「山海経」と「太平御覧」

この頁は、「kituno_i」さんの主催する「聖徳太子、織田信長に恋しています。」トピにおじゃまして書き込んだものの中から「山海経」と「太平御覧」について集めてみました。

> 「倭」の定義

2003/ 4/14 23:45
メッセージ: 4027 / 4074
これは、多くの人によって論ぜられているテーマですので、私がそれについて述べるのもおこがましいかなと思います。それで、本日は「山海経(せんがいきょう)」から一文を引用。

盖(がい)国在鉅燕南倭北倭属燕

続いておなじみの文で細注が、

倭国在帯方東大海内以女為主其俗露[糸介]衣服無針功以丹朱塗身不妬忌一男子数十婦也

ムムムッ!

2003/ 4/15 23:43
メッセージ: 4037 / 4074
>南倭北倭

って書きましたか!こりゃスゴイ。ほんとに「南倭北倭」のついて知っているのですね!?
ムムムムムムムムムッ!

やはり、「kituno_i」さんは

2003/ 4/16 20:54
メッセージ: 4042 / 4074
ただ者ではない!

>hyena_no_papaさんの考え

なんてありませんよ。#4016で挙げた「倭」についての書籍には大概、触れてあると思います。そのほかに、朝日新聞社「続・邪馬台国のすべて」(昭和52年4月刊)135頁〜に、伊藤清司氏が「東アジアから見た倭人の国」のなかで要約して述べておられます。その頃の「倭」は、どうも「韓半島の東南沖」などではなく、遼東半島の北側にあると認識されていたようですね。

ま、「奴国」朝貢の時点で、正されたことでしょうが・・・。

それと、

>二つがあるようです

というのは、文面が、つまり「文字の並び」が違うと云うことでしょうか?

私の所持している「山海経」は「上海涵芬楼」のもので、「江安傳氏雙鑑楼蔵明生化戊子刊本景印」とあります。しかし、漢文というのは難しいですねぇ。どこまでが一つの単語やら・・・。

>3587頁

2003/ 4/17 23:13
メッセージ: 4050 / 4074
あれ、私の「太平御覧」では3597頁ですね。これも「涵芬楼」のものです。

>南海経曰、南倭北倭属

確かに「唐書」からの引用「開成四年又遣使朝貢」につづいて「○」で区切り、「南海経曰、南倭北倭属」と見え、細注が「倭国在・・・」と「山海経」と同様にあります。ただ、「南倭北倭属」だけでは、文意が不明ではないでしょうか?

「山海経」のそのあたりの記事を拾ってみると、

「朝鮮在列陽東海北山南列陽属燕=朝鮮は列陽の東、海北山の南。列陽は燕に属す」と、「盖国」の例と同じような構文ですね。ただ、上記漢文の読みについては、保証出来ません。あしからず・・・。

>どう読み下すのがよいと

2003/ 4/17 23:31
メッセージ: 4051 / 4074
「よい」と尋ねられても答えに窮します。とにかく先哲の雫を拾い集めて、ささやかながら我が身にまとう衣としておりますので・・・。

したがって「盖国は鉅燕の南、倭の北にあり。倭は燕に属す」でいいと思います。「漢書地理志第八巻下」に見える、有名な「夫楽浪海中・・・」の記事が「燕地」に含まれることとも整合しますよね。

「質問殿」が、

2003/ 4/17 23:49
メッセージ: 4052 / 4074
ご多忙の様子ですので、私から・・・。

>大平御覧

一口で言えば「百科事典」ですね。もちろん、漢字ばかり。明示してあるだけで、1690もの書物から出典を明示して記述してあります。このことが「太平御覧」を非常に資料的に価値の高いものにしていると思われます。

この「太平御覧」も来歴が複雑で、なかなか難しいようです。「太平御覧」について話し始めると長くなりますので、これくらいで・・・。

「に在り」が

2003/ 4/17 23:52
メッセージ: 4053 / 4074
抜けていました。

「朝鮮在列陽東海北山南列陽属燕=朝鮮は列陽の東、海北山の南【に在り】。列陽は燕に属す」

しかし、こんな読み方でいいのでしょうか?高校時代漢文の成績、悪かったからなぁ!

保険をかけて

2003/ 4/18 10:26
メッセージ: 4056 / 4074
>「朝鮮在列陽東海北山南列陽属燕=朝鮮は列陽の東、海の北、山の南にあり。列陽は燕に属す」

という読み方も出来ないでしょうかねぇ?「海北山」という山があるかどうか心配になったので・・・。こんなことなら、もっと漢文を勉強しときゃよかった!

>海の北、山の南

2003/ 4/18 20:14
メッセージ: 4061 / 4074
そうでしょうか?「海北山」でいいのでしょうか?なんか自信ないなぁ・・・。

>この保険はいらないのでは

という根拠をもうすこしご説明願えませんか?

>いつの頃の書物

2003/ 4/18 21:52
メッセージ: 4062 / 4074
それがですね、諸説在って未だ確かなことは言えないらしいのです。ま、大方のところ紀元前三世紀あたりかと云われているらしいのですが、下って後漢だ・三国だという説もあるとか・・・。ただし、その場合でも、伝承自体は春秋戦国あたりのことかとされます。

>いつの時代の「倭」

春秋戦国あたりの「倭」の伝聞でしょうね。

保険が利きました!

2003/ 4/18 22:09
メッセージ: 4063 / 4074
国分直一編「倭と倭人の世界」(毎日新聞社、昭和50年1月)115頁〜井上秀雄「中国古典の朝鮮と倭」125頁。

「朝鮮は列陽の東にあり。海の北、山の南、列陽は燕に属す」

やっぱ、「海北山」なんてのは、なかったんだ!しかし、「海の北」と「山の南」が「列陽」と同じく「燕」に属す、というのは地理的にちょっとおかしいのでは?

「海」というのは「黄海」で、「山」というのは、「鴨緑江」付近の山脈のこととすれば、こんにちの「北朝鮮」あたりとして理解しやすいように思えますが・・・。

「朝鮮は列陽の東、海の北、山の南にあり。列陽は燕に属す」と読んだ方が「朝鮮」の位置説明として明快のように思えるのですがねぇ。井上秀雄氏と云えば朝鮮史の大家。間違いはないのかも知れませんが・・・。

甘い言葉に、つい誘われて・・・

2003/ 4/20 22:48
メッセージ: 4071 / 4074
戻ってきました、このトピへ~~~(演歌調で)。

「太平御覧」について

北宋の「李ム」らが太宗の勅命を受けて編纂したもので、当初「太平総類」と呼ばれたが、太宗が毎日三巻ずつ閲覧したので、この名に改められた。成立は太平興国8年(983)。「中国歴史文化事典」(新潮社)より要約。

なにゆえこの「太平御覧」がそれほど重要な意味を持つのか?飲み込みの早い方はおわかりと思います。現存する「魏志」の最古の刊本「紹興本」「紹煕本」の元となった(といわれるが、それほど簡単な話ではないようです)「咸平本」よりなお20年早く成立していることです。

先にも述べましたが、この「太平御覧」には「魏志に曰く」などと、出典を明らかにして1,690もの文献が引用されているのです。これらの中には、今日既に失われた書物が多く含まれています。

さて、「太平御覧」に引かれる「魏志」と、それから遠からず成立した「咸平本」(1002〜3)の流れをくむ(らしい)諸版本(12世紀)との間にどれほどの字句の相違があるのかを調べてみると、少なくとも「倭人伝」部分について云えば、非常に異同が多いことがわかります。このことは以前から多くの方が指摘されていることでもあります。

「御覧所引魏志」には「耶馬臺国」と見えます。「臺」であって「壹」ではありません。「現存最古の刊本」より遥か以前に成立した「太平御覧」には「魏志曰」として「耶馬臺国」とあるのです。

「邪馬壹国」が正しい!と唱える人は、このこと(「太平御覧」の「臺」)をどうクリアするかと云えば、「太平御覧」は粗雑である・・・よって信用ならない!と云うわけです。そのように唱えるほかに「邪馬壹国」の生き延びるすべはないからです。

長くなりますので、以上、要点だけに留めます。

>どうして春秋戦国あたりの「倭」だと

2003/ 4/20 22:55
メッセージ: 4072 / 4074
>言えるのですか?
>中国の史書で「倭」についての最も古い記述は(書かれた年代は別として)『漢書』地理誌の「楽浪海中有倭人・・・」ですが、『山海経』の記述はそれよりも古い時代の「倭」ということになるのですね。

そのようですね。ただし、この「山海経」に現れる「倭」が果たして、後の「日本列島」の「倭」であるかどうかははっきりしません。「倭人」と「汗人」との問題とか、「倭人磚」の問題とか、「倭」の呼称の起源については私の知識の未だ及ばないところです。

以前に列挙した「倭」をタイトルとした本には詳しく書いてあるようですが・・・。

ついでに「冊府元亀」について

2003/ 4/20 23:14
メッセージ: 4073 / 4074
「太平御覧」と同様の立場にあるのが「冊府元亀」です。「太平御覧」に遅れること30年、太平祥符6年(1013)真宗の命を受けて「王欽若」「楊億」等によって編纂された。原名は「歴代君臣事迹」だったが、完成後現在の名に改められた(前述「中国歴史文化事典」より)。

こちらも多くの書物からの引用で編纂されたものですが、残念なことに、こちらは出典を明らかにしていません。そのことを除くと、研究資料として極めて重要であることは云うまでもありません。

特にこの「冊府元亀」の成立は「咸平本」の成立に遅れること約10年。ほとんど同時代ということになります。もちろん「紹興本」「紹煕本」よりは百年以上遡っての成立となります。

さて、この「冊府元亀」には「卑弥呼の都した所」を何と記しているか?「邪馬臺国」なのです。

もうひとつ、ついでに「通志」について

2003/ 4/20 23:25
メッセージ: 4074 / 4074
この「通志」は南宋の「王樹海」「鄭樵」の撰で1161年の成立です。つまり現存最古の刊本である「紹興本」とほぼ同時代。で、この「通志」も「魏志」を引用して(「魏志に曰く」とは書いてないが)、「邪馬臺」とあります。

この上に、「隋書」「通典」の例を持ち出す必要もないでしょう。南宋代「紹興本」「紹煕本」が刊行されるまでの「魏志」には「邪馬臺国」とあったのです。

えらくトピずれしてしまいましたが、「太平御覧」についてのお尋ねが「kituno_i」さんよりありましたので、以上極めて簡単に私の書きうるところを書いてみました。それでは、おやすみなさい・・・。

袖摺り合うも、他生の燕?

2003/ 4/22 0:10
メッセージ: 4084 / 4084
>、「邪馬台」「邪馬壹」を「やまと」と読む解釈は成立しがたくなるような気がしますが

漢字をどう読むか?また、日本語をどう漢字に書くか?というのは、ちょっと難しすぎて、他の方へ「丸投げ」したいと思います。

>返還期

は、「変換期」でしょうね?「日本」の国号問題も、かつて「邪馬台国トピ」でしたか「九州王朝トピ」でしたか、話題になりました。これまた難しい問題です。

>最も理解しやすく読みやすい本

「読みやすい本」より「ホネのある本」がいいのではないかと思います。「トマトジュース」や「納豆」を最初に口にしたときは、吐き出しそうになりましたが、馴れると「クセ」になるもので・・・。気がつくと、一生の道連れだったりして。

・井上秀雄著「倭・倭人・倭国」人文書院、1991年、
・国分直一編「倭と倭人の世界」毎日新聞社、昭和50年

などいかがでしょうか?

「太平御覧」についてA

2003年4月22日 午前12時36分
メッセージ: 4085 / 4085
・・・・・ところが!

「太平御覧」という金看板とは相反して、実のところこの百科事典は、「北斉」の「祖[王廷]」らが勅命によって編纂した「修文殿御覧」がその原本となったとのこと・・・。「北斉」といえば「隋」の統一直前、6世紀後半の北朝の国。

「太平御覧」には他にも「芸文類聚」「文思博要」などからの転用が多く、第一次史料から出たものではなく、誤りも多い(前掲「中国歴史文化事典」より)とのこと。

つまり、「太平御覧」は400年前の「修文殿御覧」の焼き直しだということ。え゛〜〜っ!と叫びたくなりますが、押さえて押さえて・・・。

考えてみると、それはそれで貴重なことです。なぜなら、「修文殿御覧」が元ネタというならば、「太平御覧」に引用されている諸書は、より古形を保っている可能性が在ると言えます。

しかし、そうなると「太平御覧」の来歴を云々するよりも、その記述内容と引用元の諸本とを校合することで、何らかの事実を見いだすことが出来るかも知れません。

その結果!    (to be continued)

「修文殿御覧」も

2003/ 4/22 8:51
メッセージ: 4086 / 4089
すでに散逸して、現存しません。言い忘れていましたので、付け加えておきます。では、仕事、仕事・・・。

「太平御覧」についてB

2003年4月22日 午後11時03分
メッセージ: 4090 / 4090
>「太平御覧」は400年前の「修文殿御覧」の焼き直しだということ

でも、よく考えてみたら、そうとばかりも言えませんね。というのは、「太平御覧」の「経史図書綱目」には945年成立の「旧唐書」や、974年の「旧五代史」、981年の「唐會要」など、「太平御覧」成立直前までの史料が挙げられています。「修文殿御覧」のリメークなどと解釈するのは早計かも知れません。

さて、そうすると「太平御覧」の信頼度は、それこそ記事の校合によって自分で確かめるしかないようです。

>>「太平御覧」について

2003/ 4/24 12:53
メッセージ: 4102 / 4132
>一生を費やせそうな

大陸や台湾には、そんな人がごろごろいらっしゃるのでしょうね。そんな人の「門前の小僧」になりたいっ!

>「太平御覧」を持っていらっしゃるのですか?

もちろんです。でも、最近よく開くので傷みが激しくなって・・・。

>一般の人でも手に入る書物なのですか

入手ルートは、一応企業秘密ですが、ネット時代のこんにちでは容易に手に入るのではないでしょうか?昔は、割と苦労しました。

国内史料の方は、ほとんどありません。従って「記紀」がらみの論争には、まったくお手上げです。

代役など・・・

2003/ 4/24 20:59
メッセージ: 4109 / 4109
つとまりません・・・。ま、パシリくらいなら・・・。

「質問殿」の知識沼は、底無しのようで・・・。

「修文殿御覧」については、得るところ、もっぱら「中国歴史文化事典」からのみですが、その中に、フランス人ポール・ペリオが発見した唐代の手写本のことが書いてあります。羅振玉がこれを「修文殿御覧」だと考証したとか、また洪業が「華林遍路」であると反駁して、未だ結論が出ていないとか・・・。

くらくらするような話ですね。

なお、羅振玉の「鳴沙石室佚書」に入れられて刊行されていると書いてあります。

>立ち読み

どこで立ち読みされたんでしょうか?ウチのような田舎じゃ、無理でしょうね!

寝る前にもう一つだけ・・・

2003/ 4/25 0:22
メッセージ: 4115 / 4121
インターネットというのは、無限の空間ですね!

「国立国会図書館・アジア情報室」
http://www.ndl.go.jp/jp/service/kansai/asia/link/east/link_chn.html

それではほんとに、おやすみなさい!