の方便が有るものの、この些(いささか)の古體字を保留する所以であって、更政を加えない。便(すな)わち讀者の檢査を起見して、この些字を擇要摘出することを把(もっ)て、並べて現代と通行する字を附注しておいたのである。

不(否)  内(納)  由(猶)  見(現)  邪(耶)  拊(撫)  罔(網)  要(腰)  匪(非)
振(賑)  旅(膂)  陳(陣)  禽(擒)  童(僮)  絜(潔)  解(懈)  閒(間)  辟(避)
寤(悟)  稟(廩)  蓐(褥)  領(嶺)  歐(嘔)  適(嫡)  縣(懸)  疇(儔)  離(罹)

像(形)から云うと「以」字と「已」字、「置」字と「致」字は互いに相い通用するもので、也(また)改めるようなことはしない。「丹楊」は「丹陽」と寫作するものが有る。「滎陽」は「熒陽」と寫作するものが有る。前後頗る不一致である。什麼(いかなる)寫法も不同であって、清代の學者は曾(かさ)ねて過很を作(な)し、多くの考據(考証)をしているが、終(つい)に但(ただ)論究しても定論はない。現在の本書中では統一して丹楊を滎楊と改めた。
  舊刻本の目録、正傳の姓名は大字に作り、附傳の姓名は小注に作っている。現在一律に大字を用い、附傳の姓名は正傳と較べて一絡を低め、一行毎に姓名の下に頁碼(頁数)を加注している。但だ個別的には幾行かの例外も有る。董卓傳に所附している李傕郭氾,他們(彼ら)兩人の事蹟が董卓傳中に分散して在るように、明確な起訖は無い。因って此れは頁碼を注しないことにした。目録と正書は、婁圭孔融等に目が有ってが無く、霍弋等には傳が有って目が無いというように、不符のものが有る。今分別して圓や兩種括弧などの符號を上方に加えて、應増と應刪とを表示する。
  『三國志』は過去に還(ま)た過(すぐ)れた標點本はなかった。我們(我ら)は公平に見て、很多(はなはだ)しい錯誤の部分が有るとわかれば、讀者が随時指摘することを希望し、以て再版時の修改に役立てよう。
中華書局編輯部一九五九年十二月

中華書局校点本『三國志』「出版説明」