■和田喜八郎氏の自称“経歴”と、“落下”の時期
幕府滅亡まで極秘として天井に隠されていたものである。家伝として、異常なる時は生命をかけて護るべしあり、私の父はひところこれを気味悪いものとして消却しようとした時、祖母に強く叱られた事があった。小学生の頃で昨日のように覚えています。それが、父と相談して、この箱を開いたのが昭和三十二年の春であった」 「出版に薦言す」市浦版『東日流外三郡誌』上巻収録 1975年
昭和二十二年八月ころ、わが家に“事件”が起り、これらの秘書が脚光を浴びるきっかけとなった。真夜中、天井板を突き破って、挟箱が落ちてきたのである。天井裏を調べてみると、ほかにも鎧箱や船荷箱などが麻縄で吊されていた。その一つが落下したのであった。 「東日流六郡誌大要について」『東日流六郡誌絵巻 全』収録、1986年
一九二七年一月一日青森県北津軽郡飯詰村(現五所川原市)に生まれる。一九四四年中野学校を経て従軍(海軍転籍)。一九四八年以来五所川原市で農業のかたわら石塔山大山祇神社を護る。『東日流諸郡誌』伝承者。 『知られざる東日流日下王国』1987年7月 中野学校に入れる者は陸軍将校や下士官からの選抜で、優秀な人ばかりだった。下士官になるには二年程度かかるから、入校するにしても二十四歳にはなっているはずである。ところが和田喜八郎氏は、昭和二年生まれである。昭和十九年に入校したとなると十七歳、中野学校に入れる年ではない。いわんや陸軍から海軍への転属などという話は当時の軍制からみて、ありえない話だ。和田喜八郎氏は、「中野学校四期生(三丙)として吉原正己教官の錬磨を授得(ママ)し・・・」と記しているが、当の吉原氏は「和田喜八郎という人を教えたことなど全くありません。名前も聞いたことがない」ときっぱりと否定されている。和田喜八郎氏自身、某大手新聞記者に「中野学校には行っていなかった」と告白したという後日談すら伝えられており、何をかいわんやである。(『季刊邪馬台国』61号「和田喜八郎氏“疑惑の軌跡”」。『日本史が危ない』72〜73頁にも同文)

『季刊邪馬台国』51号58〜59頁。
・陸軍中野学校は、旧日本陸軍の軍事諜報に関する知識・技術を教え、軍事諜報員を養成した学校である。陸軍省兵務局分室の中に、昭和十二年(一九三七年)末につくられた情報勤務要員養成機関である後方勤務要員養成所がその前身である。昭和十三年(一九三八年)に一期生を出した。昭和十九年に、中野学校を出たとすれば、十七歳で出たことになる。しかし、昭和生まれの中野学校出身者はいない。また、和田喜八郎氏の親戚の人たちの話でも、和田喜八郎氏が、学校へ行っていたということはないという。当時を知る人たちの話では、昭和十五年〜昭和二十三年のあいだ、和田喜八郎氏は、飯詰に住んでいたという。

『季刊邪馬台国』52号58頁〜、元大本営陸軍参謀中野学校担当部員・高倉盛雄「和田氏と中野学校との関係−ありえない経歴を誇称−」
(一)和田氏は昭和二年生まれ、中学一年で中野学校入学、四回卒と言う。中野学校は兵の教育機関ではない。中学一年から入校できる陸軍幼年学校と勘違いし、また年の計算においても混乱してはいないか。念のため申し添えるが、中野学校の昭和十九年卒業生は3乙・6丙、入校生は4乙・7丙だ。年齢計算も算盤が合わない。中野学校は迷惑する。
(二)和田氏は中野学校卒業とともに海軍に移籍して、ビルマのマンダレーに赴いたと言う。兵籍変更は軍制上不可能だ。ビルマで敗戦、戦犯としてマニラのモンテンルパに三年収監の言も度が過ぎる。しかも次の『北日本防衛ジャーナル』発言ではコロリと変って全く別人のように、ありえない昭和二十年六月復員帰郷論に豹変し、こともあろうに中野学校から何千何百何十何円何十何銭という舌がもつれるような慰労金をもらったなどと記す。ただあきれるばかりだ。当時私たちは最後の作戦連絡斑(杉田一次大佐を長とした中佐一〔私〕、少佐二の参謀)として、六月十七〜十九日にはビルマとタイにいた。また中野学校は師団長に転出した校長の事務取扱いに、大本営陸軍部第二部長の有末中将が任じられていた状況を考えただけでも、六月に一人の兵の復員帰郷、慰労金などとは、どこから吹き出した発想だろうか。当時和田氏は一体全体、どこをどう彷徨していたのだろうか。私は馬鹿々々しくて、彼に問い正す気にもなれない。
(三)和田氏問題検証に今一つ焦点がある。彼は中野学校卒業時に吉原政己という上官がいたことを指摘する。上官とはおそらく教官のことだろうが、「高齢なのであるいは亡くなっておられるかもしれない。もし生存しておられたらならば、私の中野学校における存在を証言してくださっただろうに」という、いわゆる同期生抜き(普通は上人は教官よりも若い、多い同期生に求める)の計算がみえみえだ。
偕行社の調査で、吉原氏(八十二歳)の生存が確かめられた。しかし私は、吉原氏に和田氏のことを尋ねる気にはなれなかった。知らないといわれるに違いないばかりか、間髪を容れず反中野学校の和田氏については、問答無用と切り返されることが必定だからだ。案の定、吉原元教官は、偕行社に、和田氏が中野学校に関して言ったこと書いたことはすべて事実でないと、はっきり否定されたという。
東日流外三郡誌と安倍氏について−和田喜八郎−

私は小さい時から土蔵の中に鎧とか刀など若干あることは知っておったのですが、津軽(ママ)外三郡誌があったということで、日本の津々浦々まで知れわたる状態になるとは思いませんでした。それは、昭和二十三年、私が復員で軍隊から帰ってきた直後のことです。あんまり家が汚いので親父と相談してまず天井を替えることにしました。その時までの天井というのは葦藁で編んだすだれを、ただの丸太を渡したところに並べたもので、しかも何百年も暮らした家ですから煤がいっぱいでお話にならない。その天井のすだれをおろすのは大変なことでした。こして今度は大工を頼んで新建材のボードを張った天井にしたわけです。〈中略〉これは昭和二十三年の夏頃の事です。その夜中でございますが、ものすごい音で張ったばかりの天井を破って大きな長持ちが落ちてきた。こんなにでっかい長持ちが二つに割れて、その中から煤けた古い本がいっぱい出てきた。何だよこれはと思って、その一冊を見てみたら、この書物は人に見せてはならない。門外不出だと書いてある。それで少し調べてみると安倍一族のこと、敵方のことばかり書いてある。長髄彦、安日彦のことが系統的に書いているものだから、親父もこんな物持っていても仕方がないから焼いてしまおうというので田圃に持っていって焼こうとした。そしたらうちのおばあちゃんが〈中略〉「天井に隠しておいたのにはそれだけの理由があるんだから、焼くのは何時でもいい、先祖の書いたものを、ちよっとでも一冊でも二冊でも、納得いくまで読んでみて、それから焼け」という。私は尋常六年生までまでの学歴、旧制中学一年の時に中野学校(その学校は皆さんにあまり紹介したくない)に入り、卒業してから昭和二十三年まで兵役です。そういう事で私は頭のてっぺんから足の爪先まで、皇国史観というものでたたき直され、洗脳されてきた。軍国主義一途の私でございました。だから国を守るという軍部の教えによって、国を守るためならば、何時死んでもいい。今日死んでも、明日死んでもいいんだという意気込みで、中野学校の教育を受け、戦地に行ってからも出来るだけの事をしてきたんです。
ビルマのマンダレーという所で敗戦
になり、それから戦犯としてモンテンルパに移されましたが、大した事はなかったということで帰ってきたということです。そういうことで、この書物を読むということは大変なことだったわけです。〈中略〉
もう一方の筆で書いた本は寛政五年(一七九三)から文政五年(一八二二)まで、三十年間もかけて日本の諸国をまわって書いたとありました。今日は衣川でございますので、なるべく衣川に関係することにしぼってお話ししたいと思います。安倍一族の祖先は安日彦、長髄彦ということになっており、これは秋田氏の上の系図、下の系図という二つの系図でも一致しております。これは面白い、焼くのは何時でもよいと思いながら一巻を読み二巻を読みしているうちに二〇年もたちました。その頃市浦村の山内栄太郎さんという方が訪ねてこられて、お宅は秋田家と縁りがあるようだが(この文書類が出てこようが、出て来まいが、秋田子爵家とはずっと長いお付きあいがあるわけです)秋田家の何かが無いかというのです。秋田家のものは無いが安倍氏とか安日彦や長髄彦とか、外三郡誌、六郡誌、あるいは津軽誌大要、陸奥風土記とかがあると答えたことがあります。
最初に落ちてきた長持ちの中を調べてから、再び天井の上を見たら、まだ六つぶら下がっていた。非常に丈夫な麻縄で吊ってある。落ちてきただけの物を整理してだんだん見ている内に、「安倍氏と安倍一族と秘宝のありか」という非常に興味のあるものが出てきた。秘宝ですよ、秘密の宝だ。誰がみてもくいつくはずです。そこでこれは面白いと思って、いよいよ私の旅が始まったんです。〈後略〉
『衣川と安倍氏の歴史を考える研究集会 安倍氏シンポジウム』平成元年9月16〜17日
『津軽発「東日流外三郡誌」騒動』117〜119頁

報告書は衣川村、衣川村教育委員会、国民宿舎サンホテル衣川荘発行、1990年6月10日
『季刊邪馬台国』52号82頁。
・和田喜八郎氏の軍歴のほとんどすべてがデタラメであることは、旧陸軍の将校の親睦団体である偕行社の、図書の責任者である森末俊夫氏(お兄さんが、中野学校卒)が、きわめて明晰・明快に説明して下さった。すなわち、
(1)昭和二年生まれの人が、陸軍中野学校にはいることはありえないこと。
(2)海軍転籍はありえないこと。
(3)ビルマのマンダレーで、敗戦をむかえることは、ありえないこと(日本軍は、ビルマのマンダレーからは、撤退していた)。
(4)ビルマで敗戦になったものが、フィリピンのモンテンルパに移送されることもありえないこと。
私はこの中野学校で、至誠の鍛錬によって『語らず』という秘密戦士の人格形成を受けた。昭和十九年八月、静岡県磐田郡二俣町に四期見習士官として教育を授(ママ)けたが、同期一千名の中から、私だけが海軍に転籍された。そして、私は陸軍から海軍へと、ある秘密遊撃戦に従事させられた。私の名は、郷土に在って百姓をしていることになって居り、実際の心身は山崎という仮名で、中野学校四期生(三丙)として吉原政己教官の錬磨を授得し、同期生達に『三々壮途の歌』に送られ、『死して遺骨を拾う者無し』と云う因果な機密のもと、ビルマに配属された。中野学校という存在すら知る由もなかった山村育ちの私が、弘前師団長・大迫貞通氏の推挙に依る事を私自身後に知った事だが、私が中野学校に入学した事は私の父母姉妹でさえ知らず、まして一般の人々は全く知る由もなかった。そして、私は予備士官生で、森岡予備士官学校出身となって居り、年令も二才上の生年月日が記入され、山崎という姓で、秋田県生保内出身と云う事になっていた。名前だけは喜八郎であり、二俣から佐世保海軍鎮守附に移官されたが、着馴れない海軍服にうんざりした事は今でも忘れられない。私の奥歯の一歯には、敵地に入って捕はれた時の自殺用として青酸加里をを注入したカプセルを入歯の中に歯科手術された後、海軍士官としてマンダレーに送られた。一緒に到着した同期の筒井義孝(仮名)はマラリヤにかかり、そのままユーボートで帰還したらしいか、今なほ生存しているか否かは、現在の私の知る術もなく、私達は何一つとして語れない秘密戦士であった。
『征く世界はみな墓場』と云う不惜身命の一語は、中野学校出身でなければ知る由もない洗脳教育に、私達の心身は報国の『誠』が何人にも惑わされぬ精神に成育された。さらに『中野学校は組織を語らず』と云う事で、戦後のマスコミもその実態に付いては全く知る事が無かった。
昭和二十年三月、私は本土遊撃機に指向されて招還され、不穏な横須賀海軍鎮守府に配属された。仕込まれた入歯は抜取られ、六月には郷里に還され、山本敏少将から軍属労金一封として金六千二百八円五十三銭が支給され、私を再招せぬまま、八月十五日、玉音放送を拝聴して日本の終戦を知った
後日、私の知る限りの所に電話を入れたが応答はなく、私の手元には工作用に支給された陸軍と海軍との軍服だけが遺され今も保存している。
私に諸々の智織を授けてくれた中野学校を誇りには思って居ないが、忘れられない過去で、それは、私の愛国精神の誠で、命を賭けて全智能が発揮できた青春時代の一時期である。私の村の小学校に、今も変わらない校章がある。それは『誠』と云う一字である。
これは中野学校の精神であり、私の学んだ過程に於て、機密ながらも七年間、国家の要請に依って設立された中野学校、名もなく散った戦友、日本軍が進軍した何処の異国にも草むす屍、水く屍となった中野学校生の居たことを覚えてほしい。
日本軍が大東亜共栄圏の名の下に南方植民地を独立解放する為に進軍したが、敗戦に依って一頓挫した。しかし、植民地を自領としていた連合軍もその侵略領地を地民国家として認め南方諸国の独立が叶ったのも、太平洋戦争に於る日本軍の進軍があったればこそ実現されたものと私は考えている。
勝てば官軍、敗けては賊軍と伝う諺は、昔の侍ばかりの通常文句ではない。
未だ力のない先住民族の自治権と領国を制へている大国と云えども智織の向上した民族に平等権を損なうことがあれば、社会主義国にせよ自由民主国にせよ宗主権を維持する事は出来ない。
『北日本防衛ジャーナル』(平成3年4月号)=1991

『季刊邪馬台国』52号84〜85頁より

また掲載文のタイトルは「東日流諸郡誌類による私考」。『だまされるな東北人』106頁。
梓書院の社長鈴木久子氏からの問いあわせに対し、終戦時、ビルマにあった三三軍の参謀で少佐であった黍野弘氏は、つぎのように返信している。
「お申越しの件、愚見を述べます。和田氏は昭和二年一月一日生まれとの事、中野校入校は昭和十四年の筈で(hy注:和田氏の「旧制中学一年の時に中野学校」を受けたものだろう)、昭和十九年は五年生中学なら卒業の年です。陸軍中野学校は特殊学校で、軍隊歴一〜二年の幹部候補生出身の見習士官から少・中尉で、全軍から選ばれた思想・頭脳・体力共に優秀な者ばかり(例えば小野田少尉の如し)を集めて教育したものです。彼の年令から言っても、又簡単な計算も出来ない者の入る学校ではありません。

さらに、偕行社の、森末俊夫氏は、次のようにのべている。
(1)四期見習士官という表現は使われていない。
(2)同期一,000名とあるが、昭和十九年八月予備士官学校を卒業入校した人数は二二八名である。
(3)陸軍から海軍への転籍などない。
(4)中野学校に入校した人が、見せ掛けとして、郷土にあって百姓をしていたことにするなど、あるはずがない。
(5)任地に仮名で行くことはあるが、仮名で入校することなどナンセンス。
(6)吉原政己教官は本校に居り、二俣分校へは出張講義をしていのであり、和田氏が直接の部下であったような表現はおかしい。
(7)予備士官という言葉は存在しない(予備士官学校という言葉はある)。
(8)森岡予備士官学校出身となっているとあるが、同校は昭和十六年八月、廃校になっている。軍隊で存在しない学校を卒業したなどといって、居れるはずがない。
(9)青酸カリについての教育はあったが、入歯の中にカプセルをいれるなどお笑い種。
(10)海軍はマンダレーには入っていない。
(11)ビルマにドイツのユーボートが来るなど考えられぬ。
(12)当時、山本敏少将は、部下に金を渡す立場にはない。
(13)六千二百円は多すぎる、少佐でも二千二百円程度。
(14)和田氏の文章は何か、本でも読んで、適当に書いたのではないか。

以上『季刊邪馬台国』52号85〜86頁。



和田喜八郎の地元で同年輩の人に聞けば、和田喜八郎は、十六歳頃から二十二、三歳頃まで、飯詰村の青年団員として、素人芝居に出ていたという。昭和二十年の初め和田喜八郎宅に宿泊した従兄弟も喜八郎の在宅を証言している。

以上『津軽発「東日流外三郡誌」事件」125頁。
〈冒頭のVTR〉
NHKスタッフ:そもそも、これが何時見つかったかという話を・・・。
和田:昭和二十二年だよ昭和二十二年、俺もまだ、歴史も何も判んねえ時、天井から落っこってきたんだよ。それがきっかけだ。

−終盤でのやりとり−
安本:じゃ全然他の話題に移ってよろしてですか。和田さんにうかがいますけれども、和田さんはさきほどのVTRの中で、(昭和)二十二年の八月にですね、(『東日流外三郡誌』が)天井から落ちてきたという風に言っておられます。ところが、こちら側(の本の)、この安倍シンポジウムの和田さんのお話ではですね、二十三年に復員して来たという風に書いておられるわけです。二十二年に復員して来た和田さんが、どうして二十二年に天井から・・・。
和田:いや、それ(安倍氏シンポジウムの本)俺書いたんじゃなく、俺が言ったのを向こうで(編集者が)活字にしたもんだから、これは、その、書き違いもいいところですよ。ともかく、こういうこともよるよ。俺、NHKの『ぐるっと海道三万キロ』で、うちの親父は、あっちの方へ行ってしまったといったのが、NHKでは、アッツ島で戦死したことになっとるよ。そういうようにさ、間違うことが沢山ある。(これも、あとで、安倍氏シンポジウムの本の編集担当者に確認したが、和田氏の話した内容を活字化したさい、校正刷りを、和田氏にみてもらったとのこと。当然である。)
安本:そうですか。それでは市浦村から出ている『市浦村史資料編』の上巻ではですね、ここにコピーをしてきておりますけれど、この古文書が出たのは二十二年でも二十三年でもなく、三十二年だとしてありますよ
和田:二十二年に間違いございません。これは。
安本:それでは、この一番初めに書かれたご自分の原稿は間違っているわけですか。
和田:いや、これ(『市浦村史資料編』の文)、俺書いた原稿じゃないよ。おれ、あの時は、物の書き方は全然判らねえ、ほとんど訂正されたもんです。


古田:安本さんね、和田さんがあの、警官になったことはないと書いておられる。これは昭和五十四年の警友会連合簿に(和田さんの名前が)ちゃんとありますのでご覧下さい。
安本:和田さんにうかがいます。いつ警官いったんですか。
和田:うん、あれはあの・・・。
林:こういう問題は・・・。
秋尾:最後に一言、ええ、あの・・・。
和田:関係ないでしょう?
安本:だって関係無いものを古田さんが出されたわけですから。いつ警官されていたんですか。
和田:何?
安本:警官をしていたと古田さんがおっしゃられたんですが。
秋尾:わかりました。すみません。和田さんに最後・・・。
古田:皇宮警察・・・
和田:皇宮警察・・・
NHK「ナイトジャーナル」1993年6月1日
今の和田さんの皇宮警察というのは、正確にいうと、皇宮警察が成立したのは昭和二十一年の正月頃からで、その前は皇宮警察というのは組織がなかったんやそうです。だれが守っていたかというと、右翼めいた人やいろんな人がいて、そういうまあ今でいえばボランティアでしょうけど、自発的な組織ができてまして、その中の一人に入っていたらしいんです。 『新・古代学』(平成7年7月5日、新泉社)=1995
昭和二二年夏の深夜、突然に天井を破って落下した煤だらけの古い箱が座敷のどまんなかに散らばった。家中みんながとび起き、煤の塵が立ち巻く中でこの箱に入っているものを手に取って見ると、毛筆で書かれた「東日流外三郡誌」「諸翁聞取帳」などと書かれた数百の文書である。どの巻にも筆頭として注意の書付があり、「此の書は門外不出、他見無用と心得よ」と記述されていた。
 親父がまだ若かったし、私も終戦で通信研究所の役を解かれ、家業である農業と炭を焼く仕事に従事し、これは二年目の出来事である。当時、飯詰村史を担当していた福士貞蔵先生や奥田順造先生にその一冊を持参して見ていただくことにした。次の日五所川原の弥生町に住んでいた福士先生にみていただくと、「これは歴史の外に除かれた実相を書き遺したものだから、大事にするように」、できれば三日ほど貸してくれないかと言われ、そのままにしていたが、まさか飯詰村史に記入されるとは思わなかった。先生は仏教のことはその明細にくわしくないので、これを村の大泉寺住職開米智鎧和尚が別編として村史に加えることにした。
『新・古代学』(平成7年7月5日、新泉社=1995)21〜22頁。
和田喜八郎
「和田家文献は断固として護る」
私はその最後の筆者である孫父長作爺さんから読み書き算術を小学四年生になるまで教えられたので、今でも孫爺さんの事は幼い頃より、学校の先生よりこわい学問の師であり私の生涯はこの孫父に依って「忠孝」の道こそ、かたくなにも人生の求道であると信じて兵役志願に赴くこととなった。
 鹿児島県出身の大迫閣下に認められ、静岡県の通信研究所で特別教育され、ビルマに赴きその役目を果 たし、マレーの虎と云われた藤原岩一閣下の命令で本国に還る奇運を得た。

 新型爆弾と称された無差別殺戮の原子爆弾が広島及び長崎に投下され、地獄絵図より尚無惨なこの世さながら、阿鼻叫喚の爆臭漂う敗戦日本本土にて私は「近衛師団解散」のあと皇居護衛に抜擢され、折よく同郷の浜館徹らと法曹会館や近衛師団兵舎に宿営し、天皇陛下を護衛する大役をはいして東京に駐り、昭和二十年十二月帰郷した
 その後、長男である私は家業を継ぐこととなり、以来五十年今日に至っている。
 我が家の文献を手にしたのは昭和二十二年の夏、突然天井を破って落下した鎧櫃に詰まっていた煤だらけの書物が座敷いっぱいに散乱した事件が、幼い頃、孫父が能く書いていた大切なものと、うろ覚えに読んでみたのが今、偽作論者の云う私の偽造したものと悪評された史料である。
古田史学会報1995年 9月25日 No.9
「長作爺さんの思い出」

※森岡予備士官学校;『だまされるな東北人』107頁、小野寺永幸・千坂[山彦]峰(げんぽう)対談「古物・履歴にみる和田喜八郎氏のほころひ」より。
昭和十三年三月二十五日に勅令第一三九号によって、陸軍予備士官学校が制定されました。翌十四年八月一日に盛岡に陸軍予備士官学校が設置されました。ところが、昭和十六年七月九日に盛岡陸軍予備士官学校は廃校となり、前橋陸軍予備士官学校となっています。