■張元濟 百衲本『三國志』跋 書き下し及び現代語意訳■


跋(あとがき)

私は旧本正史の発行をしようとしていた。涵芬楼旧蔵の宋衢州本(紹興本)『魏志』は極めて精美であるが、『蜀志』『呉志』の二志は全部失われており、そのほか公私で秘蔵されているものは均しく宋刻(宋代の刊刻)ではない。

余ハ舊本正史ノ輯印ヲ欲シ之ヲ謀ル者(トキ)、有ル年、涵芬樓舊藏ノ宋衢州本(紹興本)魏志ハ極メテ精美ナリ。然レドモ蜀呉二志ハ全テ佚(ウシナワ)レ、其ノ他ノ公私弆藏(キョゾウ:隠して仕舞い込んでいるもの)ハ均シク宋刻ニ非ズ。


ただ、聊城の楊氏と松江の韓氏にこれ(宋版)がある。韓氏の書は聞くところ僅か数巻があるだけである。しかも秘蔵して人には見せない。楊氏は自ら鳳阿舎人と称して生き、また人とのつきあいもないまま亡くなった。

惟(タダ)聊城ノ楊氏ト松江韓氏ニ之(コレ)有リ。韓氏ノ書ハ聞クニ僅カニ數巻ヲ存スルノミ。且ツ秘シテ人ニ示サ不(ズ)。楊氏ハ自ラ鳳阿舎人トシテ世ヲ逝キ、亦タ縁通(つきあい)無ク故人ト假(ナ)ル。


張石銘の所蔵している元版本を借りると、私の既に撮影しているものである。これで衢州本(紹興本)を校訂すると、譌誤はますますひどい。その上、巻末に配されている宋刻数册はぼんやりしていて、内容に満足できない。

張石銘ノ儲(タクワエ)シ所ノ元(版)本ヲ以テ借ルニ、余ノ已ニ攝影(写真に収める)スルモノ矣(デアル)。以テ衢(州)本ヲ校スニ譌誤ハ滋(マスマス)甚シ。巻末ニ配スル宋刻數册ハ且ツ極メテ漫漶(ぼんやりしてよくわからない様)ニテ、意ハ殊(コトサラ)ニ歉然(満足できない様)タリ。


戊辰(1928)年秋、私は中華学芸社のために日本へ赴き、書物を訪ねて帝室図書寮の宋本を見ることが出来た。撮影させて貰って帰国し調べると、宋の諱は廓郭などの字までに至る。寧宗(1194-1224)時代の刊本であると知った。また、楊紹和の跋と対比したところ、揃って殿本考証に疑われている文字と一つ一つよく合致する。すなわち、この二本(図書寮本、旧・楊氏海源閣本)がまさに同じであることを知った。だから、殿本考証の校勘を採用する。

戊辰(1928)秋、余ハ中華學藝社ノ爲ニ日本ヘ赴キ、書ヲ訪ネテ帝室圖書寮舊藏ノ宋本ヲ見ルコトヲ獲(エ)タリ。借影シテ攜歸(持ち帰る)シ檢閲スルニ宋ノ諱避ハ廓郭等ノ字ニ至ル。寧宗(1194-1224)時ノ刊本ト爲スヲ知ル。又楊紹和ノ跋與(ト)勘對スル所、舉ゲテ殿本考證ノ疑字ト一一脗合(よく合うこと)ス。乃(スナハ)チ二本ノ實(マサシ)ク同ジナルヲ知ル。因ッテ復(マ)タ殿本讎勘(比べ当たる)考證ノ疑フ所ヲ取ル。


魏書第十四蔣濟傳のように、〔弊[危支]之民〕を考證は攰 に作ると応える。ここ正しく攰 に作る。第三十〔故但舉漢末魏初以來以備四夷之變云〕に注する〔悉禿頭以爲輕便〕。考證は、ある本には髡に作ると謂う。何焯の引く説文、鬀字の注は以って髡 の字の合うことを證している。これ正しく髡 に作る 。蜀書第十一向朗傳、〔歴射聲校尉尚書〕に注する〔鎮南將軍衞瓘〕。考證の引く衛覬傳は〔瓘爲鎭西將軍〕で、鎭南の字に作るのは誤りだと謂う。ここを正しく西に作る。又楊洪傳、〔能盡時人之器用也〕に注する〔初徃郡後爲督軍從事〕。考證は謂う、往郡は疑わしく仕郡に作る。此正しく仕に作る。呉志第二孫權傳、〔屈身於陛下是其略也〕に注する呉書。考證は曰字の脱しているかと疑う。ここは正しく曰字が有る。第四劉繇傳、〔繇伯父寵爲漢太尉〕に注する〔山陰縣民去治數十里〕。考證は謂う、民各本倶(とも)に訛りて氏に作る。今改正してこれを正しく民に作る。又士燮傳、〔壹亡歸郷里〕に注する〔會卓入闕壹乃亡歸〕。考證は闕を疑い關に作る。これを正しく關に作っている。第十五周魴傳、〔推當陳愚重自披盡〕。考證は推は疑わしく惟に作る。ここを正しく惟に作っている。これらは皆、楊氏の書の及ばないところである。

魏書第十四蔣濟傳ノ如ク、〔弊[危支]之民〕ヲ考證ハ謂ヒテ攰ニ作ルト應(コタ)フ。此正シク攰ニ作ル。第三十〔故但舉漢末魏初以來以備四夷之變云〕ニ注スル〔悉禿頭以爲輕便〕。考證、一本髡ニ作ルト謂フ。何焯ノ引ク説文、鬀字ノ注ハ以ッテ髡 字之合フヲ證ス。此正シク髡ニ作ル 。蜀書第十一向朗傳、〔歴射聲校尉尚書〕ニ注スル〔鎮南將軍衞瓘〕。考證ノ引ク衛覬傳ハ、瓘ヲ鎭西將軍ト爲ス。鎭南ノ字ニ作ルハ誤ナリト謂フ。此(ココ)ハ正シク西ニ作ル。又楊洪傳、〔能盡時人之器用也〕ニ注スル〔初徃郡後爲督軍從事〕。考證謂フ、往郡ハ疑ハシク仕郡ニ作ル。此正シク仕ニ作ル。呉志第二孫權傳、〔屈身於陛下是其略也〕ニ注スル呉書。考證ハ曰字ノ脱スルヲ疑フ。此(ココ)正シク曰字有リ。第四劉繇傳、〔繇伯父寵爲漢太尉〕ニ注スル〔山陰縣民去治數十里〕。考證謂フ、民各本倶(トモ)ニ訛リテ氏ニ作ル。今改正シテ此レ正シク民ニ作ル。又士燮傳、〔壹亡歸郷里〕ニ注スル〔會卓入闕壹乃亡歸〕。考證闕ヲ疑ヒ關ニ作ル。此レ正シク闕ニ作ル。第十五周魴傳、〔推當陳愚重自披盡〕。考證推ハ疑ハシク惟ニ作ル。此(ココ)ハ正シク惟ニ作ル。凡(スベ)テ此レ皆、楊氏ノ末ダ及バザル所者(トコロナリ)。


又明監本の誤字を正せるものがある。すなわち、これが引拠する『太平御覧』『册府元龜』『資治通鑑』が互いに異なる字を誤っていない。すなわちこれはよく合致する。楊氏は館員が校合した南北宋本のこの本に及ばないとすることを疑い、更に明らかにしようと、「南北監本」「毛氏汲古閣本」をも以てこれを交合したところ、結果諸本のほうが甚だしく及ばないことを知った。

又明監本之誤字ヲ政正(タダ)スモノ有リ。而(スナハ)チ此(コ)レ原(モト)引據(よりどころとする)スル『太平御覧』『册府元龜』『資治通鑑』互ヒニ異之字ヲ訛(アヤマラ)ラ不(ズ)。而(スナハ)チ此レ適(マサ)ニ相合ス。楊氏ハ館臣ガ據校之南北宋本ガ是本ニ及バ不(ズ)トスルヲ疑ヒ、此(ココ)ニ更ニ證ス可ク、更ニ「南北監本」「毛氏汲古閣本」ヲ以テ之ヲ校シ、而シテ諸本之逮(オヨ)バ不(ザ)ルコト尤(モット)モ甚(ハナハダシキコト)ヲ知ル。


一つには譌文(誤字)。魏書十六杜畿傳、〔然亦怪陛下不治其本而憂其末也〕。諸本は治を均しく知に誤っている。又十七張郃傳、〔從討柳城典張遼倶爲軍鋒〕。諸本は從を均しく後に誤っている。又十八龐悳傳、〔惟侯戎昭果毅〕。諸本は戎を均しく式に誤っている。又二十七王昶傳、〔若范匄對秦客而武子撃之〕。諸本は而を均しく誤っている。蜀書に至ると、二先主傳、〔羣儒英俊、並起河洛〕。諸本は起を均しく進に誤っている。又八秦宓傳、〔宓商稱疾臥在第舎〕。諸本は第を均しく茅に誤っている。又十劉封傳、〔先主因令達并領其衆〕。諸本は其を均しく兵に誤っている。又十五揚戲傳、〔維外寛内忌意不能堪〕。諸本は意を均しく竟に誤っている。呉書十二駱統傳、〔其姊仁愛有行寡歸無子〕。諸本は歸を均しく居に誤っている。ここで文義をもってこれを比べると、すなわちこの本がやや、より優れていると言えることを知った。

一曰譌文。魏書十六杜畿傳、〔然亦怪陛下不治其本而憂其末也〕。諸本ハ治ヲ均シク知ニ誤ル。又十七張郃傳、〔從討柳城典張遼倶爲軍鋒〕。諸本從ヲ均シク後ニ誤ル。又十八龐悳傳、〔惟侯戎昭果毅〕、諸本ハ戎ヲ均シク式ニ誤ル。又二十七王昶傳、〔若范匄 對秦客而武子撃之〕。諸本而均誤。蜀書ニ至リ、二先主傳、〔羣儒英俊、並起河洛〕。諸本ハ起ヲ均シク進ニ誤ル。又八秦宓傳、〔宓商稱疾臥在第舎〕。諸本ハ第ヲ均シク茅ニ誤ル。又十劉封傳。〔先主因令達并領其衆〕。諸本ハ其ヲ均シク兵ニ誤ル。又十五揚戲傳。〔維外寛内忌意不能堪〕。諸本ハ意ヲ均シク竟ニ誤ル。呉書十二駱統傳。〔其姊仁愛有行寡歸無子〕。諸本ハ歸ヲ均シク居ニ誤ル。此(ココ)ニ文義ヲ以テ之ヲ覈(クラ)ブルニ、而(スナハ)チ是ノ本之較(やや)優長(より優れていること)ト爲スヲ知ル也。


一つには衍文(余分な文字)。魏書十四劉曄傳、〔子寃嗣〕に注する〔曄之情必無所逃矣〕。諸本は所の下に均しく復の字が衍字である。又蒋濟傳、〔今其所急〕。諸本は急の下に均しく務の字が衍字である。又十五張既傳、〔斬首獲生以萬數注假使英本主人在實不來此也〕。諸本は來の下に均しく在が衍字である。又二十鄧哀王沖傳、〔世俗以爲鼠齧衣者其主不吉〕。諸本は主の下に均しく者が衍字ナリ。蜀書九馬良傳、〔及先主入蜀諸葛亮亦從往〕。諸本は從の下に均しく後が衍字である。又十二郤正傳、〔薛燭察寶以飛譽〕に注する〔乃取豪曹巨闕〕。諸本は取の下に均しく其が衍字である。又十三黄權傳、〔待之如初〕に注する〔其劉主之謂也〕。諸本は之の下に均しく所が衍字である。呉書十六陸凱傳、〔呉郡呉人〕。諸本は人の下に均しく也が衍字である。これまた文義を以てこれを比べると、すなわちこの本がやや、おおまか当たっていると言えることを知った。

一(アルイハ)曰ク。衍文、魏書十四劉曄傳、〔子寃嗣〕ニ注スル〔曄之情必無所逃矣〕。諸本所ノ下ニ均シク復ノ字ガ衍(余分)ナリ。又蒋濟傳、〔今其所急〕。諸本ハ急ノ下ニ均シク務ノ字ガ衍ナリ。又十五張既傳、〔斬首獲生以萬數注假使英本主人在實不來此也〕。諸本ハ來ノ下ニ均シク在ノ字ガ衍ナリ。又二十鄧哀王沖傳、〔世俗以爲鼠齧衣者其主不吉〕。諸本ハ主ノ下ニ均シク者字ガ衍ナリ。蜀書九馬良傳、〔及先主入蜀諸葛亮亦從往〕。諸本ハ從ノ下ニ均シク後ノ字ガ衍ナリ。又十二郤正傳、〔薛燭察寶以飛譽〕ニ注スル〔乃取豪曹巨闕〕。諸本ハ取ノ下ニ均シク其ノ字ガ衍ナリ。又十三黄權傳、〔待之如初〕ニ注スル〔其劉主之謂也〕。諸本ハ之ノ下ニ均シク所ノ字ガ衍ナリ。呉書十六陸凱傳、〔呉郡呉人〕。諸本ハ人ノ下ニ均シク也ノ字ガ衍ナリ。此レ又文義ヲ以テ之ヲ覈(くら)ブルニ、而チ是ノ本之較(やや)簡當(おおまか当たっている)ト爲スヲ知ル也。


一つには奪字(脱字)。魏書十五張既傳、〔封妻向爲安城郷君〕。諸本は均しく封の字が抜けている。又十六蘇則傳、〔帝大怒踞胡牀抜刀〕。諸本は踞の下に均しく胡の字が抜けている。又杜畿傳、〔若使善策必出於親貴親貴固不犯四難以求忠愛〕。諸本は均しく下の親貴の二字が抜けている。蜀書一劉璋傳、〔無恩徳以加百姓百姓攻戰三年肌膏草野者〕。諸本は均しく下の百姓の二字が抜けている。又五諸葛亮傳、〔因結和親遂爲與國〕に注する〔據正道而臨有罪〕。諸本は均しく正の字が抜けている。又七龐統傳、〔先主大笑宴樂如初注若惜其小失而廢其大益〕。諸本は均しく下の其の字が抜けている。又八秦宓傳、〔鶴鳴于九皐〕。諸本は均しく于の字が抜けている。呉書七歩隲傳、〔於是條于時事業在荊州界者〕。諸本は均しく業の字が抜けている。これはまた、この書(図書寮本)の刊刻が、より古い時代のものと見ることが出来る。すなわち、未だ失われていない部分が多いということである。

一曰奪字。魏書十五張既傳、〔封妻向爲安城郷君〕。諸本ハ均シク封字ヲ奪ス。又十六蘇則傳、〔帝大怒踞胡牀抜刀〕。諸本ハ踞ノ下ニ均シク胡ノ字ヲ奪ス。又杜畿傳、〔若使善策必出於親貴親貴固不犯四難以求忠愛〕。諸本ハ均シク下ノ親貴二字ヲ奪ス。蜀書一劉璋傳、〔無恩徳以加百姓百姓攻戰三年肌膏草野者〕。諸本ハ均シク下ノ百姓ノ二字ヲ奪ス。又五諸葛亮傳、〔因結和親遂爲與國〕ニ注スル〔據正道而臨有罪〕。諸本ハ均シク正ノ字ヲ奪ス。又七龐統傳、〔先主大笑宴樂如初注若惜其小失而廢其大益〕。諸本ハ均シク下ノ其字ヲ奪ス。又八秦宓傳、〔鶴鳴于九皐〕。諸本ハ均シク于ノ字ヲ奪ス。呉書七歩隲傳、〔於是條于時事業在荊州界者〕。諸本ハ均シク業ノ字ヲ奪ス。此レ亦タ是ノ書ノ寫刻ノ古ヲ去ルコト未ダ遠カラズト見ルニ足ル。而チ多クノ所遺佚スルニ至ラ不(ザ)ル也。


一つには俗字。魏書四齊王紀、〔西域重譯獻火浣布詔大將軍太尉臨試以示百寮注斯調國有火州〕。諸本は州を均しく洲に作っている。又十九陳思王植傳、〔誠以天罔不可重離〕。諸本は罔を均しく網に作っている。又二十一衞覬傳、〔茵蓐不縁飾〕。諸本ハ蓐ヲ均シク褥ニ作ル。又二十七徐邈傳、〔徐公志高行絜而不介〕。諸本ハ絜ヲ均シク潔ニ作ル。又胡質傳、〔官至徐州刺史注家貧無車馬童僕〕。諸本は童を均しく僮に作っている。又二十八鄧艾傳、〔封子二人亭侯各食邑千戸注百姓貧而倉稟虚〕。諸本は稟を均しく廩に作っている。又二十九管輅傳の末注、〔生驚舉刀斫正斷要〕。諸本は要を均しく腰に作っている。蜀書五諸葛亮傳、〔卒于軍時年五十四〕に注する〔憂恚歐血歐血〕の字四つ。諸本を見るに歐を均しく嘔に作っている。又十三黄權傳、〔贍猶與未納〕。諸本は與を均しく豫に作っている。ここで更にこの本の刊刻を前と比べれば、多くの古文が残っていると見ることが出来る。

一(アルイハ)曰ク俗字。魏書四齊王紀、〔西域重譯獻火浣布詔大將軍太尉臨試以示百寮注斯調國有火州〕。諸本ハ州ヲ均シク洲ニ作ル。又十九陳思王植傳、〔誠以天罔不可重離〕。諸本ハ罔ヲ均シク網ニ作ル。又二十一衞覬傳、〔茵蓐不縁飾〕。諸本ハ蓐ヲ均シク褥ニ作ル。又二十七徐邈傳、〔徐公志高行絜而不介〕。諸本ハ絜ヲ均シク潔ニ作ル。又胡質傳、〔官至徐州刺史注家貧無車馬童僕〕。諸本ハ童ヲ均シク僮ニ作ル。又二十八鄧艾傳、〔封子二人亭侯各食邑千戸注百姓貧而倉稟虚〕。諸本ハ稟ヲ均シク廩ニ作ル。又二十九管輅傳ノ末注、〔生驚舉刀斫正斷要〕。諸本ハ要ヲ均シク腰ニ作ル。蜀書五諸葛亮傳、〔卒于軍時年五十四〕ニ注スル〔憂恚歐血歐血〕ノ字凡(アワセ)テ四。諸本ヲ見ルニ、歐ヲ均シク嘔ニ作ル。又十三黄權傳、〔贍猶與未納〕。諸本ハ與ヲ均シク豫ニ作ル。此レ更ニ是本ノ刊刻ヲ前ト較(クラ)ブルニ、多ク古文ヲ存スト見ルニ足ル。


後続の諸本が世間に流布するようにはならなかったが、これらの諸本の優れているところを挙げることがまったくできなかった。楊氏の謂う宋代の版本も著録するところは極めて少ない。この本(図書寮本)を他本と比べた場合、非常に多くの箇所を正すことが出来、満足できて珍貴であることは嘘偽りではない。

後出スル諸本之漸趨流俗(世間に流布する)如キニ至ラ不(ズ)、也(マタ)類(タグイ)此ノ勝ル處、盡(コトゴト)ク舉グルコト能(アタハ)不(ズ)。楊氏ノ謂フ宋槧(宋代の版本)ノ著録スルモノハ極メテ尟(スクナ)シ。此本、他本ト較ブルニ、尤(モット)モ多クノ所ヲ是正シ、彌足(満足)珍貴ナルコト洵(マコト)ニ虚語ニ非ズ。


これを受けて、中華學藝社に出向いて借印し、以て班固・范曄の二書(『漢書』『後漢書』)の後に続けた。(図書寮本)に欠けていた『魏書』三巻は涵芬樓の衢州本(紹興本)を以て補った。

因ッテ中華學藝社ニ向ヒテ借印シ、以テ班(固)范(曄)二書(漢書・後漢書)之後ニ繼グ。原缺ノ魏書三巻ハ涵芬樓ノ衢(州)本(紹興本)ヲ以テ補配ス。


衢州本(紹興本)は宋の諱を桓字に至るまで避けている。刻字は前武帝紀建安十五年〔作銅爵臺〕に注する〔以及子桓兄弟桓〕を植と誤まっていないところまである。十六年〔遂與韓遂楊秋李堪成宜等叛堪〕を[土/滿-シ]や塙に誤まっていない。文帝紀延康元年、〔以肅承天命〕に注する〔代赤者魏公子〕の赤の下に眉の衍字がない。明帝紀太和二年、〔分新城之上庸武陵巫縣爲上庸郡〕。陵を靈に誤っていない。又十二月、〔諸葛亮五圍陳倉曹眞遣將軍費曜等拒之〕に注する〔以土丸塡塹丸〕を誤まっていない。互いにそれらは、諸本がどっちもどっちであることに比べて勝っている。だから、最も優れているものを選ぶことは、特に難しいことではない。最後は半ば合っているというところもあって、少しは不満がないと言うわけではない。

衢(州)本ハ宋ノ諱(イミナ)ヲ桓字ニ至ルマデ避ク。鐫刻(刻字)ハ前武帝紀建安十五年〔作銅爵臺〕ニ注スル〔以及子桓兄弟桓〕ヲ植ト誤マラ不(ザ)ルトコロマデ在リ。十六年〔遂與韓遂楊秋李堪成宜等叛堪〕ヲ[土/滿-シ]・塙ニ誤マラ不(ズ)。文帝紀延康元年、〔以肅承天命〕ニ注スル〔代赤者魏公子〕ノ赤ノ下ニ眉字ヲ衍セ不(ズ)。明帝紀太和二年、〔分新城之上庸武陵巫縣爲上庸郡〕。陵ヲ靈ニ誤ラ不(ズ)。又十二月、〔諸葛亮五圍陳倉曹眞遣將軍費曜等拒之〕ニ注スル〔以土丸塡塹丸〕ヲ誤マラ不(ズ)。互ヒニ其レ衆本之洵堪伯仲(大差ないこと)スル處ニ於ヒテ勝ル。以テ冠簡端(最も優れているものを選ぶ)亦タ殊ニ弱然タラ不(ズ)。終(ツヒ)ニ[片/半]合(半分合っている)之迹(アト)有リテ、一缺(少しの不足)ノ憾(ウラ)ミ非(アラ)ズト謂フ能(アタハ)不(ザ)ル也。

海鹽縣 張元濟