唐津平野の地形分類図

唐津湾周辺遺跡調査委員会・編『末盧國』本文編 12頁

同書16〜17頁


(vii) 新砂丘列の形成と環境
(a) 松浦川右岸地域(虹ノ松原砂丘)
虹ノ松原砂丘の形成時期についての決定的資料はいまだ得られていないが、この砂丘上に弥生遺跡が全くみられないばかりではなく、古墳期の遺跡も数少ない(浜玉町浜崎の諏訪神社古墳のみ)ことからみて、わが国の沖積世砂丘の分類からいえば、新砂丘に属するものと考えられる。
沖積世新砂丘は、縄文海進の高頂期後、とくに縄文後・晩期から弥生中期ごろにかけての低位海面期(現海面より2〜3m低位にあったことを推定させる資料が各地で得られている。砂丘についていえば海岸線の海方への後退によって旧砂丘の発達が止まり、そこに埴生が回復し、腐埴層=クロスナ層が形成され、同層中には縄文後・晩期や弥生・古墳期初頭の遺物が包含されている)に沖合に退いた海岸線および海岸砂丘が、4〜5世紀ごろからの海面の再びの上昇によって消滅する一方、ほぼ現海面に回復した時期の新海岸線に沿って形成された新しい海岸砂丘を指している。したがって旧砂丘と複合する場合はクロスナ層を挟んでその上に新砂丘が形成されている。これまでに明らかにされている新砂丘の形成時期の一部を挙げると次の通りであり、4〜5世紀ごろに形成されたケースが多く、虹ノ松原砂丘も、ほぼその時期に形成された可能性が高いように思われる。

hy注1)図中の2本の矢印と唐津湾中の「新砂丘列」という文字は、hyによる付加。
hy注2)「次の通り」で列挙された新砂丘の形成始期は、
@内灘砂丘:古墳時代
A鳥取砂丘:古墳時代
B土井ヶ浜砂丘:(土師期初頭[小銅鏡]以後)
C志布志湾砂丘:横瀬古墳[5世紀後半〜6世紀以前](土師・須恵期の出現以後)

虹ノ松原砂丘の形成をこの時期とし、その背後に汽水生の高い潟ないし水田化可能な後背湿地の形成をみたと考えることにより、島田塚古墳をはじめとする鏡山北麓部の古墳の成立条件も理解されるのである。
また、玉島川は比較的下流部まで扇状地性の沖積平野を形成していたこともあって、弥生時代から古墳期にかけても、現河口付近まで陸化していたことが推測される。そのような状態にあった玉島川の沖積低地に面して、谷口古墳、淵ノ上古墳、経塚山古墳のほか、五反田支石墓などの分布することも納得されるのであるが、しかし当時の玉島川が現在と同様に浜崎集落の東北端で唐津湾へ注いでいたか否かについてはなお検討を要する。上述の虹の松原砂丘の後背湿地の標高が、浜崎中学校北東側の農道で3.2m→虹ノ松原学園の南側で3.0m→虹ノ松原駅南側で2.0m→松浦川右岸の水田で1.0mと、明らかに東(玉島川)から西(松浦川)に向かって低下していることからみて、虹ノ松原砂丘で閉塞された玉島川が同砂丘の後背湿地を西流していたことも考えられる。

(b)松浦川左岸地域
虹ノ松原砂丘に相当する新砂丘列は、松浦川左岸(西側)の唐津市街地にも発達しており、そこでは唐津神社がのる砂丘となって東西(旧県立唐津西高校以西では北西方向)に連なってい。唐津神社はこの新砂丘の最高部(海抜ほぼ5m)に位置している。しかしこの新砂丘の南縁は市役所方面へ向かって一旦低下するものの、桜馬場遺跡などの弥生遺跡群がのる唐津線北側の旧砂丘列に接続することからみて、近世の唐津市街地は、新・旧砂丘からなる複合砂丘上に形成された城下町であったことがわかる。
新砂丘の形成が4〜5世紀ごろからの海面の再上昇に関係があるという一般的傾向をこの地域にもあてはめてみた場合、旧砂丘の後背湿地における地下水位を高め、水田化された湿地部分を一部では潟に戻したことも考えられる。そのことは菜畑遺跡の水田址をもつ縄文晩期包含層が、厚さ2〜3mに及ぶ暗灰色粘土質シルト層(沼沢性湿地堆積層?)によって地表面まで被覆されてしまったこととも矛盾しない。
なお松浦川の河口は、現在、唐津城の城山(満島山)の東側にあるが、築城以前には城山の西側にあり、今日の県立唐津東高校の所にあったことは地形的にも明らかである。
(井関弘太郎)