二、西都原という地名について

西都原のことが文献その他に、どのように現われているかということについて述べてみたい。最も古いと思われるものでは「石貫神社申上口上書」の中に三宅郷五邑の一つとして「可愛田原(えのたばる)という名称が見いだされる。この古文献が承安三年と記されているので、平安時代末期ということになるが、年代的には下るのではないかと思われるので資料価値としては問題が残る。何れにしても、古い時代から可愛田原という呼び名が伝わっていたことは事実であろう。
現在西都原の北部、穂北から三納に通じる谷間に江谷という地名があるが、これも恐らくは可愛谷(えのたに)から変化したものであろう。また、御陵墓参考地に指定されている男狭穂塚を可愛山陵(えのさんりょう)と称しているが、里人は古くから可愛塚と呼んでいたので伝承的には何らかの関連があるのではなかろうか。しかし、この西都原の大古墳群が人々の関心の対象になってくるのは中世期も後半になってからであろう。三宅神社に伝わっていた応永元年三月十二再写の「当郡(3)(4)旧社大祭、中、下祭定控」によると、この神杜では一年間に九十七度 祭祀が行われたようである。なかでも、六月夏至の日の天孫降祭、八月十五日の国家安穏祭、十月一日及び十一月初卯の日の山陵祭を三大祭としていた。この中に見える山陵祭はいうまでもなく、西原の男狭穂塚を対象にした祭典であった。応永年間というと約五百七十年前、室町時代にあたるが、この頃、三宅地方の人々が挙って古墳をお祭りしたことには敬意を表すべきであろう。この時代に山陵祭が行われたことについては、多分、当時著わされた神皇正統記、大平記など多くの著書が世に出された一つの文芸復興期でもあったので、それらのことがかなり国家主義的な影響を地方まで及ぼしたのではなかろうか。三宅神社の大祭の中に見る天孫降臨祭、国家安穏祭というような礼祭の名称からもそのようなことが強く感じられる。
三宅神社は俗に上の宮(うえのみや)とよばれているが、古くは覆野(おおの)大神宮と称した。その地に大尾という地名があったことからも、この名称が本来の呼び名であろう。その後、これをフクノと称するようになり、「日向国図田帳」には福野宮神田、二十五町と見え、前述した応永元年三月の旧記には三宅郷福野御祭礼の文字が記されている。また、弘治二年六月の記録には福野八幡宮の名が散見される。この西都原の台地は古く笠狭(かささ)とよばれ、上、中、下の地域に分れ、三宅神社の地は中笠狭にあったといわれている。永録(ママ)元年六月一日の写しである「妻宮縁起書」には児湯郡斉殿原笠狭崎という文字が見え、さらに、元録(ママ)四年十二月の「覆野大神宮由来」では次のような文句が記されている。

地神第三代瓊々杵尊大日本国西海道日向国臼杵郡高千穂峰天孫御座其後同国児湯郡三宅郷櫛木斉殿原宮柱太敷立神社是也………

これらの記録によると既に、室町末期の永禄年間から江戸時代中期頃にかけては西都原のことを斉殿原と称していたようであるが、この文字を何とよんでいたであろうか。そのことについて、郷土が生んだ江戸時代の国学者児玉実満は「笠狭大略記」という著書の中で殿原にサイトノハル、斉殿神社にツキドノという振り仮名をつけて次のように述べている。

御崎より寅方十五丁余御社地檍木に鎮座在座すなり。此ノ本邑を調殿邑と称す…
帝都は[木患]木斎殿 (くしきさいとの) 原と称へ、児屋根命御事は檍木斉殿(つきどの)神社と崇敬し奉る…

この文中に出てくる調殿(つきどの)邑は「建久図田帳」に宇佐領の調殿十六町とあって、西都原地方では最も早く宇佐の神領になった所である。調殿という地名は既に平安末期から存在しているのであるが、この地名と斉殿または斎殿原とがどのような関係にあったかは明かでない。「笠狭大略記」には斉殿神社とあるが、従来、一般には調殿という文字を使つている。何れにしても、斎殿原(さいとのはる)という呼び名は明治になっても聞かれたそうである。では西都原という名称は何時頃から呼ばれるようにをったのであろうか。私は以前、恐らく明治時代にってからだろうと考えていたところ、偶然にも、最近になって男狭穂塚の附近から二ケの石碑が発見された。それには、それぞれ

謹造樹萬基燈 寺原西都原 若衆中
文化十四 丁丑 稔 小陽初旬日

hy注:寺原西都原は双行細字)

と記されてあり、既に文化十四年に西都原という名称で呼ばれていたわけである。現在でも西原には寺原以外に部落はないので、多分、西原にある寺原部落という意昧ではないかと思う。この名称が若し斉殿原から導かれて西都原になったにしても、西都原という文字には何か近代的なセンスすら感じさせられる。文化文政期の国学復興期において九州の辺地に於いてもその影響をうけて西都原という名称が出来たことは興味あることであるが、その名付け主は、あるいは児玉実満などではなかったかとも推察される。しかし「笠狭大略記」を著わしたのが文政八年であり、文化十四年はその八年前にあたるので、若し、児玉実満が西都原という名称を使ったとすればその後に著わされた「笠狭大略記」にはその地名が出てきてもよい筈である。それが全く見えないのは別にアイデアの持ち主が居たのかもしれない。明治二年の「児湯郡神社取調書」によると三宅神社のことを西都農神社と称しているので、明治初年頃には、西都原という呼び名もかなり一般化していたのではないかとも考えられる。この西都農神社も明治四年には三宅神社と改称されているので、おそらく、この名称は江戸末期、文化、文政期頃から明治初年まで郷土民の古跡に対する関心の高まりの結果、一時的につけられたのであろう。しかし、西都の原(さいとのはる)、(俗に、せとんはる)また、西都原という名称で県外まで知れわたるようになってきたのは大正元年から六年間行われた西都原古墳群の大発掘調査以後からである。なお、大正年間頃までは後に述べるように金昆(ママ)羅原(こんぴらばる)とも称していた。

B宮崎県、宮崎史跡調査報告書、第5輯、児湯郡之部、昭和五年。
C三宅神社に伝わった古文献は文化七年十二月の火災により、すべて消失したとのことである


〔出典〕日高正晴『西都原の古墳について』「二 西都原という地名について」(10〜13頁)
昭和43年8月30日印刷/昭和43年8月31日発行/昭和44年4月30日再販/昭和46年7月31日再々版/著者 日高正晴/発行者 宮崎県西都市教育委員会/印刷者 宮崎タイプ印刷株式会社

※西都原古墳研究所所長日高正晴先生の快諾を得て、紹介させて頂きました。なお、赤字の箇所は再点検の結果、修正した部分です。