「古本三国志」について(1)
2004/ 1/15 22:47
メッセージ: 8820 / 8912
こんにちわれわれが見ている「三国志」は、「百衲本(ひゃくのうぼん)二十四史」に納められているものが一般的ではないかと思う。これは20世紀前半、中国の出版家・張元済が編纂したもので、よく知られているように、わが皇室に所蔵されているものも用いられている。

そのうちの「三国志」には扉の見返し部分に「上海涵芬楼景印中華学芸社借照日本帝室図書寮蔵宋紹煕刊本原闕魏志三巻以涵芬楼蔵宋紹興刊本配補」とある。

すなわち、「帝室図書寮(今日の宮内庁書陵部)」に蔵されていた「宋紹煕刊本」を影印したが、「魏志」の「一〜三巻」は欠けていたので、「涵芬楼」が所蔵していた「宋紹興刊本」を用いて補った、ということだ。

さて、われわれが「魏志倭人伝」と称しているものは、正しくは「三国志魏書東夷伝倭人(条)」と言うことになる。他でもない「邪馬台国」探求の基本文書なのだが、上記したように、これは「南宋紹煕年間(1190-1194)」に刊行されたとされるもので、「陳寿」の「三国志著述」から実に900年の歳月を経ている。それに先立つ「紹興刊本」も12世紀前半から中葉にかけての成立である。「紹煕刊本」よりは早い成立だが、張元済が「百衲本」を編纂するにあたり、「帝室図書寮蔵・紹煕刊本」を用いたことからも窺えるように、「紹興本」よりは「紹煕本」のほうに、より信を置いていたようである。

このシリーズは「刊本」についてではないので、「宋刊本」については、とりあえずこれくらいにするが、問題は、「陳寿」の撰から900年間の「三国志」がどのような経緯をたどって来たのか?という疑問が生ずる。それを白日の下に引き出したのが、この「古本三国志」と云われるものである。

「古本三国志」について(2)
2004/ 1/15 23:14
メッセージ: 8821 / 8912
さて、この「古本三国志」を平たく説明すれば、「刊本以前の書写されたもの」と言うことになる。「宋代」、猛烈な勢いで、書籍の刊行が行われた結果、それまで細々と書写されて伝わってきた種々の書物が、大量印刷によって、広く世間に流布するようになった。

書物は、書写されているうちに、いろいろな「異本」が生ずる。「陳寿」の「三国志」も、彼が没するや洛陽の令(県令)が彼の家でその書物を書写した。

「晋書列伝第五十二・陳寿」
【是於詔下河南尹洛陽令就家写其書】

こうやって、「陳寿」の「三国志」は人から人へ、手から手へ、筆から筆へと書写されてゆく。それが今日、われわれが見ている「三国志」の辿ってきた道なのである。

これらの「写本」が、千年以上の時を越えて偶然、われわれの目の前に出現する。主に西域の乾燥地帯からであるが、その「文面」には、今日「版本」として伝わる「三国志」と、かなりの「相違点」がある。

しかもそれらの中の古いものは「晋代」に書写されたもので、かの「裴松之の注」が入っていないものなのである。実に「陳寿」の死から百年を経ない時点での書写にかかるものなのである。

洛陽の令が「陳寿」の家に出向いて書写したものを、一次コピーだとすれば、この「晋代書写本」は二次、あるいは三次くらいのコピーである可能性がある。

これらの「書写本」が「陳寿原本」の面影を色濃く遺していることは、想像に難くない。

この「刊本以前の書写本三国志」を「古本三国志」と称する。私はこれまで、榎博士の「改訂増補版邪馬台国」の教えるところによって、この「古本三国志」を「三点のみ」だと理解していたのだが、その後の調べで、六点あることを知る。

それらについては、これからおいおい紹介してゆくことにしたいと思う。

「古本三国志」について(3)
2004/ 1/16 22:51
メッセージ: 8826 / 8912
さてそれでは、今日までに知られている「古本三国志」を列挙してみる。

1)1909年、吐魯番吐峪溝出土「三国志」巻六五(呉書二〇)韋曜伝・華覈(かかく)伝残卷/唐代の写本か?/25行/書道博物館蔵
2)1924年(?)吐魯番出土「三国志」巻五七(呉書一二)虞翻伝残卷/晋写本か?/10行/書道博物館蔵
3)1924年(?)吐魯番出土「三国志」巻五七(呉書一二)虞翻伝・陸績伝・張温伝残卷/晋写本か?/80行/上野淳一氏蔵
4)1965年1月10日吐魯番英沙古城南仏塔遺跡出土「三国志」巻四七(呉書二)呉主(孫権)伝残卷/晋写本か?/40行/新彊吾爾自治区博物館蔵
5)1965年1月10日吐魯番英沙古城南仏塔遺跡出土「三国志」巻七(魏書七)臧洪伝残卷/晋写本か?/21行/新彊吾爾自治区博物館蔵
6)1931年前後敦煌某寺発見「三国志」巻五二(呉書七)歩隲(ほしつ)伝残卷/晋写本か?/25行/敦煌研究院蔵

以上の6点となる。ここまではすべて「東海史学第26号(1991年)」所収、片山章雄氏「吐魯番・敦煌発見の『三国志』写本残卷」(p33)による。

「古本三国志」について(4)
2004/ 1/16 23:45
メッセージ: 8827 / 8912
1)から6)までのうち、2)と3)は、榎博士は一つに数えておられる。また特に触れてはおられないが、4)と5)は同日、同一場所での発見であり、これも一つと捉えておられるのだろう。従って博士が把握しておられなかったのは、6)のみということになる。

この2+3)は、古くから我が国にも知られており、かの内藤湖南が解説を加えているし、われわれも比較的容易に目にすることができる。手元にあるものとしては「中華書局校点本三国志」の巻頭に「書影一」として「東晋寫本呉志残卷(一九二四年新彊[善β]縣出土)とのタイトルでその影印が掲載されている。

また、安本美典氏の「『邪馬壹国』はなかった」のp125-133にも掲載されている。

また、1)の「呉書二〇」については、前掲「東海史学」のp43に「文化庁登録正式名称 紙本墨書三国志呉志第廿残卷 書道博物館蔵」として掲げられている。

4)については、「文物1972年8月」(文物出版社)に郭沫若氏が取り上げておられた。私はこれを取り寄せて所蔵していたはずなのに、今日所在不明となっている。探せど探せど見つからない。転居の折りにでも紛失したのだろうか?今となっては、再入手も困難になっている。またこの4)については、「立正大学文学部論叢第62巻」(昭和53年12月)に、大川富士夫氏が「『古本三国志』をめぐって」として書かれた論文の中に全体ではないが掲載されている。

これら「古本三国志」についての詳細をここですべて書くことは避けるべきかと思うので、必要に応じて触れてゆきたいと思う。

因みに、上記「古本三国志」について書かれてあるもので、入手しやすいものとして「季刊邪馬台国18号」(1983年冬号)で、姚李農氏が「『呉書』の写本と宋・紹煕本『三国志』校訂記」として、また尾崎雄二郎教授が「敦煌文物研究所蔵『三国志』「歩隲伝」残卷に寄せて」という、詳細な解説を掲載されている。

早くも訂正
2004/ 1/17 0:01
メッセージ: 8828 / 8912
>新彊[善β]縣

>新彊[善β]善縣

「古本三国志」について(5)
2004/ 1/17 0:21
メッセージ: 8829 / 8912
>尾崎雄二郎教授

余談になるが、古田武彦氏に「百衲本二十四史・三国志」を貸してくれたのが、京大の尾崎雄二郎教授だったという(「『邪馬台国』はなかった」32頁)。

「古本三国志」について(6)
2004/ 1/17 23:16
メッセージ: 8832 / 8912
#8826で挙げた、1)から6)までのうち、5)を除くとすべて「呉書」である。また、1)を除くとすべて「晋代」の写本であるといわれる。

また、1)から5)まではすべて吐魯番の出土とされている。

「西域」と「呉」というのは、どういう関係があるのか?と疑問に思っていたら、姚李農氏の前述の文に次のようにあった。

「この類の古巻『呉書』が、すべて[善β]善や吐魯番一帯に出現したのは、当時の呉は仏教が盛んであったので、たぶん仏教学の交流と関係があったと思われる」(「『呉書』の写本と宋・紹煕本『三国志』校訂記」=「季刊邪馬台国」18号187頁)。

そこで、肝心の「古本三国志」と「通行本三国志」とは、どういう相違点があるのか?という点について触れてみたいと思う。

「古本三国志」について(7)
2004/ 1/18 0:23
メッセージ: 8833 / 8912
今しばらく、姚李農氏の文から引用しよう。

#8826の3)「三国志巻五七(呉書一二)虞翻伝・陸績伝・張温伝」の1192字中、「紹煕本」と画数の同じでないものが416字。全体の1/3を越える。また、用語から見て「紹煕本」と異なるものが40句に登る。これらの多くは修辞学上の考慮から来たもの、あるいは古今においてたがいに通用する文字であるとする。

が、そうではない問題の箇所がいくつかある。

a)「大司農」
「古本」・・・「唯大農劉基」
「紹煕本」・・「惟大司農劉基」
後漢建安年間(196-220)には確かに「大農」という称呼があったが、黄初年間(220-226)には「大司農」と改められた。「呉」では「大農」と称した。

b)「七十卒」
「古本」・・・「在南十餘年_十九卒」
「紹煕本」・・「在南十餘年七十卒」
これは「虞翻」の卒年についての記事であるが、姚李農氏の詳細な考察によると、「古本」を「六十九」の欠文と読んで、これを正とする。そうでなければつじつまが合わなくなると言う。

c)「ス/十(丕)」
「古本」・・・「便欲大構於丕」
「紹煕本」・・「便欲大構於蜀」
これも、姚氏は「張温」と「孫権」との関係から「蜀ではなくて丕という字であることは、疑う余地はない」とされる。

次は、4)「孫権伝」について触れてみよう。

「古本三国志」について(8)
2004/ 1/19 23:25
メッセージ: 8850 / 8912
次は、
4)1965年1月10日吐魯番英沙古城南仏塔遺跡出土「三国志」巻四七(呉書二)呉主(孫権)伝残卷
について。

姚李農氏の「『呉書』の写本と宋・紹煕本『三国志』校訂記」を先に紹介したが、これはもともと1973年5月、台湾・古籍史料出版社から小冊子として刊行された「両種古巻−呉書写本与宋紹煕本三国志校勘記」を「季刊邪馬台国」編集部が再掲したものだ。

姚李農氏は、「孫権伝残卷」と「紹煕本」との校勘で都合9ヶ所の異同を挙げておられるが、それらの異同について、いずれが是かをあまり述べておられない。

それで、先に紹介した「立正大学文学部論叢62」「『古本三国志』をめぐって」を見ると、大川富士夫氏が13ヶ所を挙げ、そのうち4ヶ所について「晋写本が誤」とされている。つまりこの4ヶ所については「紹煕本を是」とされている。

だからといって、大川氏は「晋写本」の価値を軽んじている訳ではなく、それは氏の「以上のように、『三国志』が撰述された晋代と同じ時代の写本である『呉志』残卷は、定評のある宋本の誤りを正すすぐれた資料であることが確かめられる」との言葉からも窺える。

「古本三国志」について(9)
2004/ 1/20 0:11
メッセージ: 8854 / 8912
さて、もう一つ私が手にすることのできる「古本三国志」に関する考察は、先にも挙げた「季刊邪馬台国18号」に掲載の「敦煌文物研究所所蔵『三国志』「歩隲伝」残卷によせて」と題する、かの尾崎雄二郎教授(古田武彦氏に「百衲本三国志」を貸した)の文である。

教授は「歩隲伝残卷」と「通行本」との比較をされ、その異同を論じておられる。例によって個々の文字の異同は多いが、概ね「通行本」と変わらないとされる。が、一ヶ所だけ、両者の間にある「きわめて重大な異同」を指摘し、それについて考察をされる。また、「太平御覧」の当該箇所との比較についても言及されている。

個々の文字の異同については、これまた触れない。このシリーズの目的が、「古本三国志」の存在の紹介と、「通行本」との異同の程度の概要を示すことで、今日われわれが目にする「魏志倭人伝」のよって立つところの危うさを指摘することにその目的を置くからである。

「古本三国志」について(10)
2004/ 1/20 22:35
メッセージ: 8860 / 8912
ここまでは、「古本三国志」の概略について述べてきたが、実際の「異同」についていくつかそのパターンを挙げてみたいと思う。

「晋写本」と比較するのは「北宋咸平本」。この「咸平本」は「紹興本」「紹煕本」のテキストとなったと思われるものだが、その「呉志」が現在、我が国の「静嘉堂文庫」に所蔵されているという。このことについては、次のシリーズ「三国志刊本について」で調べて書き込みたいと思う。

前者に「北宋咸平本」、後者に「晋写本」を並べて記す。

■よく似ていて誤写したと思われるもの。単なる誤写の他に、書写者の判断によって意図的に字形の似た別字に置き換えられたものもあろうかと思う。
・「孫権伝」
「[番β]」と「潘」
「免」と「勉」
「成」と「誠」
「麾」と「靡」
「俛」と「勉」
・「虞翻伝」
「偽」と「為」
「積」と「責」
「成」と「咸」
「中」と「忠」
「宜」と「=v
「日/丙」と「晃」
・「陸績伝」
「在」と「存」
「遇」と「逼」
・「張温伝」
「j」と「綜」
「任」と「恁」
「倍」と「陪」

「古本三国志」について(11)
2004/ 1/20 22:58
メッセージ: 8863 / 8912
■衍字・欠字
・「孫権伝」
「陸遜部将軍宋謙等攻蜀五屯皆破之」の「之」なし
「遜随軽重」の「随」の下に「其」あり
「君生於擾攘之際」の「之際」の二字なし
「古人之所恥」の「之」なし
「敕諸軍」の「敕」の下に「令」あり
・「虞翻伝」
「後権於楼船」の「権」字なし
「惟大司農劉基」の「司」なし
「大王以三爵之後手殺善士」の「手」なし
「曹孟徳尚殺孔文擧」の「尚」なし
「弧於虞翻何有哉」の「有」なし
「聳越騎校尉累遷廷尉湘東河間太守」の「累遷」以下10字なし
・「陸績伝」
「遠人不服則脩文徳以来之」の「則脩」2字なし
・「張温伝」
「温當今與誰為比」の下に「也」あり
「臣自入遠境」の「入」字なし

「古本三国志」について(12)
2004/ 1/20 23:24
メッセージ: 8865 / 8912
■その他、改変と思われるもの
・「孫権伝」
「猶冀言者不信」の「者」を「之」につくる
・「虞翻伝」
「何敢與吾君斉馬首乎」の「乎」を「也」につくる
「天下熟知之」を「誰不知之」につくる
「而遽」を「遽而」につくる
「當閉反開當開反閉」を「當開反閉當閉反開」につくる
「也」を「邪」につくる
「百」を「十」につくる
「在南十余年年七十卒」を「在南十余年_十九卒」につくる
「翻有十一子」を「子十一人」につくる
・「陸績伝」
「須當用武治而平之」の「須」を「唯」につくる
「虞翻旧歯名盛」の「名盛」を「成名」につくる
「有漢志士呉郡陸績」の「士」を「民」につくる
「遭命不幸」の「幸」を「永」につくる
「従今巳去」の「巳」を「以」につくる
「便欲大搆於蜀」を「便欲大構於丕」につくる
「功冒溥天」の「溥」を「普」につくる

などがある。以上は、「立正大学文学部論叢62」、大川富士夫氏「『古本三国志』をめぐって」からの抜粋である。

「古本三国志」について(13)
2004/ 1/20 23:49
メッセージ: 8866 / 8912
さてさて、何をくどくどと書き連ねているのかと、訝る向きもおられよう。

ここに列挙した「異同」というのは、「版本(「咸平本」あるいは「紹煕本」など)」と「晋写本」という、同じ「三国志」同士の「異同」なのである。

これまで「邪馬壹国」と「邪馬臺国」をはじめ、字句の異同については、例えば「魏志」を引用する際の「改変」などと解釈されることも多かった。すなわち「邪馬壹国」こそ、「陳寿」のオリジナルであって、他の史書(「後漢書」「梁書」「隋書」「通典」「太平御覧」などなど)に見える「邪馬臺国」という表記は、それら編者が引用にあたって「邪馬壹国」を「邪馬臺国」と「改めて」書き記したものだとする考えである。

その代表は、言うまでもなく古田武彦氏である。好例として一つ挙げよう。「続・邪馬台国のすべて」(朝日新聞社/昭和52年)所収「邪馬台国論争は終わった=その地点から」のなかの「一、根本の資料事実」「邪馬壹(一)国は全版本の事実」という項目名を見てもよく分かる。

その「原文」の「邪馬壹国」を他の後代資料である「後漢書」などで読み替えてはいけないという主張である。

しかし、これまで私が縷々列挙してきたのは、「三国志」を「三国志」として「書写したもの」同士の「異同」なのである。その間に、これほどの「異同」が含まれていることは、「写本には誤写はつきもの」という、当たり前のことを如実に示していることは明々白々である。逆を言えば、今日の「版本魏志」が「陳寿オリジナル」のままであることなど、到底望むべくもない「夢想」でしかないと言いうるのである。

「古田説」については、改めてシリーズを組む予定にしているのでこれ以上、深入りはしない。

次は、この「写本」という観点から、「版本以前」の時代について、考えを進めてゆきたいと思う。

「古本三国志」について(14)
2004/ 1/21 23:22
メッセージ: 8872 / 8912
「版本」とは版木に文字などを彫ってそれによって印刷された書物のことである。

これまで、「宋代」に種々の書籍が版本として多く刊行されたことを述べてきた。いったい木版によって刷られた印刷物の始まりは何時かと言うことを調べてみると、なんと6世紀末の「貼り札」というものが発見されている。場所はこれまた西域・新彊省吐谷溝。そこに記された文字は、

「・・・官私・・・延昌三十四年甲寅・・・家有悪狗行人慎之・・・」

であるという。この「延昌」という年号は、吐魯番に建国した高昌国の年号で、その三十四年は隋の開皇十四年(594)。

我が国でも木版印刷の歴史は古く、神護景雲四年(770)刊行されたと称する「法隆寺百万塔陀羅尼」が最古であると言われる。

中国で木版印刷が徐々に盛んになったのは九世紀後半である。はじめは「医学」「占い」「暦」などが印刷された。その後、五代から「宋」にかけて盛んとなり、ご承知のような「出版ラッシュ」となるのである。

「古本三国志」について(14)の補
2004/ 1/21 23:26
メッセージ: 8873 / 8912
#8872の出典を。

陳国慶(沢谷昭次訳)「漢籍版本入門」研文出版/1985年

「古本三国志」について(15)
2004/ 1/21 23:46
メッセージ: 8874 / 8912
それでは「三国志」が初めて印刷されたのはいつのことかというと、「北宋第三代真宗」の「咸平五年」と言われる。この時の「三国志」のうち「呉志」が、我が国の「静嘉堂文庫」に現存する(既に触れた)のだが、実はこれも、本当に「咸平五年」の版であるかどうかも疑わしいらしい。このあたりのことも、後のシリーズで触れることにするとして、先を急ぐ。

「咸平五年」、初めて「三国志」が刊行されたと言うことは、それまで流布していた「三国志」は「写本」であった・・・という(実に単純で当然至極)ことになる。

先に、「呉志残卷」などについて紹介してきたが、「写本」というものがいかに「文字の異同」を生じさせやすいかを示すためでもあった。つまり、「引用」ではなく「複写」のための「書写」の場合でも、実にあっけなく「文字の異同」が発生する。

翻って、今日われわれが目にする、「三国志」の各版本間には「異同」が少ない(無いわけではない)。これが、一つの「陥穽」と言えるかも知れない。どの版本を見ても、同じ「邪馬壹国」である。ゆえに・・・。と考えてしまうのも無理からぬことかも知れない。

しかし、「版本」が大量に流布したと言うことは、長く伝えられた「写本」が駆逐されたことをも意味する。その大量に流布したハズの「版本」ですら、今から100年ほど前の時点では、大陸にも保存の良いものは少なく、張元済は渡日して「帝室図書寮」や「静嘉堂文庫」などから影印している始末である。

書物のいかに「滅びやすいか」をよく物語っていると言えよう。

「古本三国志」について(16)
2004/ 1/22 0:05
メッセージ: 8875 / 8912
それでは、「北宋代」「三国志」が刊行されるまで、営々として書写されてきた「三国志」はいかなる姿だったのか?それを考えてみたいと思う。

我が国に「三国志」が渡来したのは、遅くとも七世紀のことかと思われる。「日本書紀」の「神功紀」に「魏志」が引用されていることからわかる。

また、「続日本紀」「神護景雲三年(769)十月」の条に、朝廷から大宰府に対して「史記・漢書・後漢書・三国志・晋書各一部を賜ったことが記される。

他にも、九世紀「藤原佐世」が編纂した「日本国見在書目録」にも「三国志」の名が見えている。

つまり、これらはすべて「写本」である。

一つ例を挙げれば、「景初三年」。

日本に伝来した「魏志」に、今日の通行本に見える「景初二年」とあったとしよう。それを見て、「書紀」の編者は「三年」と書いた。理由は分からない。

同じく大陸でも、「太平御覧」の「李ム」、「翰苑」の「張楚金」、「梁書」の「姚思廉」も皆、「二年」と見ながら「三年」と記した。これも理由は分からない。

そんなことがあり得るだろうか?

彼らの見た「写本三国志」には「三年」とあった・・・とすれば、容易に理解しうる状況である。

「古本三国志」について(17)
2004/ 1/22 23:23
メッセージ: 8883 / 8912
また少し古田氏のことを引き合いに出させていただく。

古田氏はこの「古本三国志」のことをご存じである。それは、第一書「『邪馬台国』はなかった」38頁に「西晋写本呉志残卷」に見える「壹」の文字の写真を掲げておられる。「張温伝」の24行目「与有道平壹宇内」の部分である。この「壹」が「豆」の部分を「且」に作っている。「臺」と「壹」の字形の類似について検証する部分である。

古田氏はこの「古本三国志」を、字形の検証に用いられているのだが、「古本三国志」の存在そのものの意味するところの「深刻さ」を果たしてどれほど認識しておられたか、疑問に思う。

古田氏はその第一書の「はじめに」の中で、「陳寿を信じ通した−−−ただそれだけだ」と述べられる。

私は尋ねたい。今日流布する「通行本呉志」の文面と「古本三国志」、いずれを「信じるのか?」と。繰り返し述べたように、いずれも「陳寿」の「呉志」である。しかもその両者の間には、かなりの文字の異同がある。その異同のいずれを古田氏は「信じる」のだろうか?

「古本三国志」について(18)
2004/ 1/22 23:57
メッセージ: 8885 / 8912
ついでに細かいことを二つ・・・。

1.「壹宇内」は、今日の版本では「一宇内」とする。「百衲本」「汲古閣本」「仁寿本」「啓明書局四史本」「中華書局校点本」「武英殿版」「三国志集解」で確認済みである。「壹」が「一」と書き改められるのは、「邪馬壹国」の場合と同じと言える。「宋版魏志」が刊行された以降の「芸文印書館四史本」「文献通考」「大明一統志」「図書編」などが「邪馬一国」に作るのと共通している。「陳寿」オリジナルが「邪馬壹」であるなら、「宋代」までの間に「魏志」を引用した各史書の中に「邪馬一」なる表記が一つくらい見えても良さそうなのに、それがない。なぜか?

2.古田氏が掲げられた「壹」の写真には「西晋写本『三国志』呉志残卷(新疆[善β]善県出土)と注記されているが、「中華書局版校点本三国志」冒頭の「呉志残卷」には「東晋写本」と書かれてある。出土地はこちらも「新疆[善β]善県」とある。「西晋」「東晋」いずれが正しいのか、分からない。

ただ出土地については、大川富士夫氏の「『古本三国志をめぐって」(立正大学文学部論叢62)によると、それ([善β]善)は誤りで、「古写本『呉志』巻十二の残卷は吐魯番出土と考えるべきであろう」とされる。詳細は、氏の論文を読まれたし。また「東海史学第26号」の片山章雄氏「吐魯番・敦煌発見の『三国志』写本残卷」にも、「吐魯番出土」とし、「吐魯番出土説が無難かと考えておきたい」と述べられる。

以上、直接「魏志倭人伝」とは関わりのないことながら、「古本三国志」について書き留めておきたいことを二つ挙げた。

「古本三国志」について(19)
2004/ 1/24 0:06
メッセージ: 8887 / 8912
シリーズの後半に入る前に、私がなぜこの「古本三国志」に強い関心を持つようになったかを書いておきたい。

今から四半世紀ほど前のことになるが、北京・中文出版社「中国の新出土文物」という本を手に入れた。その中に金緕≠フ「馬王堆三号漢墓から出土した帛書」という一文を読んだのである。

「馬王堆漢墓(1号〜3号)」は1972年から1974年にかけて発掘され、これらの墓は、西漢(前漢)初期の長沙王の宰相・[車大]侯利蒼夫婦とその息子の墓であることがわかった。

その3号墓からは多くの帛書が出土している。「帛書」とは絹布に書いた書物のことである。それら帛書の中の「戦国策」が含まれていたのだが、それについて触れた部分を引用する。

「戦国策」(戦国時代各諸侯の説客の言論と術策を記録した史書)は27編で、あわせて一万一千字余りだが、そのうち六〇パーセント前後は今日の版本には記録されていない。〜中略〜今日の版本の「戦国策」のなかには、帛書の「戦国策」と内容のかなり食い違った篇章もあ。たとえば、帛書本にくらべて、章によっては、文章中の一段がそっくり抜けているところもあれば、別の章の語句をでたらめに書きいれたところもある。そればかりか今日の版本では注釈文を誤って本文とみなし、もともと二句だったものを五十三字からなる一つの節に変えたりしている。

「戦国策」は我が国でも広く読まれている、著名な中国古典の一つである。「戦国策」はもちろん、ひとりの著作によるものではなく、多くの縦横家の著作を前漢末劉向(りゅうきょう)が校訂してまとめたものとされる。したがって「馬王堆出土帛書」の「戦国策」と「劉向戦国策」とでは相違点があるのは当然かも知れないし、また代々の書写を経た上での上での「版本戦国策」が、「劉向戦国策」を正しく伝えているか疑われるのも当然であろう。

「古本三国志」について(20)
2004/ 1/24 0:15
メッセージ: 8888 / 8912
他にも「老子」や「易経」にも今日伝わる版本との間に少なからぬ異同があるといわれる。

果たして、われわれが見ている「版本」というものが、往古の姿をよく保っているかどうか、相当な疑いのまなざしを持つべきではないかと思ったのである。

「馬王堆漢墓」出土の「帛書」については、恐らく相当な研究がなされ、発表されているのだろうが、私の不勉強の故に、未だにその後の詳細について知るに至ってはいない。

ただ、このような「疑いのまなざし(古田氏とは正反対の)」を以て「魏志倭人伝」に接するとき、今日の「版本三国志」を出発点とした捉え方が、果たして妥当なものであるかどうか疑念を持たざるを得ない。

たとえて言えば天然湖上スケートリンクで、氷の厚さを知らずにスケートを楽しんでいるようなものでないか・・・。

「古本三国志」について(21)
2004/ 1/24 0:23
メッセージ: 8889 / 8912
さて、このシリーズの後半は、「古本三国志」という視点から「魏志倭人伝」の実際の文面について私の考えを述べてゆきたいと思う。

一つ書き添えておくが、この「古本三国志」は、我が国でも今後発見される可能性はある。実際に「写本三国志」が渡来しているのだから、どこかの「書庫」にひっそりと眠っている可能性は皆無とは言えまい。その時、スケートリンクの「氷」が割れるかどうか?

「古本三国志」について(22)
2004/ 1/26 23:51
メッセージ: 8896 / 8912
「殿」の高度な書き込みの面前で、つたない連載を続けるのは、少々気が引けるのですが、途中で投げ出すわけにも行かず・・・。お目汚し、どうかご勘弁を!

ではでは・・・

ここまで紹介してきた、中国西域発見の「三国志残卷」を「狭義の古本三国志」とすると、「宋代」刊行が始まるまで伝写されてきた「三国志」を「広義の古本三国志」と言いうるだろう。これを「写本三国志」と言い換えて、今後話を進めてゆく。

「写本三国志」の始まりは当然、(2)で書いたように、洛陽の県令が彼の家でそれを書写したことに始まる。

以後、多くの史書に「三国志」は引用され続けた。そして、その「写本三国志」が「版本三国志」にその役目を取って代わられるのは、「版本」の出現からそれほど遅くはないものと考えられる。

それを窺わせる史書がある。「通志」である。唐の「杜佑」の「通典」、元の「馬端林」の「文献通考」とともに「三通」と呼ばれる「通志」は、「南宋代(1161)」に「王樹海」「鄭樵」によって編纂されたとされる。1161年と言えば、かの「紹興本」の刊行とほぼ同じ時代である。「三国志」最初の刊本である「咸平本」が刊行されてから約1世紀半。既に世に多くの刊本が流布していた。

「咸平五年」から3年後の「景徳二年」、時の「真宗」は「国子監」に行幸して、そこの長に質問を下した。それに対する答えに、「私は年少の時から儒学の研鑽を仕事にして参りましたが、当時は学徒で経疏を所有しております者は万人に一人か二人もおりませんでした。これは写本作りが間に合わなかったからでございましょう。今は版木が大いに備わりましたので、士人も庶民も家ごとに皆持っております」(榎一雄「改訂増補版邪馬台国」22頁)とある。

これでは「写本」は瞬く間に駆逐されてしまうだろう。辛うじて残ったものも「希少本」として秘蔵されたのではあるまいか?


さて、その「通志」から、どんなことが読みとれるのか、少し具体的に述べることとなるので、日を明日にあらためたいと思う。

「古本三国志」について(23)
2004/ 1/27 22:57
メッセージ: 8897 / 8912
それでは実際に「通志」の文面から、どのようなことが窺えるのか、見てゆきたいと思う。

先ず言えることは「通志」は「刊本魏志」を下敷きにしていると言うことである。かつて「『臺』と『壹』シリーズ」だったかで、「魏志」「太平御覧所引魏志」「通志」「文献通考所引魏志」の四者を比較して話を進めたことがあった。このうち「文献通考」は出典を明らかにしているし、成立が1317年であるから、「刊本魏志」に依ったことは容易に窺い知れる。

また、「三国志」の最初の刊本である「咸平本」の成立より前に編纂された「太平御覧」に引用された「魏志」は当然、「写本」であったろう。

文面の共通する部分の多い、上記四書のうち、「通行本魏志」と「通志」とは、先にも述べたように成立の時期が非常に近い。

すなわち、「通行本魏志」と「通志」との「差」に注目することによって、「通志」の編纂の手法が見えてくるのではないかと思う。そして、その「差」が何によるのか?非力ながらも、その「視点」からこの両者にアプローチするのである。

「古本三国志」について(24)
2004/ 1/27 23:35
メッセージ: 8898 / 8912
先ず出だしの「倭在」の「定型句」の部分。ここは「魏志」「後漢書」「晋書」のミックスである。

「魏志」が「倭人在」とするところを、「通志」は「倭在」。「倭人在」とするものは「翰苑所引魏志」「晋書」がある。「倭在」は「魏略」「後漢書」。

また「通志」と同じく「帯方」とする者は「魏志」「魏略」「晋書」「職貢図倭国使」「南斉書」などがある。「韓」とするものは「後漢書」。

「国邑」も「魏志」と同じで、「後漢書」「職貢図倭国使」の「居」とは相違する。

少し後の「百余国」に「旧」をかぶせるのは「魏志」「晋書」だが、「通志」はそれに習ったのか「旧」。「後漢書」は「翰苑所引」「太平御覧所引」「通典所引」「文献通考所引」ともに「凡」である。

「通志」に見える「自漢孝武滅朝鮮」という文字は「魏志」「太平御覧所引魏志」にも見えず、「後漢書」の「武帝滅朝鮮」から引いてきたのだろう。それに続く「使駅通於漢者三十許国」という文が、「後漢書」とまったく同一であることからもわかる。そのあと「通志」には「国」が重複しなくて「皆称王世世伝統」というところまで、まったく「後漢書」によって文をなしている。

以上のように「通志」は、冒頭の部分、「魏志」「後漢書」「晋書」を混合させて作文している。

「古本三国志」について(25)
2004/ 1/28 0:01
メッセージ: 8899 / 8912
さて、書き出しこそ三書のミックスだった「通志」だが、それに続く例の「行程記事」からは「魏志」べったりとなる。

「南至邪馬」までで「通志」と「魏志」の相違点を挙げる方が早いので列挙してみる。

「魏志」・・・「従__郡至倭」
「通志」・・・「自帯方郡至倭」

「魏志」・・・「狗邪韓国」
「通志」・・・「拘邪韓国」

「魏志」・・・「対海国」(多くの版本は「対馬国」
「通志」・・・「対馬国」

「魏志」・・・「好捕魚鰒」
「通志」・・・「好捕魚_」

「魏志」・・・「皆統属女王国」
「通志」・・・「皆統属於倭国」

以上である。「魏志曰」と、出典を明らかにし、また成立の時期から見て「版本魏志」によったことが疑いのない「文献通考」には及ばないものの、「通行本魏志」と「通志」とは、極めて「近しい関係」であると言える。

「古本三国志」について(26)
2004/ 1/29 23:15
メッセージ: 8901 / 8912
(25)で、

>「南至邪馬」まで

と書いた。「臺」とか「壹」とかを書き忘れたわけでないことは、賢明なる諸兄はお気づきのことと思う。

「通志」はここで、いきなり「金鉱脈」にぶち当たる。

「魏志」と「通志」のこの部分の文面を比べてみよう。

「魏志」・・・「南至邪馬壹国女王之所都」
「通志」・・・「南至邪馬臺即倭国之都也」

「邪馬臺」のあとに「国」を置かないのは「隋書」に雰囲気が似ている。が、問題はそんなことではない。この部分は、例の「行程記事」を「直列式」に読むか「放射式」に読むか、解釈の分かれる重要な部分である。

「太平御覧所引魏志」「梁書」「北史」の、明らかに「又」でつながれた「直列式」の文とは違い、「通行本魏志」の構文に従っている。「通志」が参照した「版本魏志」に見えたはずの「邪馬壹」とはせずに「邪馬臺」としているのだ。この頃の「版本魏志」に「邪馬臺」とあったとは考えにくい。最初の刊本である「咸平本」の成立から1世紀半。また、かつて「類書について」で考えたように「冊府元亀」の「土風」が「咸平本魏志」に依ったと見られ、その「咸平本魏志」は「通行本魏志」と恐らく同一の内容であったろうことからも、それは推測できる。

では「通志」は何によって、「版本魏志」に見える「邪馬壹」を「邪馬臺」と改めたのか?

その一つとして、「後漢書」の「邪馬臺国」に依ったとする考えも提出できる。確かに、「通志」の冒頭部分は、かなり「後漢書」のよって文をなしている。他の史書「隋書」「梁書」「通典」に見える「邪馬臺国」に倣い、それに従ったという考えである。

実際、上記「通志」の文の直後に、細注が施されていて、そこには、「邪馬臺亦曰邪靡堆音之訛也」と見える。この「邪靡堆」は「隋書」に見える表記そのままだし、この文全体は、「後漢書李賢注」の「案今名邪摩惟音之訛也」に近い。

では、この「通志」の「邪馬臺」なる改訂は、「後漢書に依った」と考えていいのか?

「古本三国志」について(27)
2004/ 1/30 0:04
メッセージ: 8902 / 8912
>「通志」の「邪馬臺」なる改訂は、「後漢書に依った」と考えていいのか?

どうもそうではない。なぜなら、「後漢書」には当然記載されていない「景初三年」以降の部分でも、「通志」と「通行本魏志」とは、気になる相違点があるからである。

例えば、
「魏志」・・・「景初二年六月倭女王遣大夫」
「通志」・・・「景初三年公孫淵誅後卑弥呼始遣其大夫」
「梁書」・・・「景初三年公孫淵誅後卑弥呼始遣使」

一見して分かるように、この部分の「通志」は「梁書」を丸写し。上記文中の「始」は、「通行本魏志」「太平御覧所引魏志」「文献通考所引魏志」「翰苑所引魏志」「日本書紀所引魏志」、「咸平本魏志」に依ったと見られる「冊府元亀褒異・封冊・朝貢」それに「晋書」には見えない。

「始」を書くのは「梁書」とそれに依った「北史」、あと「通典」だけである。

では、「景初三年」以降の部分が「梁書」に依ったかというと、全然違う。「正始元年〜卑弥呼死」までは、またべったりと「版本魏志」からとおぼしき文面が続く。この部分は「梁書」には見えない。

そして、特徴的なのは「臺與」の部分である。「通行本魏志」には「壹與」の文字が3箇所見えている。「通志」はご丁寧にも「宗女臺與為王国中乃定臺與年十三」と書いて、都合四箇所になる。

「梁書」も「臺與」と書くが、「宗女臺與」の一箇所のみである。

もし「通志」の編者の見た「版本魏志」に「壹與」とあったとする。それを「梁書」に倣って「臺與」と書き改めた・・・と考えることもできるかも知れない。

確認しておくが、私は「版本魏志」には、始から「壹與」と書いてあったと考える。「通志」の編者がそれを見ながら、ご丁寧にも四箇所に「臺與」と書いたとするなら、それは「梁書」に倣ったと考える他はない。

しかし、少し「引きさがって」考えてみよう。「太平御覧所引魏志」「梁書」「通典」「翰苑」に、なぜ「臺與」と見えるのか?それはそれら編者の見た「写本魏志」に「臺與」とあったからに他ならない。

翻って、既に多くの版本の流布している十二世紀半ば、「通志」の編者が「臺與」と書いた理由は何か?単に、先行史書に「臺與」と書いてあったからなのか?

「古本三国志」について(28)
2004/ 1/30 23:41
メッセージ: 8905 / 8912
>「通志」の編者が「臺與」と書いた理由は何か?

「版本魏志」を見ながら、「梁書」によって「臺與」と改めたのだろうか?その可能性が無いわけではない。が、それでは「版本魏志」の文面が何故、「梁書」によって改めねばならないほど、信を置かれなかったのか?どうも腑に落ちない。

そこで思い起こされるのが、中国西域から出土した、あの「呉志残卷」である。

「大司農」ではなく「大農」が正しく、また「蜀」ではなく「丕」が正しいという、あの「古本三国志」のことである。

「王樹海」「鄭樵」が「通志」を編纂するにあたり用いた「魏志」は「版本魏志」の他に、もう一つあったのではないか?それはすなわち「写本魏志」である。欠けたところの少ない「版本魏志」を下敷きとしながらも、個々の文字や文章の校勘に「写本魏志」を用いたのではないか?という想定を為すのである。

編者は「版本魏志」を下敷きにして、その校勘を「梁書」などで行ったのではなく、「版本魏志」を下敷きにして、「写本魏志」で校勘を行った。だからこそ、「版本魏志」の文面をそのまま引き写すかに見えて、しかし「邪馬臺」「臺與」などは引きずられることなく、改めている。新しい「魏志」の文面を、古い「魏志」で改めるのに、躊躇は無かっただろう。

今日「通行本呉志」の校勘に「呉志残卷」が用いられるが如く、12世紀、「通志」の編纂にあたり、辛うじて残る「写本魏志」が校勘に用いられたのではないか?

これはあくまで「仮説」である。そのような考えを提出することができる・・・という所に留まるかも知れない。しかし、そう考えることによって、洛陽の県令が陳寿の家で書写したことに始まる「写本三国志」の時代の「終焉」が、ほのかに見えてくるように思えるのである。

「古本三国志」について(29)
2004/ 1/31 0:25
メッセージ: 8906 / 8912
「通志」について書いてきたが、いったん「通志」から離れて、他の注目点について触れてみよう。

先に、7世紀には「三国志」が我が国にもたらされていたことは、「神功紀」にそれが引用されていることからもわかる・・・と書いた。当然「写本」である。わが国内でも書写は重ねられたろうから、相当数の「三国志写本」が存在していたはずだ。今後発見される可能性も皆無ではないかも知れない。

この「神功紀所引魏志」の気になる点を挙げてみる。かの「六月」である。当該部分を掲げる史書は多いが、「六月」と記すのは「通行本魏志」「日本書紀所引魏志」「冊府元亀封冊・朝貢」だけである。

「通志」「太平御覧所引魏志」「梁書」「北史」「晋書」「通典」は、何らかの形で「公孫氏平定」に触れる。

「冊府元亀」の「六月」は、恐らく「咸平本」をそのまま襲ったものだろう。これを除くと、「通行本魏志」の「景初二年六月」と「日本書紀所引魏志」の「景初三年六月」が目を引く。

問題は、その後に続く文である。引用しよう。
「通行本魏志」・・・・「倭女王遣大夫難升米等詣郡」
「文献通考所引魏志」・「倭女王遣大夫難升米等詣郡」
「日本書紀所引魏志」・「倭女王遣大夫難升米等詣郡」
「冊府元亀・朝貢」・・「倭女王遣大夫難升米等詣郡」

全くの「同文」である。他の史書は微妙に字句に相違があり、例えば、同じ「冊府元亀」でも「褒異」と「封冊」は「朝貢」とは違いがある。

上記4書のうち、「日本書紀所引魏志」をのぞけば、「同文」である理由は理解しやすい。3者とも「咸平本」の、「子」や「孫」である。

ところが、「日本書紀所引魏志」だけは、「版本」以前に我が国に渡来した「写本」のハズである。それが何故、かくも一致した文なのか?あと2箇所、「魏志」を引用した「正始元年」「正始四年」の部分も、全くの「同文」ではないが、極めて近しい。

で、以前にも「つぶやいて」見たことがあったのだが、この「日本書紀所引魏志」というのは、ひょっとして後世の「書き込み」ではないかと思ってみたのである。

が、その考えを「拒んでいる」のが「二年」と「三年」の違いである。「書紀」は「三年」とする。

いずれが正しいのか、この部分の考察からは俄には判断を下せないのだが、「通志」と「写本」との関係から、ここも又「通志」に見える「三年」こそ、「通志」が見たのではないかとする「写本魏志」に「三年」とあった・・・という推定で、理路の通りが良くなるのではないかと思う。

すなわち、「書紀」の編者の見た「魏志」には「三年」とあり、それはとりもなおさず「二年」とある「版本魏志」ではないことになる。当初から、この「魏志」は「書紀」に書き込まれていた可能性は、否定できないようである。

「古本三国志」について(30)
2004/ 2/ 1 0:00
メッセージ: 8907 / 8912
(29)で、

>当初から、この「魏志」は「書紀」に書き込まれていた可能性は、否定できないようである

と書いたが、神経質な私としては、一つ押さえておきたいことがある。「日本書紀」と「日宋貿易」についてである。

「神功記」は「書紀巻九」であるが、「巻九」を存しているのは「北野神社本」のみだ。いずれも、平安末期以降の書写に係わるものとされる。「北野神社本書紀巻九」がいつ頃の書写に係るものか分からないが、これがもし、「日宋貿易」時代以降のものなら、面白くなる。

平清盛が特に勧めた「日宋貿易」によって「刊本魏志」が我が国にもたらされた可能性はあるまいか?「清盛」の時代と「紹興本」の時代とは重なる。

「北野神社本書紀巻九」が、一二世紀後半以降の書写に係るものであれば、例の「神功紀」に引かれた「魏志」が、当時の書き込みの可能性もあり得る。

それなら、話は非常におもしろくなる。

1)「日宋貿易」で渡来した「版本魏志」には当然「景初二年」とあった。「書紀」の書写者が「魏志」を引いて「神功紀」に書き込みをした。が、その後の書写で「景初三年」と誤写した。「二」と「三」の誤写は多い。

2)「書紀」編纂当初に既に渡来していた「魏志」には、もともと「景初二年」とあった。それを、後世の書写者が「三年」と誤写した。

・・・と、思いつきを書いてみたが、巨大な「壁」が立ちはだかる・・・。「太平御覧所引魏志」「翰苑所引魏志」「梁書」。

なぜ「三年」なのか?

ここでも「写本魏志」の姿が浮かんでくる。それには「景初三年」とあった。「景初二年」とするのは、恐らく「咸平本」からであろう。それは「冊府元亀封冊・朝貢」が、同じく「二年」としていることからも容易にうかがい知ることができる。

それにしても、「写本魏志」には「景初三年六月・・・」とする系統と、「公孫氏平定」を記すものとの二系統があったのだろうか・・・?

「古本三国志」について(31)
2004/ 2/ 1 23:32
メッセージ: 8908 / 8912
そろそろ、シリーズのクロージングにはいるが、その前に二三、「魏志倭人伝」以外の「伝」について「通志」とオリジナルとの比較について触れておきたい。

先ず「魏志韓伝」。実に見事なまでにテキストをトレースしている。一見して、全くの「同文」と見まがうほどである。相違点を挙げれば、
「魏志」・・・「馬韓在西」
「通志」・・・「馬韓在其西」

「魏志」・・・「臣濆活国」
「通志」・・・「臣濆沽国」

「魏志」・・・「占離卑国」
「通志」・・・「占卑離国」

「魏志」・・・「魏率善邑君」
「通志」・・・「魏率善色君」

「魏志」の「魏略曰」が何ヶ所か「通志」では省略されている。

「魏志」・・・「景初中」
「通志」・・・「魏景初中」

「魏志」・・・「以楽浪統韓国」
「通志」・・・「以楽浪本統韓国」

「魏志」・・・「臣智激」
「通志」・・・「臣濆沽」

「魏志」・・・「以瓔珠」
「通志」・・・「以纓珠」

「魏志」・・・「露[糸介]如Q兵」
「通志」・・・「露[糸介]身」

「魏志」・・・「足履革[足喬][足日/羽]
「通志」・・・「足履革[足喬]」

「魏志」・・・「有所為」
「通志」・・・「有所作為」

「魏志」・・・「通日[口+灌右]
「通志」・・・「通日[馬+灌右]

「魏志」・・・「諸亡逃」
「通志」・・・「諸逃亡」

「魏志」・・・「有似浮屠」
「通志」・・・「有似西域浮屠」

「魏志」・・・「其男子時時」
「通志」・・・「其男子時或」

「魏志」・・・「乗船往来市買中韓」
「通志」・・・「乗船市買往来由韓」

以上「馬韓条」の「魏志」と「通志」との相違点を挙げてみた。細かい画数の違い、異体字は除いた。「倭人伝」ほどではないが、「韓伝馬韓条」も結構な字数を数える。その中で、異同を挙げてこれだけである。しかも、センテンス単位の異同と言えば、最後の一例のみである。

「通志」がいかに、テキストを「べったりと」引き写したかよく分かる。

「馬韓条」に続く、「辰韓」「弁辰」についても、「魏略」からの引用を、はしょってはいても、「魏志」べったり。

それに比べて、「倭人伝」部分は、「類似している」とは言えても、この「韓伝」部分ほどではない。

なぜ、このような違いがあるのか?「韓伝」は、恐らく「版本」以外に「通志」のテキストとなるものが(すなわち「写本」)が彼らの手元に存在していなかったからではないか?

「できたてほやほや」の「版本」をテキストとして「通志」を編纂すれば、これほど似るのは、当然のことだろう。

「古本三国志」について(32)
2004/ 2/ 1 23:56
メッセージ: 8909 / 8912
もう一つ例を挙げよう。

「通志」に引かれた「南史」の「宋書倭国伝」部分である。「通志」は「宋書」を直接引用せず、「宋書」を引いた「南史」を引用している。

そこで、「通志」と「南史」の当該部分の校合をしてみると、これまた実に見事なトレースぶりである。「宋書」を引用するにあたって、「南史」がはしょった部分がそのまま「通志」に見えることから、「宋書」からの引用ではなく、「南史」からの引用であることがわかるのだ(「通志」には引書を記していない)。

これほどまでに、テキストをべったりと引き写す「通志」が「魏志倭人伝」相当部分だけは、かなりの相違点を見せていること・・・。これをどう考えればいいのか?

やはり、先にも述べたように「版本魏志」と、それを校勘するに足る「写本魏志」を手元に置いていたのではないかという推測を棄てることが出来ない。

そして、「太平御覧所引魏志」について言及したい。「写本魏志」に依ったことが明らかな「太平御覧」に見える「魏志」と、今日の「通行本魏志」との相違点は、榎博士の唱えるような「通行本魏志と同じ内容の魏志の節略」ではなく、「版本魏志」のテキストとなった「写本魏志」と「御覧魏志」とは、別物ではなかったか?という推測を持つ。

そして、延々と各種の史書に引用され続けた「魏志」に見える「表記群」こそ、3世紀から綿々と書写され続けた「魏志」のオリジナルの姿を遺しているのではないか?

そのような推測を立てると、さてそれでは今日われわれが見ている「版本魏志」とは何者なのか?

それは・・・。

「古本三国志」について(33)
2004/ 2/ 2 22:39
メッセージ: 8910 / 8912
>さてそれでは今日われわれが見ている「版本魏志」とは何者なのか?

それは、「太平御覧」成立(984)と「咸平本」成立(1002 or 1003)の間に新たに出現した「写本魏志」であろう。「北宋代」は、書籍の刊行が極めて盛んになる。それはこれまでも述べてきたし、次のシリーズでも詳しく紹介したいと考えているが、いったい書籍を刊行するにあたっては、当然良質のテキストが求められる。

「咸平本」刊行にあたり、新たに見いだされた「写本」は、それまで伝写されてきたものとはかなりの相違点を持っていた。

すなわち、「後漢書」から「太平御覧」に至るまで、「三国志」は多くの史書に引用され、又参照されてきた。その「メインルート」の「三国志」とは違う、いわゆる「異系統本」の出現を想定するのである。

以前にも書いたことがあろうかと思うが、その「異系統本」は、「欠文」の少ないものだったのだろう。それを「善本」として、版に彫り刊行された。

それが今日伝わる「紹興本」「紹煕本」以下の各版本なのである。

「正史」を始め、多くの書物に引用されてきた「写本三国志」はその時点で「無用のもの」となった。しかし、その「写本三国志」こそ、「陳寿」のオリジナルの姿をよりよく残しているテキストだったのである。

「古本三国志」について(34)
2004/ 2/ 2 23:04
メッセージ: 8911 / 8912
>「無用のもの」となった

「写本魏志」の「倭人伝」にはいったい、どのような表記が見えたのだろうか?

それは恐らく「邪馬臺国」と書き、「臺與」と書く。「投馬国」「邪馬臺国」への行程は「又」でつながれた「直列式」の構文となっている。「卑弥呼」が初めて遣使したのは「景初三年」であろう。



これが一応の「結論」である。ところが・・・。最後に「どんでん返し」の打ち上げ花火をぶち上げておこう!

「通行本三国志」のテキストとなった「写本三国志」そのものが、狭義の「古本三国志」であった可能性はなかろうか?

すなわち、各王朝などで代々書写されてきた「メインルート」の「写本三国志」こそ、「誤伝」の多いテキストであり、新たに出現した「写本三国志」こそ、「陳寿三国志」の「一次コピー」に近い写本で、いずれかの場所でひっそりと眠っていた写本なのかも知れない。

「晋代」の写本が、千数百年の眠りから目覚め出土することがあるのだから、「北宋代」に数百年の眠りから覚めて出現することはあり得ることかも知れない。もしそうなら・・・。今日の「通行本魏志」こそ、「陳寿」オリジナルに近いのかも知れない!



が・・・・・・。そこには「裴松之注」の問題が立ちはだかる。各正史「経籍志」などに見える「三国志」はすべて「裴注」を受けているし、「日本国見在書目録」に見える「三国志」も当然「裴松之注」のあるものである。「隋書経籍志」に見える「三国志」も「裴注」の入るものであるし、その「隋書」に「魏志所謂邪馬臺者也」と見える以上、先に挙げた「一応の結論」を崩すのは、難しいのではないかと思う。

「古本三国志」について(35)
2004/ 2/ 2 23:15
メッセージ: 8912 / 8912
いずれにしても、失われた書籍の方が、残されたものより遙かに多いのは確かだろう。

その「失われた書籍」に思いを致しながら、今日残る「書籍」に触れる構えを持たなければ、現在の文面に「惑わされ」ることになり、真実からは遠ざかるのではないかという危惧の念を持つ。

長々と「古本三国志」という観点から、今日われわれが見ている「魏志倭人伝」を中心に書きつづってきた。調べれば調べるほど、分からない点が続出して、探求の途の長さをまた、思い知らされることになった。

とりあえず、このシリーズはこれを以て閉じることにする。が、余りにも要点のみの書き込みとなったため、うまく論旨を伝えられたかどうか甚だ心許ない次第である。思い出したことがあれば、また追補として書き込みたいと思う。。