類書について

以下は、「邪馬台国論争が好きな人集まれ!!」に「類書」についてシリーズで書き込んだものを掲載した。

「類書」について(1)

2003/ 7/25 23:42
メッセージ: 6123 / 6510
孟慶遠の編による「中国歴史文化事典」によれば、「類書」とは

一定の意図に基づいて、多くの書を収集し、成語や故事を集め、一定の部類に編集して検索の便を図った書。辞典・百科全書などと相似した性質を持っている

とある。また、

「旧唐書経籍志」では「類事」と称し「新唐書芸文志」に至って初めて「類書」と称するようになったという。従って、「華林遍略」「修文殿御覧」などという初期の「類書」の成立した頃は、当然そのような呼称・分類はなかったのだろう。

「類書」の編まれた目的としては、
1)皇帝の御覧に供するもの(「修文殿御覧」「太平御覧」など)。
2)文人が詩文を作る際に詩語や典故を見つけだす用に供するもの(「初学記」など)。
3)文人が科挙の試験を受けるための用に供するもの(「玉海」など)。
がある。

「類書」の存在価値は、逸書を含む大量の古文献を含むことで、それによって古書の校勘をする重要な史料になる点にある。

さて、この「類書」について述べることが、「邪馬台国問題」とどのように関わりがあるのか?それは読み進んでいただけばおわかりになるかと思う。
これは hip_hop_oldman さんの#1に対する返信です

類書について(2)

2003/ 7/26 6:38
メッセージ: 6124 / 6510
では先ず始めに、登場する「類書」などのご紹介をしておこう。

「華林遍略」・・・梁代(502-557)。620巻。「日本国見在書目録」にあり。

「修文殿御覧」・・・北斉(550-577)の祖[王廷]らが勅命によって編集。既に散逸。「日本国〜」にあり。

「芸文類聚」・・・唐の欧陽詢らが高祖の勅命によって編纂。武徳7年(624)。「日本国〜」にあり。

「初学記」・・・唐の徐堅らが玄宗(685-762)の勅命によって編纂した(開元十三/725?)。30巻。23部、313目に分かれる。部・目の名は基本的に「芸文類聚」を踏襲している。「日本国〜」にあり。

「秘府略」・・・「和製類書」。天長8年(831)、滋野貞主らのよる奉勅撰述。

「日本国見在書目録」・・・平安時代(9世紀後半)、藤原佐世が宇多天皇の勅命を受けて編纂した。当時の漢籍の綜合目録。1579部、16790巻。

「太平御覧」・・・類書のもっとも著名なもの。北宋の李[日方]らが太宗の勅命で編纂。太平興国8年(983)成立。引証した書目は1690余種に達しているが、多くは「修文殿御覧」「芸文類聚」「文思博要」などからの転用で、第一次資料から出たものではなく、誤りも多い。当然「日本国〜」にはない。

「冊府元亀」・・・北宋の欧欽若・楊億らが真宗の勅命によって編纂。大中祥符6年(1013)成立。

「山堂考索」・・・「太平御覧」「冊府元亀」とならぶ「宋代三代類書」の一。

つづきはまた今晩・・・。
これは hyena_no_papa さんの#6123に対する返信です

>>類書

2003/ 7/26 19:50
メッセージ: 6128 / 6510
こんばんは!「質問殿」。

このシリーズには「質問殿に捧ぐ!」というサブタイトルをつけようと思ったのですが、「捧げる」ほどの内容になるのかどうか、ちょっと自信がありませんでしたので止しました。

このシリーズの途中でもどんどんご指摘・ご意見などお寄せください。ただし、私に答えられそうにないご質問は、どーかご勘弁を!

>『北堂書鈔』

はい、名前だけは承知しています。これまた一通り調べておく必要があるでしょうね。

いま、会社での仕事が終わりましたので、帰宅して食事・風呂・テレビ・・・のあと、続きを書きたいと思います。
これは situmonde_su さんの#6127に対する返信です

「類書」について(3)

2003/ 7/27 0:49
メッセージ: 6133 / 6510
さっそく「質問殿」よりご指摘いただきました「北堂書鈔」、例によって「中国歴史文化事典」より拝借して・・・。

中国に現存する最古の類書。虞世南が隋代に編んだ。元来174巻とされるが現行のものは160巻。全部で852類を数えるが、元は801類だったという。明の陳禹謨が刊行したおり勝手に改竄・増補したとされる。

※「質問殿」へ:調べものをしてるだけで、時間がどんどん過ぎてゆきます。これまでよりスローペースになりますが、よろしく!それと、「文思博要」について書いたことがあると記憶しているのですが、探し出せずにいます。情けないのですが・・・。それと「白氏六帖事類集」というものも出てきました。唐の白居易の著とか。

清の「康煕帝」の命により編纂された「古今図書集成」一万巻!に驚いていたら、明の「永楽帝」の命による「永楽大典」22,877巻!「太平御覧」一千巻に感嘆していたのに・・・トホホ!道は長い!
これは situmonde_su さんの#6127に対する返信です

「類書」について(4)

2003/ 7/27 22:39
メッセージ: 6140 / 6510
「北堂書鈔」も「文思博要」も「日本国見在書目録」には見えません。「修文殿御覧」や「華林遍略」「芸文類聚」「初学記」などが見えるのに、このあたりの違いは何でしょうね?

「文思博要」については、前に書いたことがあるのですが、簡単にご紹介しますと、唐の「太宗」の命を受けて、「晋書」の編者「房玄齢」や「高士廉」等が編纂した千二百巻に及ぶ一大類書です。

「高士廉」は「貞観21年(647)」72歳(「旧唐書」による。「新唐書」では71歳)で亡くなっていますので、「文思博要」は7世紀前半の成立と見られます。

「晋書」は646年成立していますし、「文思博要」にも関わった「房玄齢」の編になることから、この両書はおそらく何らかの関わりがあるのではないでしょうか?

さてさて、「類書」のご紹介ばかり続きましたので、そろそろ本題に入りたいと思います。まずは頁を改めて・・・。
これは hyena_no_papa さんの#6133に対する返信です

「類書」について(5)

2003/ 7/27 23:15
メッセージ: 6142 / 6510
まず最初に取り上げるのが「太平御覧」「初学記」「秘府略」です。

成立年次のおさらいをしておきます。
「初学記」・・・8世紀前半
「秘府略」・・・831年
「太平御覧」・・983年

ここまで書いてきて、これが「邪馬台国」となんの関係があるん?と思う人も多いかも知れませんので、一口で言えば上記三書にはいずれも「魏志倭人伝」が引用されていると言うことなのです。

もちろん他にも「魏志倭人伝」を引用、あるいは参照した書物は多いのですが、今回はそれらについてはちょっと脇に置いておきます。なぜなら、今回のこのシリーズのテーマは「類書」について・・・ですから。「類書」の中で「魏志倭人伝」がどのように引用されているか?を見て、そこから何らかの推測を得ることが出来ないか?との試みなのです。
これは hyena_no_papa さんの#6140に対する返信です

>>類書

2003/ 7/28 8:37
メッセージ: 6144 / 6510
「淵鑑類函」については、今回の調べものの過程で出てきましたし、「中国歴史文化事典」にも解説が載っておりました。が、どんなものであるかほとんど承知するに至っていませんので、挙げませんでした。

>『チョウ(「王」+「周」)玉集』

というのは知りませんでした。やはり「質問殿」の情報力は私の比ではないようです。おひまなときに結構ですから、概略ご教示願えれば幸いです。とくに、

>日本に一部が伝存した

ってのは、わくわく・どきどきで、これだから古代史はやめられない!って思いますよね。

とり急ぎ御礼まで。
これは situmonde_su さんの#6143に対する返信です

「類書」について(6)

2003/ 7/29 0:23
メッセージ: 6149 / 6510
初学記)  魏志曰景初中賜倭女王絳地交龍錦五疋
秘府略)  魏志曰景初中賜倭女王絳地交龍錦五匹(a)紺地句文錦三匹(b)倭献異文雑錦三十疋
太平御覧) 魏志曰景初中賜倭女王絳地交龍錦五疋(a)紺地勾文錦三疋(b)倭献異文雑錦二十疋

以上三書に引かれた魏志と通行本の文面とを比べてみると、(a)と(b)の部分にはそれぞれ文が挟まっています。しかも、(b)の部分は非常に長く、「太平御覧」「秘府略」の(b)以降の部分は「壹與」に関する記事なのに「卑弥呼」の記事からの引用の部分につなげ両者を「倭女王」でひとくくりにしてあります。ま、なんと大雑把なことかと思います。

上記の事実から容易に知れることは・・・(また明日)
これは hyena_no_papa さんの#6142に対する返信です

sugoide_su!

2003/ 7/29 6:37
メッセージ: 6151 / 6510
脱帽・・・ですね!

「日本国見在書目録」には「[王周]玉集十五巻」、「解説稿」の注に「舊鈔本真福寺」と見えるのみで、

>ちなみに〜

の部分は、私の到底知り得ぬ事です。ご教示ありがとうございます。それにしても天平の書写ですか・・・。この中に「倭」の字は見えないのでしょうね?
これは situmonde_su さんの#6150に対する返信です

「類書」について(7)

2003/ 7/29 21:36
メッセージ: 6159 / 6510
横道に少しそれま〜〜〜す。

「質問殿」より「[王周]玉集」についてのご教示がありましたので、私としても少々ネット検索を掛けてみました。

真福寺(北野山真福寺宝生院=通称大須観音)の「真福寺文庫(大須文庫)」に伝存する国宝。「巻第十二、第十四」のみ。天平十九年(747)書写とされる。

研究論文に、
■真福寺文庫蔵『[王周]玉集』の国語研究 北海道駒澤大学研究紀要19−20 1984〜1985
がある。また「京都大学附属図書館所蔵 谷村文庫」には、
■「[王周]玉集第14巻/東京古典保存会・昭和8年刊
がある。

恐らく「質問殿」はこのあたりのレベルの書籍を読まれているのではないかと拝察致しますが・・・。

一つ些細なことですが、小長谷恵吉著「日本国見在書目録解説稿」には「テウコク」とルビが振ってあります。「ちょうこく」って読むのでしょうか?
これは situmonde_su さんの#6150に対する返信です

「類書」について(8)

2003/ 7/29 22:03
メッセージ: 6160 / 6510
「日本国見在書目録解説稿」にもう少し詳しい説明が載っていました。67頁〜。

[王周]玉集零本 不著撰人氏名 見在書目雑家
 奈良朝鈔本(名古屋真福寺)
 古逸叢書本
 古典保存会影印本
 国宝全集第二十三輯所載、原十五巻、経籍訪古志云、所引各書、如蔡[王炎]別伝、語林、史説、晋抄、王智信宋書、帝王世記、近多不伝、亦得籍之存其概、雖断簡残篇豈可不貴重哉。

※零本=書物の大部分の巻数が失われて、ごくわずかに残っているもの。
※鈔本=書写本。
これは hyena_no_papa さんの#6159に対する返信です

>『[王周]玉集注釈』

2003/ 7/30 6:26
メッセージ: 6165 / 6510
おはようございます!朝飯前の検索で、以下のように出ました。

Yahoo!ブックスショッピング
玉集注釈 / 柳瀬喜代志/著 矢作武/著 汲古書院
1985年10月発行
266,16P 22
ISBN: 4-7629-2322-2
価格: 7,500円(税別)
取寄せ不可 :在庫切れ、絶版、重版未定等により、お取り扱いいたしておりません

「玉集注釈」はもちろん「[王周]玉集注釈」ですね。出ない文字は初めから「抜き」で表示するのですね。ネット世界のウイークポイントの一つでしょう。

>「倭」のことは
>予想通り、記事はありませんでした

お手数をお掛けしました。ご配慮感謝します。しかし、「大須観音」には「国宝・漢書食貨志第四」(8世紀書写?)があるとか・・・。「日本国〜」に載っていながら現存しないとされる書物も、これからどこかでひょっこりと発見される可能性も皆無ではない・・・と信じたいですね。
これは situmonde_su さんの#6164に対する返信です

「類書」について(9)

2003/ 7/30 23:15
メッセージ: 6172 / 6510
「質問殿」に、こっそりご報告!

本日「山堂考索」入手しました。これで「宋代三代類書」と言われる「太平御覧」「冊府元亀」それに「山堂考索」勢揃いしました。

また、「宋代四大書」と言われるもののうち「文苑英華」を除く「太平御覧」「冊府元亀」「太平広記」も揃い、おまけとして「太平寰宇記」も既に所蔵・・・。

「猫に小判」「馬の耳に念仏」「○○に真珠」にならぬよう、頑張ります!
これは hyena_no_papa さんの#6160に対する返信です

>>「大須観音」

2003/ 7/31 21:35
メッセージ: 6176 / 6510
>わたしの大学生時代

文学部なんでしょうね。私は「エレキテル」の方なので、文学部的な素養が乏しく、いわば「軟弱な地盤」の上に自分の考えを組み立てているようなものです。

ですから、先日のような「震度6」くらいの地震に襲われると、地盤の液状化現象が起きて、もろくも崩れ去る危険があります。

従って、地盤を固めるためには、そちらの方面にお詳しい方々のご意見・ご教示を以て「地盤凝固剤」としなければならないわけでして・・・。

>「ひょっこり」出てきても

きっと出てきますよ!古い家屋のふすまの下張りに古書を使うこともあるようですので、こんな処からも出てくるかも知れません。
これは situmonde_su さんの#6173に対する返信です

>>山堂考索

2003/ 7/31 21:59
メッセージ: 6177 / 6510
「山堂考索」の名前は、「太平御覧」の序文で知りました。

・・・太平御覧又為宋三大類書之一、其他二者為冊府元亀與山堂考索・・・

で、「山堂考索」の冒頭「影印説明」で4頁に亘って詳しく解説してあります・・・が、これを俄に読み下すなどと云う芸当は小生のよくなし得るところではありませんので、いずれの日にか・・・ということで、どーかご勘弁を!

ご存じかと思いますが、編者の「章如愚」は「山堂先生」と呼ばれ、この「山堂考索」も、別名「山堂先生群書考索」と称されます。

なんと、「山堂先生群書考索序」に続いて「山堂先生真像」というイラストが半葉大にに描かれてあります。穏和で、しかも聡明そうな風貌です。

これからテレビを見ますので、又後ほど・・・。
これは situmonde_su さんの#6174に対する返信です

>>山堂考索(2)

2003/ 7/31 23:29
メッセージ: 6178 / 6510
で、「山堂考索」の分類法は、他の類書類とは一風変わっていますね。他のが、

【巻○○ ××部】

とあるのが普通なのに、「山堂考索」は、

【門−類(あるいは「学」「法」「制」など)】となっています。「山堂考索目録〜前集」は「巻一 六経門 易類」で始まります。一番最後は「辺防門」・・・「通典」を思い起こさせますが・・・なのですが、どうやら「四夷」についての記述ではないようです。

とりあえず、「目録」にざっと目を通した処での印象を書いてみました。
これは hyena_no_papa さんの#6177に対する返信です

「類書」について(10)

2003/ 8/ 1 23:38
メッセージ: 6179 / 6510
投稿者: hyena_no_papa (999歳/男性/倭国)
これは、(6)のつづきです。

文面を比べていただければすぐに分かるとおり、「秘府略巻八百八十三錦」と「太平御覧巻八百十五布帛部二錦」とは、かなりの親密な関係が見て取れます。

「太平御覧」の成立年次のほうが「秘府略」より早いのであれば、わがくににもたらされた「御覧」をベースにして、和製類書たる「秘府略」が編まれた・・・と考えられるのですが、実際は「逆」!「秘府略」のほうが、150年ほど先に成立しています。

ということは、この両者に共通する「類書」があって、それぞれこの「類書」を下敷きにして編まれたと考えられますね。

で、その一番手に挙げられるのは「芸文類聚」(624成立)なのでしょう。しかし、「秘府略」と「太平御覧」は(6)で挙げた(b)以降の部分まで共通しているのに対して、「芸文類聚」は「初学記」と類似しています。「魏志曰景初中賜倭女王絳地交龍錦五疋」で引用が終わっているところが共通していますね。

従って、「秘府略」と「太平御覧」が下敷きとした「類書」は別のものかも知れません。「修文殿御覧」「華林遍略」あたりになるのでしょうか?当時成立した「類書」には「文思博要」「北堂書鈔」がありますが、いずれも「日本国見在書目録」(9世紀後半=「秘府略」よりやや後)には見えません。「日本国〜」が当時の漢籍を網羅したわけではないにしても、「文思博要」「北堂書鈔」が「秘府略」のベースになった可能性は、「修文殿御覧」「華林遍略」よりかなり低いと思われます。

※「質問殿」のご教示によれば、「北堂書鈔」は現存する最古の「類書」ということで、成立は「隋代」とされます。これは市中で入手出来そうですので、機会があればチャレンジしたいと思います。
これは hyena_no_papa さんの#6149に対する返信です

「類書」について(11)

2003/ 8/ 2 0:12
メッセージ: 6180 / 6510
内藤湖南も、このあたりのことについては「平安朝時代の漢文学」の中で触れておられる。すなわち、

〔宋の太宗の時、太平御覧(一千巻)が出来て大いに珍重せられたが、此れは矢張り唐代の類書を集めて作ったもので、其の巻数も体裁も秘府略と全く同様であって、実は此の様なものならば百五十年も以前に日本人が作っているのである。今秘府略の中では百穀、錦繍の部が残って居るが、太平御覧と比較して秘府略の方が詳しい−−−同じ巻数で以て而も詳しい処を見ても、当時編纂の大仕掛であったことが分かるので、吾々日本人は甚だ愉快に感ずるのである。〕

実際「秘府略」に引用されている書物の数は69種にものぼる(「日本国見在書目録解説稿」による)。無論、これら書物の引用の手法はおそらく、ベースとした「類書」を踏襲したものだろう。
これは hyena_no_papa さんの#6179に対する返信です

>>>>山堂考索

2003/ 8/ 2 6:16
メッセージ: 6183 / 6510
>邪馬台国(倭国)関連記事にどのように関わるのか、

いえいえ、「山堂考索」は今回の考察の道筋からは外れています。ほんとは「北堂書鈔」の方から先に入手したかったのですが、価格がちょっと・・・。

臨時収入でもなければムリかな?と思った次第で。次の臨時収入となると、年末調整還付金ですね。随分と先になりますが・・・。
これは situmonde_su さんの#6181に対する返信です

>北堂書鈔

2003/ 8/ 2 6:42
メッセージ: 6184 / 6510
>古代日本にも入ってきてはいたと思います。


藤原佐世が当時、国内にあるすべてを網羅出来たとは思えず、脱漏もやむを得ないところでしょう。「日本国見在書目録稿」にも「第十 不収書目」として、203個が列挙されています。しかし、それほど著名に漢籍ならば収録に漏れているのも考えにくいかな?と言う気もしますので、「質問殿」には今後とも何かおわかりになりましたら、ご教示のほどをよろしくお願いします。

>「花(草)(果)部」や「鳥獣部」がないので

「布帛」とかはないのでしょうか?
これは situmonde_su さんの#6182に対する返信です

「類書」について(11)の補

2003/ 8/ 2 8:52
メッセージ: 6185 / 6510
>「秘府略」に引用されている書物の数は69種にものぼる

というのは、「現存する部分」についてのことですので、「秘府略」全体ではもちろん相当の数になりますね。

※「秘府略」現存する2巻
1)巻864 徳富蘇峰旧蔵本
2)巻868 尊経閣文庫本
これは hyena_no_papa さんの#6180に対する返信です

>>>北堂書鈔

2003/ 8/ 2 12:44
メッセージ: 6188 / 6510
>そもそも数が出回っていないかもしれませんね

ホントですか?やはり無理してでも入手しておいたほうがいいかもしれませんね!

お金をどう工面するか・・・。
これは situmonde_su さんの#6186に対する返信です
「類書」について(12)

2003/ 8/ 4 23:16
メッセージ: 6190 / 6510
(10)で、「修文殿御覧」「華林遍略」を出しましたので、以前にも「質問殿」よりご指摘のありました「ペリオ文書」について触れておきます。

1907年、フランス人ポール・ペリオ教授が、敦煌の莫高窟から幾多の古写本を入手したが、その中に唐人の書写した259行の類書の残卷があるという。近代の金石文の研究者・羅振玉がこれを「修文殿御覧」であると推定したが、現代の洪業は「華林遍略」であると論証している。

なぜこのようなことが「邪馬台国問題」と関係あるのかというと、「刊本魏志」を見て行く上で避けて通れない「キー」となるのが「太平御覧」なのですが、この「太平御覧」の出自を知ることが、それに引用された「魏志」の「倭関係記事」のある部分のついての考察に少なからぬ影響を与えることになるのです。

以上は、京都大學人文科學研究所による「東方學報・京都・第三十六冊」(昭和三十九年十月 創刊三十五周年記念論集)所載の森鹿三氏「修文殿御覧について」による。以後もしばらく上述論文に沿って話を進めて行きたい。
これは hyena_no_papa さんの#6179に対する返信です

類書について(13)

2003/ 8/ 4 23:19
メッセージ: 6191 / 6510
ペリオ教授の入手したこの残卷には「鶴・鴻・黄鵠・雉」の部分が残っており、「太平御覧」の当該項目との比較から、羅振玉・洪業の両氏はそれぞれ「修文殿御覧」「華林遍略」であると論じている。森氏によれば、「華林遍略」であるとした洪業の論を支持している。ただ、「華林遍略」になお先立つ「類苑」と称する類書もあるとのことで、断定は控えられる。

さて、森氏はこの「ペリオ文書」のついての考察から、「華林遍略」→「修文殿御覧」→「太平御覧」という系譜が「くっきりと浮かび上がって来た」と述べられる。また「太平御覧」には「芸文類聚」「文思博要」という6〜7世紀の類書も藍本として用いられているという。

さて、これまで述べてきた「ペリオ文書」に関しての森氏の考察は、氏の「修文殿御覧について」の本題に入る「イントロダクション」に過ぎない。亮阿闍梨兼意の撰になる「薬種抄・香要抄・寶要抄」に引かれる「修文殿御覧(単に「御覧」としながら「太平御覧」ではあり得ないものも含め)」についての考察は、「日本国見在書目録」に見えながら既に亡失してしまった「修文殿御覧」の価値を明らかにしている。

兼意の「薬種抄・甘草の條」に見える「修文殿御覧巻三百云」という文字が、滅び去った書物の姿を偲ぶか細い糸の様に思える。
これは hyena_no_papa さんの#6190に対する返信です

「類書」について(14)

2003/ 8/ 5 23:35
メッセージ: 6192 / 6510
(10)で、【魏志曰景初中賜倭女王】以下の部分についての考察から、

>「秘府略」と「太平御覧」が下敷きとした「類書」は別のものかも知れません。「修文殿御覧」「華林遍略」あたりになるのでしょうか?

と書いたが、森氏の「修文殿御覧について」でも、

>「華林遍略」→「修文殿御覧」→「太平御覧」

という流れを想定しておられる。

それでは、「太平御覧」の「鶴・鴻・黄鵠・雉」の部分(巻九百一十六・羽族部三〜巻九百一十七・羽族部四)における引書を見てみると、「修文殿御覧」の成立した6世紀後半より後に成立した「晋書」「隋書」「北史」「南史」などが見える。

勿論、多くは「前四史」かそれ以前の書からの引用である。しかし、以前に見た「四夷部」にしても、「太平御覧」成立直前の「旧唐書」なども見えることから、これら「類書」は先行「類書」をベースにしながらも、次々と付加され肥大化して行ったことが窺える。

注)「華林遍略」は「旧唐書経籍志」には「華林編略」につくり、あるいは「南史」では「華林偏(ぎょうにんべん)略」に作るが、とりあえず「新唐書芸文志」にある「華林遍略」に従う。
これは hyena_no_papa さんの#6191に対する返信です

やっぱり買わなきゃ

2003/ 8/ 6 8:53
メッセージ: 6194 / 6510
ですかね〜?「北堂書鈔」・・・。万札が2−3枚飛びそうですが・・・。

>倭王献錦

なんて記事があるんでしたらなおさら!「四夷部」「辺防」なんて項目があるのかどうか?ないんじゃないかと思うんですが、「質問殿」にお尋ねするのも、ご多忙のようですし・・・。

>システム障害

以前にも経験ありますが、今度は重症でしたね。

猛暑だ!豪雨だ!と荒れ気味の夏になりそうですので、お体お大切に!
これは situmonde_su さんの#6193に対する返信です

やっぱり買わなきゃPart2

2003/ 8/ 7 22:59
メッセージ: 6196 / 6510
>「帝王」部の細目「賞賜」には、「銅鏡百枚」

そうですか!その前後の文はどうなっているのでしょうか?また「魏志曰」と明記してあるのでしょうか?

天からゼニが降ってこないかなぁ・・・。遠藤周作じゃないけど・・・。
これは situmonde_su さんの#6195に対する返信です

「類書」について(15)

2003/ 8/ 8 0:07
メッセージ: 6197 / 6510
(13)で、

>亮阿闍梨兼意の撰になる「薬種抄・香要抄・寶要抄」に引かれる「修文殿御覧(単に「御覧」としながら「太平御覧」ではあり得ないものも含め)」

と書きましたが、

>単に「御覧」としながら「太平御覧」ではあり得ないもの

について少し説明を・・・。

「薬種抄」甘草の条に【修文殿御覧第三百云】と記されていることはさきに紹介しましたが、「香要抄」芸香の条に【已下文出御覧第三百一巻】と「御覧」とのみ見える。これでは「太平御覧」なのか「修文殿御覧」なのか分からない。

その後に続く「大戴礼夏小正曰・・・」以下の部分は、確かに「太平御覧」にも見える。「香要抄」の芸香の条に「御覧」からの引用と記される十五条の記事はほとんど「太平御覧」芸香の条に見える。

ところが、この芸香の条というのは、「太平御覧」では第九百八十二巻であって、「香要抄」の云う「第三百一巻」ではない。すなわち、この「香要抄」芸香の条に記される「御覧」というのは、他ならぬ「修文殿御覧」のことである。

このことをさらに裏付けるのが、先に挙げた「薬種抄」甘草の条に見える【修文殿御覧第三百云】である。「第三百」と「第三百一」・・・。こうして、「薬種抄」「香要抄」に、単に「御覧」と記されるものが「修文殿御覧」であることが明らかとなった。

続いて「寶要抄」について森氏の述べられるところをご紹介したいが、午前零時を回ったので、明日また・・・。
これは hyena_no_papa さんの#6192に対する返信です

やっぱり買わなきゃPart3

2003/ 8/ 8 8:35
メッセージ: 6199 / 6510
>「魏志景初中倭女王国献文錦」という注

う〜ん、こりゃますます買わねばーーー!

「質問殿」に午前様を強いているようで申し訳ありません。このような書き込みを頂くと、燃料補給になります。

とり急ぎ御礼まで!
これは situmonde_su さんの#6198に対する返信です

>>>>北堂書鈔

2003/ 8/ 8 22:39
メッセージ: 6200 / 6510
ちょっと突き合わせをしてみました。

北堂書鈔:魏志 景初中 倭女王国献文錦
太平御覧:魏志曰景初中賜倭女王……文錦

「芸文類聚」「初学記」「秘府略」にはいずれも「太平御覧」と同じ文面が見えます。後のつづきが違いますが・・・。

「北堂書鈔」の系統がこれだけでは分かりませんが、「献」と「賜」はどこで間違っちゃったですかね〜。「献」と出てくるのは、同じ「太平御覧・巻八百十五・布帛部二・錦」の終わりのほうで「倭献異文雑錦二十疋」と見えますので、その部分の「献・文・錦」から引っ張ってきたのか・・・。

難しいですね〜。
これは hyena_no_papa さんの#6199に対する返信です

「類書」について(16)

2003/ 8/ 8 23:22
メッセージ: 6201 / 6510
亮阿闍梨兼意の撰になる、いま一つの「寶要抄」には「金・瑠璃・馬脳・車渠」の四条に「御覧」を引用している。これも又「修文殿御覧」であるが、その排列は「太平御覧」と極めて似ている。

特に「車渠」の条では、八項の排列の順序が「太平御覧」と同じで、森氏は

「出御覧」という御覧は太平御覧を指すのではないかという錯覚にさえ陥る。

と述べられる。そして終わりに、「太平御覧」のもう一つの藍本である「芸文類聚」との排列の比較をして、次の様な結論を導かれている。すなわち、

その結果、このわずか一〇条七一項ではあるが、太平御覧の編集にあたって修文殿御覧がきわめて有力な藍本として活用されたことを、まざまざと一〇〇〇年後のわれわれに教示してくれるのである。

さて、以上「東方學報」所収の森鹿三氏「修文殿御覧について」について、要約ご紹介してきたが、これが「邪馬台国問題」と、どのように関わるのか、次回以降述べてゆきたいと思う。
これは hyena_no_papa さんの#6197に対する返信です

>>>>>>北堂書鈔

2003/ 8/10 0:21
メッセージ: 6205 / 6510
>暴文雑錦

ですか?なんか危ないですねぇ。

「太平御覧・巻八百十五・布帛部二・錦」の終わりの方に出てくる「異文雑錦」の「異」は私の「太平御覧」では「日+恭」となっていますので、「暴」まではあと一息ですね。

>倭奴王国

ちょっと疑問があるのですが、この「北堂書鈔」の現存する最古のものは、いつころのものなのでしょうか?私がネットで調べたところでは「宋刊本」でした。

で、「北堂書鈔」の成立が隋代ですので、当然数百年を経ての刊行となるわけですね。果たして隋代のものが残存していたのでしょうか?書写を重ねたものがテキストとなった可能性はないのでしょうか?

>混乱

の原因が、成立時点のものか、それ以後のものか知りたいですね。
これは situmonde_su さんの#6203に対する返信です

>>>>>>北堂書鈔

2003/ 8/10 0:46
メッセージ: 6206 / 6510
ちょっと不適切な表現がありましたので、補足を・・・。


>「太平御覧・巻八百十五・布帛部二・錦」の終わりのほうで「倭献異文雑錦二十疋」と見えますので、その部分の「献・文・錦」から引っ張ってきたのか・・・。

「北堂書鈔」の方が「太平御覧」より400年ほど早く成立していますので、「北堂書鈔」の彼の部分が「太平御覧」から引っ張ってこれるはずはありませんね。

当然「魏志」からの引用です。それが「太平御覧」にも「北堂書鈔」にも引かれている・・・と言うべきでした。

このあたりのことは、今回のシリーズの核心に近いので、これくらいにしますね!
これは hyena_no_papa さんの#6200に対する返信です

「類書」について(17)

2003/ 8/10 22:46
メッセージ: 6207 / 6510
これまで「類書」について述べてきたが、実は「太平御覧」「冊府元亀」などを知った頃、これら「類書」は、その都度、群書をあつめて一から編纂されたものと思っていた。「太平御覧」「冊府元亀」の構成の違いからもそう思えるし、何より中国ならばそれくらいの大事業、勅命によってなし得るものと考えていたのだ。

ところが、当トピで学んでゆくうちに「類書」にはどうやら「系統」があるらしい・・・と言うことに気がついた。

森氏の「修文殿御覧」をやや具体的にご紹介したのも、それが「太平御覧」の「藍本」となったことがかなり確からしい・・・と知ったからだ。

「魏志曰景初中賜倭女王絳地交龍錦五疋」「倭献異文雑錦」の両部分が、おそらく「類書から類書へ」と伝えられたらしい・・・という推測が成り立つ。ほかにも「栗」の記事もある。

ところで、「太平御覧」と云えば、「魏志」の文をほとんどそのまま引いている「巻第七百八十二・四夷部・東夷三・イ妥」の部分ばかり注目していた。いや、「珍宝部」の「壹與」の記事も、ずいぶん以前から意中にはあったが、ほんの短い部分・・・。それより「後漢書」「魏志」「南史」「(旧)唐書」からの圧倒的な引用・・・。そちらに目を奪われるのは当然のことだ。
これは hyena_no_papa さんの#6201に対する返信です

「類書」について(18)

2003/ 8/10 23:05
メッセージ: 6208 / 6510
「太平御覧・四夷部・東夷・イ妥」の記事は、それなら他の類書からの転用なのか?

「(旧)唐書」の成立は945年。「太平御覧」には、974年成立の「旧五代史」も引用されているので、それらについては当然「直接引用」だろう。

何より「四夷部」「外臣部」など周辺民俗・国家についての直接記述した項目は「初学記」「芸文類聚」には見えないし、「質問殿」のご教示によると、現存最古の「類書」とされる「北堂書鈔」にも見えないと云う。

九世紀初の「通典」には「辺防」の中に「東夷・南蛮・西戎・北狄」の項が見える。周辺民俗・国家についてまとまった記述を持つ項目が現れるのは、この「通典」あたりからのことではないだろうか?
これは hyena_no_papa さんの#6207に対する返信です

「類書」について(19)

2003/ 8/10 23:22
メッセージ: 6209 / 6510
ということは、裏を返せば「魏志曰景初中賜倭女王絳地交龍錦五疋」「倭献異文雑錦」の記事は、「四夷部」「外臣部」などが項目として定番となる以前から、引き継がれていったのではないか・・・という推測を為すのである。つまり、6世紀前半の「華林遍略」あたりから既に、これらの記事は掲載されていたのではないか・・・ということである。6世紀から7世紀にかけての「類書」である「修文殿御覧」「北堂書鈔」「芸文類聚」に上記記事が見えることからも容易に想像出来ることではないだろうか?

今回の「類書について」シリーズで触れた「倭」に関する記事は、実に「博物誌」的な部分ばかりである。「初学記」にしてもそうだし、和製類書たる「秘府略」にしても、また亮阿闍梨兼意が「薬種抄・香要抄・寶要抄」の中に引いた「修文殿御覧」にしても皆、「博物誌」的な記事ばかりである。そして、それらは「四夷」の記事よりも古くから「類書」の中に引き継がれていった・・・。

すなわち、「四夷部」に見える「倭」の記事よりも「類書」の「博物誌」的な項目中に見える「倭」の記事の方が、古形を保っていると考えることが出来るのではないだろうか?
これは hyena_no_papa さんの#6208に対する返信です

「類書」について(20)

2003/ 8/10 23:54
メッセージ: 6210 / 6510
そこで私は、「太平御覧巻八百二・珍寶部・珠上」中の以下の記事に注目する。

又曰倭国女王壹與遣大夫率善等献真白珠五十孔青大勾珠二枚也

此はまさしく「博物誌」的部分中に見える「壹與」の記事である。

これまで私は、この「壹與」という表記が、「宋代」に初出する・・・と考えてきた。結論から言うと、この考えは動くことはなかったのだが、細かいところまで追求してゆくと、思わぬ処に「セキュリティーホール」があることが見えてくる。それで、その「セキュリティーホール」に「パッチ」を当てるために、今回こうして長々とシリーズをしたためている次第。

さて、上に引用した「珍宝部」の「壹與」の記事は、「太平御覧」以前の「類書」には見えない。この部分の前後は、先に挙げた「類書」群に引用されているというのに・・・。

既に知られている様に「太平御覧巻七百八十二・四夷部三・東夷三・イ妥」に引かれる「魏志」には「臺擧」と見える。「擧」は当然「與」であるから、ここでの「臺」は、「太平御覧」編纂時引用した「魏志」には、間違いなく「臺與」とあり、また「邪馬臺国」とあったことを証するものであることは論を待たない。

翻って「珍宝部」を見るとき、そこに見える「壹與」はひょっとして、「魏志」の6世紀頃の姿を遺しているのではないかという想像が働くのである。すなわち、これまで挙げてきた「倭関係記事」の違存する各種「類書」とは違う、そして既に亡失してしまった「未知の類書」にその記事が含まれていた可能性はないのだろうか?ということである。

なぜ、そのような可能性を考え得るか?「太平御覧」ばかりではなく、他にもそのような考えを扶ける事例がある。それは又、明日の話としたい。
これは hyena_no_papa さんの#6209に対する返信です

「類書」について(21)

2003/ 8/11 23:11
メッセージ: 6211 / 6510
>「壹與」という表記が、「宋代」に初出する

について一言補足を・・・。

誤解があるといけないので以前の書き込みを再掲して説明したい。

「臺」と「壹」(30)  2002/ 8/31 23:27 メッセージ: 3400 / 6210

で私は次のように書いた。

>「南宋」代、「三国志」刊行の底本とされた、新たに出てきた「三国志」だったのです。

つまり「壹」は「臺」からの「南宋代の誤写」なのではなく、「壹」と書いた写本があった!と言うことだ。しかしそれは、代々の朝廷などで伝写されてきたものではなく、ある地域に辛うじて残っていたものだ・・・という推測なのである。根拠については既に書いた。それは、「太平御覧」に引かれる「後漢書」が「イ妥」としているのに、「北史」の「イ妥」は「倭」となっていることからも推測できよう。

用字には地域性があるのではないかということだ。「漢籍版本入門」からの例も既に紹介した。

「太平御覧」に「臺挙」の「臺」と「壹與」の「壹」とが双方ともに出現するのは、「四夷部」で恐らく「魏志」が直接引用されたのに対して「珍宝部」では、先行する「類書」の表記をそのまま襲ったのではないか?ということ。

話がややこしくなったので整理すると、この「壹」字の特徴を持ったある種の「魏志写本」が「珍宝部」の元となったし、また「南宋版魏志」の底本ともなった・・・と言うことになる。

そのようなことがあり得るのだろうか?
これは hyena_no_papa さんの#6210に対する返信です

「類書」について(22)

2003/ 8/12 0:03
メッセージ: 6213 / 6510
そこで(20)の、

>他にもそのような考えを扶ける事例がある

について触れたいと思う。それは「冊府元亀・巻九六八・外臣部・朝貢一」に見える次の記事である。

八年倭国女王一與遣大夫掖邪狗等詣臺献一男女生口三十人貢白珠五千枚青大句珠二枚異文雑錦二十匹(以前、この部分を「二十四」とご紹介したかも知れないが、私の所持する「冊府元亀」では「匹」。しかし、それ以前に書いた「校訂表」には「四」として注意を喚起する為の印まで付けてある。どこかで見たのかも知れない)。

項目が「朝貢」となっているが、そこにはおなじみの「異文雑錦」の記事が・・・。果たしてここは「博物誌」的な部分と見るか、「四夷部」的な記事と見るか?前者と見ると、「太平御覧」の「珍宝部」と軌を一にして「壹與=一與」と記されたことになる。また、後者と見ると「冊府元亀」の引用した「魏志」(11世紀初頭)に「壹與」とあった可能性も当然考えられる。当然「北宋代」である。「南宋初出」の想定は崩れる。

※藪田嘉一郎氏は「『邪馬臺国』と『邪馬壹国』」(「歴史と人物」昭和50年9月号43頁〜)の中で、「邪馬壹国」という表記は、「金の南侵」に対して「南宋」の抱いた「攘夷思想」のなせる業であろうとするが、「北宋代」の「冊府元亀」の引用した「魏志」に「壹」とあったとするなら、この藪田氏の推定は成り立たないことになる。
これは hyena_no_papa さんの#6210に対する返信です

「類書」について(23)

2003/ 8/12 0:15
メッセージ: 6214 / 6510
この「冊府元亀」の「一與」の「一」が果たしてオリジナルかどうかは当然、疑いをもたれてしかるべきであろう。

台湾中華書局刊「冊府元亀」の冒頭「影印明本冊府元亀弁言」には、刊行の経緯が詳述してあるが、末尾に「今宋刻既無完本」と見える様に、実に様々な処から収集して影印したことが窺われる。

従って「一與」にしても「冊府元亀」成立時のオリジナルではなく、「明本」に至までに略記が生じたのかも知れない。「元」の「馬端臨」の編集した「文献通考」(1317)に「邪馬一国」と見えることからもそれは推察されうることだろう。

いずれにしても、「壹與」の件はもう少し慎重に考察を進めねばならない事柄かも知れない。
これは hyena_no_papa さんの#6213に対する返信です

「類書」について(24)

2003/ 8/12 22:10
メッセージ: 6215 / 6510
これまで、やや早足で「類書」について述べてきたが、ここで少し歩みを緩めて「太平御覧」と「冊府元亀」について考えを進めてみようと思う。

まず「冊府元亀」「朝貢一」の気になる記事から・・・。

八年一與遣大夫掖邪狗等

と見えるが、この「八年」はどこから来たのか?「魏志」にある「八年」は「八年太守王[斤頁]到官」である。もちろん「卑弥呼以死」の前にある。何らかの錯誤なのだろう。

なぜそう言いうるかといえば、同じ「冊府元亀」の「継襲」には次の様な記事が見えるからだ。すなわち、

魏正始中卑弥呼死更立男王国中不服更相誅殺復立卑弥呼宗女臺與為王

すなわち「冊府元亀」の編者は「卑弥呼の死→男王→臺與」という流れを承知していたと思われるからだ。「魏志」の文面から「八年」に既に「一與」の代に代わっていたとは読みとれまい。何らかの「錯誤」であると考えられる。

「八年」は錯誤であるにしても「壹與=一與」はどうなんだろうか?

いったい、「冊府元亀」にしろ「太平御覧」にしろ、編者が目の前に「魏志」を置いて、この部分とあの部分とで語句の引用に錯誤が生じるものなのだろうか?

無いとは言えない。大勢で編纂する場合、それは十分起こりうるだろう。が、この「壹與=一與」の場合は、全く別の編者の手になりながら、同じ場所で同様の「異同」を生じさせている。この部分での「壹=一」が、他の部分では「臺」なのである。

この部分について私が「未知の類書」によるのではないかと想定したのは、この両書に同様の現象が生じていることも一つの動機になっている。
これは hyena_no_papa さんの#6214に対する返信です

「類書」について(25)

2003/ 8/12 22:34
メッセージ: 6216 / 6510
(24)で、「冊府元亀・継襲」を引いたが、この部分は実は「梁書」からの引用である。あるいは「北史」かも知れない。この「継襲」に引かれている部分の「梁書」と「北史」とはほぼ同じ文面であるから、いずれとも決しがたいが、実は別の処で「梁書」からの引用であることが知れる。

それは、「国邑」に見える「倭への旅程記事」中の「乍南作東」が、「梁書」と「冊府元亀・国邑」だけは「作東乍南」と逆になっている。ほかにも二三相違があって、この「国邑」の部分は「梁書」からの引用であることが分かる。恐らく「継襲」の部分も同様であろう。

「太平御覧」に見える「邪馬臺国」「臺與」の部分は「梁書」からの引用、そして「一與」の表記・・・。そうすると「冊府元亀」の見た「魏志」には「邪馬臺国」「臺與」とあったとする確証はなくなってしまうことになる。

だからといって、「冊府元亀」の編者が「魏志」を少なくとも「倭人伝部分」について参照しなかったと言うことはない。それは、同じ「冊府元亀」の「種族」「土風」に、延々と「梁書」に見えない「魏志」の文面を引用していることから確言出来る事なのである。
これは hyena_no_papa さんの#6215に対する返信です

「類書」について(26)

2003/ 8/12 23:08
メッセージ: 6218 / 6510
ところが、この「冊府元亀」にはやっかいな記事がある。「封冊一」と「朝貢一」の双方に見える「二年六月」の記事である。

この部分を「二年六月」とするのは、実にひとり「通行本魏志」のみなのである。「通志」「太平御覧所引魏志」「文献通考所引魏志」「翰苑所引魏志」「日本書紀所引魏志」「梁書」「北史」「晋書」「通典」「唐類函所引通典」・・・みな一致しない!

「冊府元亀」の編まれた北宋代(1013)に、既に今日われわれが眼にしているのと同じ流れを汲む「魏志」が出現していたことを考えざるを得ない。

特に「土風」の部分はまさに「刊本魏志」とほぼ同じで、なんとあの「東治」まで同じなのである。あるいは「刊本魏志」以外の書に全く見えない「(弓形)短下長上」などという句が「土風」には見える。

こうして、今日われわれが眼にしうる「通行本魏志」のテキストとなったであろう「魏志」が「冊府元亀」編纂の時点では既に知られていたことが窺えるのである。
これは hyena_no_papa さんの#6216に対する返信です

「類書」について(27)

2003/ 8/14 21:10
メッセージ: 6219 / 6510
かつて私は「臺と壹シリーズ」の#3400前後で、今日われわれが目にする「通行本魏志」のテキストは、南宋代、新たに出現した写本だったのではないかと述べた。

しかし、「冊府元亀」に対する私の観察が妥当なものだとすれば、前言は修正を余儀なくされよう。

とすれば、今日最古とされる「紹興本」「紹煕本」のテキストとなったのはやはり北宋第三代・真宗の咸平5年(あるいは6年=1002-1003)に刊行された「咸平本」だという事になる。

咸平5年から3年後、真宗は国子監を訪れ、その総長に「書版はどれくらいあるか?」と訊ねた。それに対する返事の中で「庶民も家毎に持っております」と答えたという。

やがて「宋」は「金」の南侵におわれ、「南宋」建てる。「北宋」代刊行された書物も多くは戦火に滅びたのかも知れない。しかし、先に述べたように、「北宋」代の出版は非常に旺盛で、生き延びた書籍も多かったのだろう。南遷後まもなく「三国志」も再び刊行された。これが「紹興本」と云われるものである。

ただ、これにも果たして「紹興本」と称して良いかの疑問もあるが、今回のテーマからは少々外れるので、ここでは触れない。

「冊府元亀」が引用した「魏志」が「通行本魏志」とほぼ同じ内容のものだとしたら、「冊府元亀」の成立した1013年の10年ほど前に成立した「咸平本」こそ、そのテキストとなった可能性が大きいと言わざるを得ない。
これは hyena_no_papa さんの#6218に対する返信です

「類書」について(28)

2003/ 8/14 21:33
メッセージ: 6220 / 6510
それでは「冊府元亀」が見た「魏志」と「太平御覧」が見た「魏志」とは「別物」だったのだろうか?

「太平御覧」の成立が984年。「咸平本」の刊行の約20年前のことである。「宋」が起こったのが960年。中国統一は979年に成る。「太平御覧」の成立はその5年後のことである。すなわち、この時点では未だ「三国志」の刊行はなされず、もっぱら写本によって「太平御覧」は編まれたのだろう。

その後、真宗の世(997-1022)になってから広く書籍を集めそれを整理校訂して出版することに努めたという。

このときの「広く書籍を集め」た中に、「咸平本」のテキストとなった「新たに出現した魏志」が含まれるのではないかという推測に落ち着く。

なぜ、「新たに出現した魏志」を想定しなければならないか、それを再述になるが以下紹介することにしよう。
これは hyena_no_papa さんの#6219に対する返信です

「類書」について(29)

2003/ 8/14 21:51
メッセージ: 6221 / 6510
これまで何回か述べたと思うが、今日われわれが目にする「魏志」は、「特異なテキスト」によったのではないかと考えられる。

陳寿が「魏志」を編んでから「紹興本」「紹煕本」の刊行まで800年前後・・・。それまで「魏志」は地中に埋もれていたわけではなく、幾度となく各種史書に引用されている。これまで「正史」の類について「魏志」の引用のされ方を追いかけてきたのだが、今回は「別ルート」である「類書」の線から追跡してみたわけだ。

特に「太平御覧」と「冊府元亀」の観察から言えることは、代々「正史」などに引用されてきた「魏志」と「通行本魏志」のテキストとなった「魏志」とは別物ではないかということ。それは、なぜそういいうるかと言えば、「唐代」までに各書に引用された「魏志」と「宋刊本」との間には、明確な相違点があるからだ。

「邪馬臺」と「邪馬壹」を初めてとして、実に様々な「異同」が、「グループ」をなして対立しているのである。その「対立」は「宋刊本」の流布後には、希薄化してしまう。つまり「駆逐」されてしまうのである。

では、「駆逐」してしまった方が「正しい」かというと、そうとは限らない。

「通行本魏志」は、あまりに「整いすぎている」と言えることが、私の抱いた「不審の念」の理由なのである。
これは hyena_no_papa さんの#6220に対する返信です

「類書」について(30)

2003/ 8/14 23:14
メッセージ: 6222 / 6510
「中国歴史文化事典」によっても「太平御覧は、多くは『文思博要』『修文殿御覧』『芸文類聚』などからの転用で、第一次資料から出たものではなく、誤りもかなり多い」とされる。

しかし、「旧唐書」「旧五代史」などからの引用は勿論「第一次資料」からの引用と言えるだろうし、全体的印象が個々の解釈を縛るわけでもない。

そこで、以前にも触れたことがあるが、「太平御覧」所引の各種「倭伝」と「正史倭伝」との校合の結果を見てみると、実にシンプルな結論が導かれる。それは、「後漢書」にして「宋書」にしても「北史(隋書)」にしても、「太平御覧所引」のものと比較して、「魏志」ほどの異同は見られないと言うことである。

ついでに「太平御覧所引魏志韓伝」と「魏志韓伝」、同じく「ワイ伝」「扶余伝」とを校合しても、省略はあるが語順が大幅に違うなどと言う異同は見られない。

すなわち、「太平御覧」が信用ならない・・・などということは一概には言えないのではないかと言うことである。

「通行本魏志」と「太平御覧所引魏志」との「異同」の責任は、ひとり「御覧」側にのみ負わせるべき性格のものではないのではないかという心証を得る。
これは hyena_no_papa さんの#6221に対する返信です

「類書」について(31)

2003/ 8/14 23:48
メッセージ: 6223 / 6510
しかも、「太平御覧所引魏志」の文面と「通行本魏志」の文面とが相違していると言っても、それは「通行本」のほうが「多勢に無勢」なのであって、「太平御覧所引魏志」の方が「特異」なのではない。

「通行本魏志」の方が「特異」なのである。

その「特異」な「魏志」を以て、わが「邪馬台国論争」は成り立っているのだから、恐ろしいと言えば恐ろしい状況ではある。

先賢が既に喝破してるように、「壹」は「臺の誤」なのであるが、それは、単に文字の校勘のレベルで決せられるものではなく、この場合は「通行本魏志」の出自にまで思いを及ぼさねばならないのではないかという気がする。

すなわち、「通行本魏志」のテキストとなった「魏志」は、それまでの史書に用いられた「魏志」の類ではなく、「北宋」代、広く書籍を集めた結果出現した「書写本」なのである。

それがどこから出現したかは想像の域を超えるが、とにかくこれまで朝廷などに存していたものと比べ、格段に「完形を保っている」テキストだったのだろう。

「太平御覧」の成立したあと、真宗の代になって各地から書籍を収集して刊行された「三国志」は、しかし「太平御覧」に引かれている「魏志」とは様相が異なっていた。そして、その「完形を保っている」ことを優先して、「咸平本」「三国志」は刊行された。

あちこち「欠文」のあるテキストより「見事に整っている」テキストの方を、用いたことはムリもないことかも思う。しかし、それは「邪馬臺」を「邪馬壹」と表記したテキストでもあったのである。
これは hyena_no_papa さんの#6222に対する返信です

「類書」について(32)

2003/ 8/15 22:13
メッセージ: 6224 / 6510
「北堂書鈔」「芸文類聚」「初学記」「秘府略」「太平御覧」「冊府元亀」などの「類書」に引かれた「倭献異文雑錦」とその以前の部分の記事に注目し、その上で「太平御覧・珍宝部」に見える「壹與」のテキストが果たして「宋代」のものであったか、それとも代々「類書」に受け継がれてきたものであったか考えてみた。

残念ながら「壹與」が献じたという「白珠五十孔青大勾珠二枚也」についての記事は先行する「類書」には、私がこれまで知り得たものの中には見えない。後発になる「冊府元亀」が「朝貢一」で、同様の紹介をして居るのみである。

それでは、本筋に戻って「邪馬臺」「臺與」の表記が各書にどのように現れるかを、おさらいしておこう。まずは「臺與」について・・・。

「臺與」の記事は「卑弥呼の死」に続いて現れる。おなじみの「復立卑弥呼宗女臺與」の部分だ。

これを「魏志」を除いて各書の成立順に列挙してみよう。
「梁書」(629)・・・「臺」
「北史」(659)・・・「臺」
「翰苑」(660)・・・「臺」
「通典」(801)・・・「臺」
「太平御覧」(984)・・・「臺」
「冊府元亀」(1013)・・・「臺」
「通志」(1161)・・・「臺」
「文献通考」(1317)・・・「壹」
「大明一統志」(1463)・・・「壹」

どうだろうか?実に見事に、ある時を境に「臺」から「壹」へと変化している。ここに「通行本魏志」を挿入する。「紹煕本」は「通志」の前、「紹興本」は「通志」の後となる。また「冊府元亀」については、先にも述べたように「梁書」からの引用部分と、他にも「晋書」からの引用部分、それに、今日われわれが目にする「通行本魏志」とほぼ同じ文面の部分もある。これは恐らく「咸平本」(1002)からの引用であろう。

すなわち、「冊府元亀」と「通志」が微妙な位置にあるが、この「臺與〜壹與」については、ある時期からの異同がはっきりと見て取れる。
これは hyena_no_papa さんの#6223に対する返信です

「類書」について(33)

2003/ 8/15 22:45
メッセージ: 6225 / 6510
それではいよいよ「邪馬臺」の「臺」について「臺與」と同様に見てみよう。

「廣志」(280?)・・・「嘉」(「翰苑」所引)
「後漢書」(432)・・・「臺」
「梁書」(629)・・・「臺」
「隋書」(636)・・・「臺」
「北史」(659)・・・「臺」
「翰苑」(660)・・・「臺」
「通典」(801)・・・「臺」
「太平御覧」(984)・・・「臺」
「冊府元亀」(1013)・・・「臺」
「通志」(1161)・・・「臺」
「文献通考」(1317)・・・「一」
「大明一統志」(1463)・・・「一」

ここでも「臺與」の時と同様な結果に終わる。新たに「廣志」「後漢書」「隋書」まで加わるのである。

以上見てきたところから言いうるのは、やはり「邪馬壹」「壹與」と書いたテキストは「宋代」に入ってから出現したことが窺われる。それを元に「咸平本」は刊行されたという推測をなすことが出来る。咸平5年(1002)できたてほやほやの「刊本魏志」を最初に用いた「類書」は当然「冊府元亀」(1013)であったろう。ただし「冊府元亀」において「邪馬臺」と記した部分は「梁書」からの引用であるから、「邪馬壹」出現の証拠とはならないが、「景初二年六月」が動かしがたい証拠となろう。

それでは「太平御覧」の見た「魏志」はどうなっていたのだろう?
これは hyena_no_papa さんの#6224に対する返信です

「類書」について(34)

2003/ 8/15 23:26
メッセージ: 6226 / 6510
>「太平御覧」の見た「魏志」はどうなっていたのだろう?

それには一つ「注目点」がある。かつて古田氏も触れておられたが、「自上古以来其使詣中国」以下の部分が、すっぽりと抜け落ちている。それが復活するのが「草伝辞説事・・・」の部分である。この部分の「脱漏」で、文意が通じなくなっていると古田氏は語っているが、それを「改訂」だとする。それも「笑うべき改訂」だという(「『邪馬台国』はなかった」92−93頁)。「意味不明の草と言う文字が取り残されてしまった」のだという。

私は、古田氏のこのような解釈が理解出来ない。恐らく「誤写」という解釈を拒むあまりの「勇み足」なのだろうが・・・。

この六百余文字の「脱漏」の原因は他にはあり得ない。「太平御覧」のテキストとなった「魏志」に、その部分が抜け落ちていたからに他ならない。そのような例は、各書を校合してみるとよくお目にかかる。

「太平御覧」編者の見た「魏志」に大きな脱漏があり、その二十年後「冊府元亀」の編者の見た「魏志」にはどうやら、それがなさそうである。

単純に考えると、その二十年の間に「整った魏志」が出現したことが考えられはしまいか?

あるいは、「太平御覧四夷部」というのが、実はわれわれの知らない「類書」によったものと言うことも推測としては成り立つかも知れないが、「未知」のものについては考慮のしようがない。ただ「太平御覧」には「前四史」と呼ばれる「史記」「漢書」「後漢書」「三国志」と、唐代成立した「南史」「北史」「隋書」「晋書」「通典」なども多く引用されており、これらが一斉に「太平御覧」編纂時に引用されたとするか、唐代一度ある種の「類書」を経て「太平御覧」へと実を結んでいったのか・・・今後の探求のテーマとは成るかも知れない。
これは hyena_no_papa さんの#6225に対する返信です

「類書」について(34)-訂正

2003/ 8/15 23:33
メッセージ: 6227 / 6510
投稿者: target="msgr">hyena_no_papa< (999歳/男性/倭国)
>二十年後「冊府元亀」の編者の見た

は「三十年後」です。「二十年後」というのは、「冊府元亀」に引用されたであろう「咸平本」の刊行の時期でした。訂正します。

「出現の時期」については結局同じ事になるのですが・・・。
これは hyena_no_papa さんの#6226に対する返信です

「類書」について(35)

2003/ 8/16 0:04
メッセージ: 6228 / 6510
さて、ではその「整った魏志」はいつ頃の「写本」なのであろうか?

そんなことは知りようがない!が、「後漢書」をとりあえずオミットして、7世紀前半の「梁書」「隋書」あたりを考えてみると、これらに引用された「魏志」とは明らかに「別系統」ではないかと考えられる。

もしその「別系統」の「魏志」が、「唐代」以前の書写本であったら・・・、これは大変なことになる。それも「後漢書」の成立した432年以前のものであったら?

最古の「臺」である「後漢書」以前に「邪馬壹」とあったとしたら、「陳寿」原本に「邪馬壹」とあった可能性は無視できぬものになるのではないか?

それには二つのプロテクトがかかる。一つは「廣志」の「邪馬嘉」であり、もう一つは「裴松之の注」である。「隋書経籍志」には「三国志六十五巻」と見え、「陳寿撰・・・裴松之注」とある。

今日われわれが目にする「魏志」にも「裴松之の注」がある。すなわち、私が想定している「新たに登場した整った魏志」と雖も、「裴注」を受けたものであり、五世紀以降のものであることは確かである。

古田氏は第一書でこのことに触れ、「裴松之」と「范曄」の関わりについて述べておられるが、ここに古田氏の大きな過誤が生じている。「裴松之」が「邪馬壹」という表記に注を入れなかったのは、当時「邪馬壹」なる表記が存在していなかったからに他ならない。

そのような反論を想定して、それには「誤写の可能性0」の統計的事実が立ちふさがっている、と述べられる。それで五世紀に「邪馬壹」とあった確証としようとされるが、それは論理的に成り立たない。

誤写の可能性など「無意味」だからである。その理由はかつて「臺と壹シリーズ」の中で書いたと思う。

こうして、「咸平本」のテキストとなった写本が実に「マイナー」な異系統本であり、しかし、「メジャー」な系統の多くの写本が戦乱などで失われていったとき、よく全体を保っていた写本が「北宋代」に出現した。それが「咸平本」のテキストとなったものであろうという推測をなすのである。
これは hyena_no_papa さんの#6226に対する返信です

>おひさしぶりです

2003/ 8/18 21:41
メッセージ: 6232 / 6510
「質問殿」!

>携帯やメールのない日々を満喫しました!

うらやましい限りです。お盆で帰省されたのでしょうね。私も二日休みを取りましたが、携帯のスイッチはオン!いつ社長から電話が入るかわかりませんので・・・。そんな社長は案外どこかでのんびりしていたのでしょうがねぇ。

>「異」ではなく、「暴」ですね。

早速のご教示、ありがとうございます。実は一昨日、ある大書店で「書体字典」みたいなものに食指が動きましたが、古書店でもう少し安く手にはいるのではないかと思い、見送りました。その代わり、立ち読み!

「綏」と「糸妥」は混用されていたようですね。藪田嘉一郎氏もかつて述べておられました。しかし「倭」と「イ妥」は立ち読みの限りでは、例として見ることが出来ませんでした。もちろん、混用は「あった」と思いますが・・・。何かそのような例をご存じでしたら、ご教示のほどを、よろしく。

>連載を楽しませていただきます

今年の夏は異常気象で冷夏・・・。どーか、背筋の寒くなるようなつっこみはご勘弁を・・・。

いずれにしても、これからもいろいろとお世話になります。
これは situmonde_su さんの#6231に対する返信です

「類書」について(36)

2003/ 8/18 21:49
メッセージ: 6233 / 6510
(35)で少し危ない想像を巡らせたので、ちょっと控えて別の話を・・・。

「北宋」代の「類書」の双璧と言えばもちろん「太平御覧」と「冊府元亀」。どちらも一千巻の大著である。史料としての価値は捉え方によるので一概には言えないが、一つ違う点は「冊府元亀」には出典が書かれてないことである。

「芸文類聚」にしても「初学記」にしても「秘府略」にしても、また「修文殿御覧」にしても出典が明記してある。

それでは、これまで私が出典の明記していない「冊府元亀」の「土風」が「咸平本魏志」によったとか、「国邑」が「梁書」によったとか、又「晋書」によった部分もある・・・と判断したのはなぜか?と言うことをご紹介しよう。

まず「土風」は、今日われわれが目にする「通行本魏志=百衲本魏志ほか」の文面と非常によく平行している。「冊府元亀」の成立は1013年だから、「通行本魏志」よりは100年以上早い。すると、「冊府元亀」よりも10年ほど前に刊行された「咸平本魏志」をそのテキストと考えなければならない。「咸平本魏志」と「冊府元亀」、「咸平本魏志」と「通行本魏志」とは、いずれも「親子」の関係にある。

それでは「国邑」はどこから引っ張ってきたのか?それもすぐに分かる。「梁書」の文面と極めて近しい関係にある。「帯方郡」から「邪馬臺国」までの行程記事は、ほとんど「梁書」の記事そのままであり、「通行本魏志」とはかなり違う。「乍東乍南」もその一例である。

また「国邑」でも、その書き出しの部分は「晋書」からの引用である。以下に挙げるが「晋書」も「国邑」も全く同じで、

【旧有百余小国相接至魏時有三十国通好戸有七万】

となっている。「魏志」と比べていただければ、違いが分かると思う。この部分は明らかに「晋書」からの引用である。

このようにして、少々手間はかかるが、出典の明示していない「冊府元亀」もどこからの引用かが割合とわかりやすい。群書を融合して新たに文を創作されると、ややこしくなるようである。
これは hyena_no_papa さんの#6228に対する返信です

「類書」について(37)

2003/ 8/18 22:38
メッセージ: 6234 / 6510
ところで、これまで「新たに出現した魏志」の出現の時期について、「太平御覧の成立=984」から「咸平本の編纂開始=1000」の間ではないかと述べてきたが、ここにも「セキュリティーホール」があるので、ちょっと触れておこう。それは、「一大率」の記事である。あまりにも有名な「一大率」の記事なのだが、これは「魏志」と親しい関係にある「太平御覧」「冊府元亀」「通志」「文献通考」などには見られない。「魏志倭人伝」全文の校合をやって来たが、これほど「孤独な」部分は他には見あたらない。

ところが「旧唐書」の中にのみぽつんと出現する。「魏志」の文と比較してみよう。

魏 志)置一大率検察諸国(諸国)畏憚之
旧唐書)置一大率検察諸国 皆 畏怖之

注)()内の「諸国」は「紹興本」「武英殿本」「汲古閣本」に見えるもので「百衲本(紹煕本)」では重複しない。

さて、懐疑心の強い私としては、「旧唐書」の見た「魏志」に「一大率」の記事があったとしたら、かの「出現の時期」を、「旧唐書」成立以前にまで遡らせねばならないのではなかろうか?などと考えてみる。

(34)で述べた、長い「脱漏」の部分中に、この「一大率」の文は含まれる。すなわち「整った魏志」の出現を「旧唐書」の前に持ってくることが出来るだろうか?ということである。もちろん「太平御覧」成立以前である。

すると「太平御覧」の編者は、この「新たに登場した整った魏志」を目にする機会は当然あったはずである。「旧唐書」から「太平御覧」まで40年ほどあるから・・・。

しかし、「太平御覧」には「一大率」の記事は見えない。そこで、「太平御覧」の「四夷部」にみえる「倭」の記事は、実は「唐代」の「類書」中に既にあったもの・・・との想像が生まれる。「太平御覧」の「倭」関係記事は、それを襲ったものに過ぎない。

もちろん「太平御覧」の「倭」中には「旧唐書」も引かれている。しかしこれは、「太平御覧」編纂時の直接引用と見てよい。

さて、どうだろうか?考え始めればキリがない。しかも、以上述べたことは、今日まで私が「太平御覧」「冊府元亀」の中に見いだし得た「倭」関係記事の上に立っているのであって、未見の記事も有るかも知れない。そうすると一瞬にして以上のような想像は潰える可能性もなきにしもあらずである。

さてさて、どうだろうか?考え始めれば本当にキリがない・・・。
これは hyena_no_papa さんの#6233に対する返信です

「類書」について(38)

2003/ 8/18 22:54
メッセージ: 6235 / 6510
投稿者: hyena_no_papa (999歳/男性/倭国)
(37)で、

>実は「唐代」の「類書」中に既にあったもの

と述べたが、当然「北斉」代の「修文殿御覧」も「太平御覧」との関係から見ると有力な候補だろう。が、「修文殿御覧」は三百六十巻である。果たして「太平御覧」一千巻のように「四夷部」的な項目があったのかどうか・・・。ほとんど散逸してしまっているので、今となっては分からない。

七世紀には「晋書」「梁書」「隋書」「南史」「北史」など、多くの正史が編まれ、また「芸文類聚」「文思博要」などの「類書」も編まれた。しかし、その後はどうだったのだろうか?八世紀以降の「類書」については、今回「初学記」を除いて触れることが出来なかった。道はまだまだ遙かに続く・・・。

明日は、今回のシリーズのとりあえずの「まとめ」を書いてみたいと思う。
これは hyena_no_papa さんの#6234に対する返信です

「類書」について(39)

2003/ 8/19 23:25
メッセージ: 6239 / 6510
−まとめ−その1

今回のシリーズのまとめを、とりあえず書いてみようと思う。

「太平御覧・珍宝部」に出現する「壹與」こそは、漢籍の「倭」関係記事中に見える、「壹」の初出である。多くの方々は「邪馬壹国」とか「壹與」とか言う表記が、「陳寿」のオリジナルではないかと思っているかも知れない。しかし、それを各種の事実から裏付けることは非常に困難である。逆に、「宋代」になってから出現すると見る方が理にかなっている。

繰り返しになるが「宋代になってから出現する」というのは、「宋代」に「誤写が発生した」という意味ではない。今日われわれが目にしうる漢籍の中で「壹」は「宋代の書物に初出する」という意味である。今日われわれが目にしうる漢籍のテキストとなったものには、当然「壹」とあったわけで、それがいつの頃のものかは判然としない。そのテキストは勿論、現存しない・・・が、その姿をわれわれは「通行本魏志」という姿で見ることが出来る。

無論、「陳寿」が書いた「魏志」とは、少なくとも「倭人伝」部分についていえば、かなりの異同を生じているテキストでもあったろう。

「珍宝部」の「壹與」がなぜ私の関心を引いたかと言えば、それが「史書」ではなく「類書」に引かれた「魏志」に見える表記だったからである。「修文殿御覧」を中心に「華林遍略」から「冊府元亀」までの「類書」の流れを、ごく一部分からではあるが、見てきた。そして「異文雑錦」や「絳地交龍錦」の記事が、「太平御覧」を含む各「類書」の「博物誌」的な部分に引かれている事から類推して、かの「壹與」の出現する記事が、ひょっとして先行する「類書」に既に見えていたのではないかという推測に立って考えてみた。

私は、かの「整った魏志」は「太平御覧」編纂時には、未だ出現していなかったろう・・・と見ていたので、それなら何故「珍宝部」に「壹與」なる表記があるのか?結局は、ある種のモヤモヤしたものが残ってしまったのだ。
これは hyena_no_papa さんの#6235に対する返信です

「類書」について(40)

2003/ 8/19 23:50
メッセージ: 6240 / 6510
−まとめ−その2

「太平御覧・珍宝部」の「壹與」の記事を再掲しよう。

【又曰倭国女王壹與遣大夫率善等献真白珠五十孔青大勾珠二枚也】

「魏志」の上記部分には「男女生口」の記事が挟まっているが、「珍宝」とは関係ないので省略されたものであろう。実は、上文の「二枚」に続くのが「魏志」では「異文雑錦」で、これが同じ「太平御覧布帛部」にも引かれ、それに先行する「類書」たる「北堂書鈔」「秘府略」にも引かれている。

また「太平御覧」では「異文雑錦」の前には「絳地交龍錦」の記事がつながっているが、この部分は「北堂書鈔」「芸文類聚」「秘府略」「初学記」そして「冊府元亀・封冊」に引かれている。

こうして「珍宝部」の「壹與」が、「太平御覧」に先行する「類書」に引かれていたものであっても、なんの不思議もない・・・と思うに至ったのである。しかし、それを裏付ける事実はとうとう見いだし得なかった。逆に、「[サ/イ青]絳五十疋紺青五十疋」という、「布帛部一・綵」に見える記事が注意を喚起した。これは「冊府元亀」には引用されるが、先行する「類書」には見えない。

すなわち、先行する「類書」に倣って「太平御覧」が「布帛部一・綵」や、そして「珍宝部」という項目に、新たに「魏志倭人伝」の記事を挿入したという捉え方も出来るのではないかと思ったのである。

それなら「四夷部」では未だ「整った魏志」は引用するに至らず、一方「珍宝部」や「布帛部」では、それが引用された・・・。そんなことがあるのだろうか?

答えは「冊府元亀」が示しているように思える。「封冊」「朝貢」「国邑」「土風」など、同じ「倭」の記事を書くにしても、「魏志」あり「晋書」あり「梁書」あり・・・。
これは hyena_no_papa さんの#6239に対する返信です

こんばんは!

2003/ 8/20 22:56
メッセージ: 6242 / 6510
>混用の例証が既にそこにあるわけで
>なにかほかに混用例があれば

>hyena_no_papaさん、いかがでしょうか。

と、私に振られたようですので、ちょっとだけ・・・。

私はこの目で、その「混用」された「肉筆の筆跡」を見たいと思ったのです。それで「書体字典」を立ち読みした話をご紹介したわけでして・・・。「翰苑」の、あの乱れた文字が私の心をくすぐります。人間が書写したものですから、ああでなくちゃ・・・と思います。

逆に、活字本になると、人間の血が通っていないような気がして、面白くありません。版本ですと、版を彫った人の苦労が伝わってきますので、それなりに目に心地よいものがあります。

ピンぼけのレスになりました。「混用」については、かつて「九州王朝トピ」の#739で藪田氏のお説を紹介しましたが、これも「孫引き」ですので、原典にあたる幸運にいつか恵まれればと思うのです。
これは situmonde_su さんの#6241に対する返信です

「類書」について(41)

2003/ 8/21 0:09
メッセージ: 6243 / 6510
−まとめ−その3

実に「太平御覧」というものは「類書」中の雄とも言えるものだろうが、その素性は判然としない。

冒頭には「謹按」として、次のような文がある。

【帝閲前代類書門目紛雑失其倫次遂詔修此書以前代修文御覧芸文類聚文思博要及諸書参詳條次分定門目八年十二月書成】

冷や汗をかきかき読み下してみると、
【帝、前代類書の門目紛雑にして、其の倫次の失われるを閲し、遂に詔して前代の修文(殿)御覧・芸文類聚・文思博要及び諸書を以て條次を参詳し門目を分定してこの書を修せしめ八年十二月、書成る。】(^^;)

つまり、「修文殿御覧」「芸文類聚」「文思博要」に依ったことは分かるが、どの程度依存しているのかが、未だ私の知識の及ばざる処である。

従って、勇躍始めた「類書シリーズ」ではあったが、「太平御覧」の魔力の前に、確たる成果を上げることすらできなかった。ただ、「壹與」の表記が決して軽んじたり、無視したりしてよいものでもないことを窺い知れたことが収穫と言えば収穫かも知れない。

副産物としては、私の想定している「整った魏志」の出現時期について、これまでの私の推測の修正をせまられたことと、出典の明記していない「冊府元亀」の方が、少なくとも「倭関係記事」についていえば、出自がわかりやすいと言う皮肉な結果を得たことが挙げられよう。

明日は、「類書」についての「備忘録」をしたためて、とりあえずこのシリーズを閉じたいと思う。
これは hyena_no_papa さんの#6240に対する返信です

おはようございます!

2003/ 8/21 6:49
メッセージ: 6245 / 6510
夏場は目覚めが早く、時にはパソコンの前に座る時間のある朝もあります。

>昔の岩波文庫などは特にそうですが、くっきりと文字が浮き上がっていて、活字を一所懸命に組んで、そこに紙を押し当てて一枚一枚印刷した、という感じが指先にひしひしと伝わりました

私が子供の頃の本の中には、活字がきちんと一列に並んでいないものもありましたね。小学校の朝礼時の児童の整列みたいに・・・。それとポイントの違う活字が紛れ込んでいたり・・・。

>上下逆さまの字

ありました、ありました!新聞にも有ったような記憶があります。そんなのを見ると、なんかわくわくしたもんです。人のミスを喜ぶっていうわけではなく、どんなに注意を払ってもミスはあるんだ・・・と紙面が語りかけているようで、妙な好奇心をそそられたものです。

それでは、また。
これは situmonde_su さんの#6244に対する返信です

「類書」について(42)

2003/ 8/21 23:59
メッセージ: 6246 / 6510
−まとめ−その4

先に#6124で挙げた「類書」の他にも、いろいろな「類書」に出くわした。名前を知るのみだが、備忘録として挙げておこう。

まず「質問殿」からご紹介いただいた「北堂書鈔」「淵鑑類函」「[王周]玉集(=ちょうぎょくしゅう)」。

いろいろ検索している途中で出てきた「類苑」「白氏六帖」「幼学指南鈔」「事類賦」「玉海」・・・。

さて、初めて「類書」という範疇を設けた「新唐書・芸文志」には「右類書類十七家二十四部七千二百八十八巻」が列挙してある。「経籍志」とか「芸文志」とかいうものは、見るにあまり気が進まない。

が、一応見てみると、おなじみの書名が出てくる。「類苑」「華林遍略」「修文殿御覧」「文思博要」「芸文類聚」「北堂書鈔」「初学記」「通典」そして「翰苑」。

また、「類書」について書かれた論文も少なからずリストアップできた。

一つ勉強すれば、今後の勉強すべきテーマが二つ三つと生じる。まるで「英英辞典」を引いているようなものである。
これは hyena_no_papa さんの#6243に対する返信です

「類書」について(43)

2003/ 8/22 0:05
メッセージ: 6247 / 6510
投稿者: hyena_no_papa (999歳/男性/倭国)
−まとめ−その5

今回は「通志」に触れる余裕がなかった。「通志」はいろいろな問題を提起しており、「通行本魏志」や「太平御覧所引魏志」について考えるおり、あわせて考えるべき存在だと思うが、取り留めもなくなるおそれがあった。

それで、今後予定している「古本三国志シリーズ」や「刊本魏志倭人伝シリーズ」のなかで、思うところを述べたいと思う。

午前零時を過ぎたので、このシリーズを閉じ、就寝するとしよう。
これは hyena_no_papa さんの#6246に対する返信です

>おつかれさま

2003/ 8/22 23:43
メッセージ: 6250 / 6510
懇切なるご返信いたみいります。

>古形を保っているという結論

実は、今日の「通行本魏志」が、より「古形であるかもしれない」ニュアンスを匂わせたのですが、「微香性」でしたので、ほとんどご理解いただけなかったかも知れません。この点については、今後予定しているシリーズの中で「火遊び」をしてみたいと思っています。

>『太平御覧』は『倭人伝』ではなく『倭国伝』であり

私の所有している「上海涵芬楼影印」の通称「四部叢刊三編本」の「太平御覧第七百八十二・四夷部・東夷三」には「イ妥」とのみ見出しが付けられてあります。これは、ここに引用されている「後漢書」が「倭」を「イ妥」と作ることから、見出しもそれに倣ったものだと思います。

「netar0u」さんの仰る『倭国伝』というのは、「太平御覧」のどの版本なのでしょうか?「太平御覧」にもいろいろと系統があるようですので、宜しければご教示ください。

>「畿内」説にとっては理解不能の難物ですよね。

これは逆だと思いますね。「梁書」と同じく「又」でつながっている以上、「直列式」に読む以外ないと思いますが、いかがでしょうか?

二日ほど休みますので、その間にでもレスをいただけましたら幸いです。
これは netar0u さんの#6249に対する返信です

>倭国伝

2003/ 8/25 22:16
メッセージ: 6270 / 6510
「netar0u」さん、レスありがとうございます。

>『四部叢刊三編本』の重印本です

もちろん私のも重印本です。中華民国五十七年一月(1968)台湾商務印書館から出されたものです。

「四部創刊三編本」そのものは、張元済によって1922〜1936年にかけて刊行されたもので、「太平御覧」は中華民国二十四年(1935)十二月初版とされます。

さて、三木太郎氏のご高名はもちろん存じ上げておりますが、ご紹介いただいた「邪馬台国研究事典T」はあいにく持ち合わせておりません。手元にある氏の単行本と言えば「魏志倭人伝の世界」一冊のみ。あと、各誌上に掲載された物がいくつか・・・。

>7本による『太平御覧』所引の「魏志」東夷伝の校訂

というのは、もちろん私の言及すべきレベルではないと思いますが、「netar0u」さんとのやりとりで、かみ合わないような気がする点がありますので確認しておきたいと思います。

#6249で、「netar0u」さんは、
『太平御覧』は『倭人伝』ではなく『倭国伝』であり

と仰いました。私は、#6250で、
「太平御覧第七百八十二・四夷部・東夷三」には「イ妥」とのみ見出しが付けられてあります

と書きました。それに対して「netar0u」さんは、#6263で、
そして、7本いずれの冒頭も、「魏志曰【倭国】在帯方東南大海中…」との書き出しで始まるのです

というレスを返されました。「netar0u」さんの#6249が、#6263で書かれたような意味だとしたら、それはもちろんその通りですね。私が疑問に思ったのは、#6249の「『太平御覧』は『倭人伝』ではなく『倭国伝』であり」というご発言に対して、「太平御覧・四夷部三・東夷三」に続く「見出し」として「倭国伝」とあるのかな?と思ったことでした。

因みに、前掲の三木氏「魏志倭人伝の世界」百七十八頁には、次のように見えます。

宋の慶元版『太平御覧』第七八二・四夷部三・東夷三・イ妥(倭)条に引かれたものである(宮内庁書陵部蔵)。

※長くなりますので改ページします。
これは netar0u さんの#6263に対する返信です

>倭国伝(2)

2003/ 8/25 22:44
メッセージ: 6271 / 6510
>「魏志曰【倭国】在帯方東南大海中…」との書き出しで始まるのです(中略)陳壽の認識とは異なるものだということです

各書の「倭伝」の冒頭、「倭」の呼称については「倭」「倭人」「倭国」と3種有りますね。「魏志」「翰苑所引魏志」「晋書」は「倭人」。「魏略」「漢書地理志燕地・顔師古注」「後漢書」「通志」は「倭」。「山海経注文」「太平御覧所引魏志」「職貢図倭国使」「南斉書」は「倭国」ですね。

「冊府元亀」の場合は「国邑」と「土風一」では「倭国」ですが、「種族」では「倭人」となっています。

ついでに「後漢書」について見ると、「通行本」「翰苑所引後漢書」「太平御覧所引後漢書」「通典」「唐類函所引後漢書」「文献通考」「図書編・倭」、いずれも「倭」となっています。これは成立時点に係わらず、同じですね。

つまり「陳寿の認識」と「李ムの認識」の違いと言えなくもありませんが、それを以て「倭」と「倭国」の意味の違いを見いだそうとするのは少し無理があるのではないかと云う気がします。
これは netar0u さんの#6263に対する返信です

>倭国伝(3)

2003/ 8/25 23:14
メッセージ: 6273 / 6510
言い忘れましたが、私が「見出し」についてこだわったのは、次のような理由もあります。それは・・・、

「魏志倭人伝」とは通称であって、正式には「三国志・魏書東夷伝・倭人(の条)」である・・・というのが一般的な説明になろうかと思います。私も初めは「倭人伝」などと「魏志」に書いてないのだと思っていました。昭和49年発行の岩波文庫「魏志倭人伝」には今日のような「原文影印」など掲載されて無く、読み下し文のタイトルは「三国志・魏書巻三0・東夷伝・倭人(魏志倭人伝)」(漢字は現代表記に改めた)とありましたし、「参考原文」には「魏志倭人伝」としか書いてありません。

後に「影印」を初めて目にしたとき「倭人伝」とあることを知りました。

ところが、その後また、「刊本」によって違うのだ、ということも知ったのです。「百衲本」では「倭人伝」ですが、もっとも古いとされる「紹興本」では、見出しなどなく、いきなり「倭人在・・・」と本文が始まります。「汲古閣本」もそうですし、「武英殿版」もしかり。「啓明書局四史本」「中華書局校点本」「芸文印書館二十五史三国志集解」にしてもそうです。

果たして「倭人伝」などという「百衲本」のような見出しが当初からあったのかどうか?疑問です。「後漢書」「宋書」「南斉書」「晋書」なども見出しはありません。「隋書」になってから「イ妥国」という見出しが出てきます。

つまり「倭伝」とか「倭人伝」とかいうのは、冒頭の書き出しの部分の一文字か二文字を借りて「・・伝」と呼称するわけですね。

すると「太平御覧」の「魏志曰く」の部分のみ注目すれば「倭国伝」と呼べるかも知れません。しかし、見出しに「イ妥」とわざわざ書いてあるのですから、ここは「太平御覧・イ妥伝」とでも呼ぶのがよいのであって「倭国伝」と称するのは、やや不適切ではないかと思うのですね。もちろん、正式に「太平御覧・四夷部三・東夷三・イ妥」と呼称するのが最適であることは申すまでもありません。
これは hyena_no_papa さんの#6271に対する返信です

>倭国伝(4)

2003/ 8/25 23:22
メッセージ: 6274 / 6510
>「里程」を直列式に読めば、「邪馬壹国」は南海に沈みます

それはもちろんそうです。しかし、「直列式」に読むべきであるとしたら、かの「水行十日陸行一月」を「郡から邪馬壹国までの総日程」であるとみなす「古田説」や、榎一雄博士による「榎説」などは排除されることになります。つまり、これら「九州説に有利な解釈」が排除される意味は少なからざるものがあると思います。

もちろん、「直列式」に読んで「九州に収まる」説は影響を受けませんが・・・。

いずれにしても、「netar0u」さんのように、このあたりのことについてお話しできる方に登場していただくことは、私としても大変励みになりますし、いろいろ教えていただくことも有ろうかと思います。今後ともよろしくお願い致します。
これは netar0u さんの#6263に対する返信です