『翰苑』所引『後漢書』は謝承『後漢書』か

『翰苑』西南夷条について、タイトル通りの対校作業をしてみた。『翰苑』所引『後漢書』と范曄『後漢書』(百衲本)の両者はほぼ合致する。他書でここまで並行関係というのはあんまり見かけない。『翰苑』の他条も対校してみるのもある程度の価値はあるかもしれないが、福永晋三氏の言わんとする所の検証という意味では、かかる西南夷条での対校で十分その意図を達せられたものと判断する。

福永晋三氏は『翰苑』に引かれる編者名のない『後漢書』を謝承『後漢書』だとの所見を示されているが、一番上に掲げた「『翰苑』蕃夷部引書名一覧」と併せて考えれば、ほぼ成り立たないと言えよう。

仮に、それでも『翰苑』所引『後漢書』(編者名を冠しない)が謝承『後漢書』である可能性は捨てきれない!と言うのなら、それはそれで構わないかもしれない。なぜなら、范曄は自身の『後漢書』を編むに当たって謝承書をここまで忠実に引用しているという証左となり、ひいては范書倭伝に見える「邪馬臺國」も、いずれかの先行後漢書にそのようにあったとする主張を補強するものになるだろうから。

西南夷条のみでの対校ではあるが、一つ気になったことがある。それはいずれの引文にも李賢注が紛れ込んでいないということである。時折ではあるが、夾注が本文として紛れ込むことはある。2021/3/22のツイートで、

これには3つ考え方があるかと。
1.雍公叡が省いた
2.李賢注以前の范書だった
3.実は謝承後漢書だった!(つまり范曄が用いた衆家後漢書の一つ)
と書いたが、3は可能性が無くなったので、1か2ということになる。『翰苑』の成立が660で、李賢注が676である。雍公叡注はまだそれからずっと後になる。されば一部に言われるように、『翰苑』の注文も張楚金自身によるものとの推定も妨げられないことになろう。この推定に、より確信を持つためには他の引文についても対校してみることが幾許かの意義を持つのかもしれない。