晋寫本三國志呉志殘巻跋

白堅


〈原文〉
  右晋人書呉志虞翻陸績張温傳残巻、自翻傳權於是大怒之怒字始、至温傳臣遠境止、計八十行、行十四五字、有十六字者、中有蠹缺、餘存字一千九十許、以南監汲古閣武英殿諸刊本校之、異同凡三十有餘、刊本有誤、絶不可通、得此正之、信史眞義、乃大明白、張温傳便欲大構於丕、丕字諸刊本皆誤作蜀、此蜀字義不可通攷張温以黄武三年使蜀、是歳魏爲黄初五年蜀漢爲建興二年、黄初二年、魏以曹休等三道攻呉、權遣呂範等拒之、時揚越蠻夷多未平集、内難未弭、權曾卑辭上書、求自改悔、蜀漢先主以章武二年蹉跌於秭歸、還住白帝、權即遣使請和、以曹操父子陵轢漢室、終奪其位、責先主以宗室維城之義、先主有慙色焉、未幾先主崩於永安、後主嗣立、孔明執國政、志在討賊興復、無復東下之規、而呉亦釋西顧之憂、乃魏文帝丕、時則巡幸廣陵、臨江欲渡、當此之時、孫權處心積慮所欲大構者、不在蜀而在魏、彰彰明甚、故當温之將行、權謂温曰、卿不宜遠出、恐諸葛孔明不知吾所以與曹氏通意、故屈卿行、若山越都除、便欲大構於丕也、如各刊本作蜀、是使温於蜀、復將大構於蜀也、孜其已往、證之當時、驗之將來、皆無其情事、得此一字正之、於孫灌當日和蜀圖魏之策略、瞭然在心目間矣、至於大農劉基、八十行中凡再見、刊本皆誤作大司農、按大農者漢官名也、大司農者魏官名也、曹丕黄初元年、改大農爲大司農、當是之時、漢制爲呉所尊、魏制爲異所拒、魏徴任子、呉尚辭拒則棄其所尊而承其所惡者、必無是理也、故大司農之官、施諸魏人則可、施諸呉人則未可、著者於此極致謹巖、乃刊本則妄溷之矣、僅八十行殘破之餘、已能見信史眞義若此之多、儻獲全書而悉校之、不知可正者尚復何限、余爲西充産也、西充文獻、有史以來以陳壽氏爲最尊、茲何幸此書之誤、由余小子校正之、私幸何窮、願天下治三國志者、同正斯誤也、上虞羅雪堂、藏有元康年寫経、持以相校、風格姿態、正是同時、陳壽氏晋元康間人也、巻中有雌黄四處、想見當時雙校之精審、此巻出自新彊鄯善土中、今年秋至都、或曰、當是北凉時、講之中土藏之其地者、旦夕展觀、令人不知今世有蝸角蠻觸之爭、甲子冬十一月既望、西充白堅識於都門仲山甫才齋、


〈書き下し〉
  右晋人ノ書ス『呉志』「虞翻陸績張温傳」ノ残巻ハ、「(虞)翻傳」〔權於是大怒〕之怒字自(ヨ)リ始マリ、「(張)温傳」〔臣遠境〕ニ至リテ止ム、計八十行。行ハ十四五字カラ十六字有リ者。中ニ蠹缺有リ。餘存ノ字ハ一千九十許。南監汲古閣武英殿諸刊本ヲ以テ之ヲ校スルニ、異同ハ凡ソ三十有餘。刊本ハ誤有リテ、絶エテ通ズル可カラ不。此ヲ得テ之ヲ正ス。信史眞義、乃チ大ヒニ明白ナリ。張温傳〔便欲大構於丕〕、丕ノ字ヲ諸刊本ハ皆誤リテ蜀ニ作ル。此ノ蜀ノ字義ハ通ズ可カラ不。攷(カンガ)フルニ張温ハ黄武三年ヲ以テ蜀ニ使ヒス。是歳、魏ハ黄初五年ト爲ス。蜀漢ハ建興二年ト爲ス。黄初二年、魏ハ曹休等ヲ以テ三道ヨリ呉ヲ攻ム。(孫)權ハ呂範等ヲ遣ハシ之ヲ拒ム。時ニ越ノ蠻夷ヲ揚グルモ多クハ未ダ平集セズ。内難ハ未ダ弭(ヤ)マズ。(孫)權曾(カツ)テ卑辭ヲ上書シ、自ラ改悔センコトヲ求ム。蜀漢ノ先主ハ以テ章武二年、秭歸(長江北岸の地名)ニ於ヒテ蹉跌ス。還住シテ帝ニ白ス。(孫)權即チ遣使シ和ヲ請フト。以テ曹操父子ハ漢室ヲ陵轢(フミニジル)シ、終(ツヒ)ニ其ノ位ヲ奪シ、宗室維城之義ヲ以テ先主ヲ責ム。先主慙色有ラン焉(ヤ)。幾(イクバク)未(ナラ)ズシテ先主永安ニ於テ崩ズ。後主嗣ヒデ立チ、孔明國政ヲ執ル。志討賊興復ニ在リテ、復タ東下之規(ハカリゴト)無クシ、而シテ呉モ亦タ西顧之憂ヲ釋ク。乃チ魏文帝丕ハ、時ニ則チ廣陵ニ巡幸シ.、江ニ臨ミテ渡ラント欲ス。當ニ此之時、孫權ノ處心積慮シ大ヒニ構ヘント欲ス所者(ハ)、蜀ニ在不(ズ)シテ而(スナハ)チ魏ニ在ルコト彰彰明甚ナリ。故ニ當ニ温之將ニ行カントスルニ、(孫)權温ニ謂ヒテ曰ク、卿、遠出宜(ヨロシ)カラ不(ズ)。諸葛孔明、吾ガ曹氏與(ト)通意スル所以(ユエン)ヲ知ラ不ルヲ恐レ、故ニ屈シテ卿ヲ行カシム。若(モ)シ山越都(スベ)テ除ケバ、便チ大ヒニ丕於(ト)構フルコトヲ欲スル也。如(シカ)リテ各刊本蜀ニ作ル。是レハ温ヲ蜀於(ニ)使ワシ、復タ將ニ大ヒニ蜀於(ト)構フル也。其ヲ已往(過去)ニ孜(カンガ)ヘ、之ヲ當時ニ證シ、之ヲ將來ニ驗ス。皆、其ノ情事無ク、此ノ一字、之ヲ正スコトヲ得。孫灌ノ當ニ蜀ト日和リ、魏之策略ヲ圖ルニ於ヒテ、瞭然タルモノ心目ノ間ニ在ル矣、至於大農劉基、八十行中ニ凡ソ再見ス。刊本皆誤リテ大司農ニ作ル。按ズルニ大農者(ハ)漢ノ官名也。大司農者(ハ)魏ノ官名也。曹丕ノ黄初元年、大農ヲ改メ大司農ト爲ス。當ニ是之時、漢制ヲ爲スハ呉ノ尊ブ所ニシテ、魏制ヲ爲スヲ拒ム所ト異ル。魏ハ任子ヲ徴スモ、呉ハ尚、辭シテ拒ム。則チ其ノ尊ブ所ヲ棄テ而シテ其ノ惡ム所ヲ承ゲバ、必ズヤ是レ理ノ無キ也。故ニ大司農之官、諸魏人ノ施(シ)クハ則チ可ナリ。諸呉人ノ施クハ則チ未ダ可ナラズ。著(述)者(ハ)此ニ於テ極致謹巖ニシテ、乃チ刊本ハ則(タダ)妄溷(乱れ濁ること)之矣。僅カ八十行ノ殘破之餘、已ニ能ク信史眞義此クノ若ク之(コレ)多キヲ見ル。儻(モ)シ全書ヲ獲テ而カシテ悉ク之ヲ校セバ、正ス可キ者尚復タ何クンゾ限リアルヲ知ラ不(ズ)。余ハ西充(四川省ノ地名)ノ産ト爲ス也。西充ノ文獻、有史以來陳壽氏ヲ以テ最尊ト爲ス。茲ニ何ノ幸アリテカ此ノ書之誤、由リテ余ノゴトキ小子、之ヲ校正スルハ、私ノ幸何ゾ窮(キハ)マム。天下ニ三國志ヲ治ムル者、斯(カ)クノ誤ヲ同ジク正スコトヲ願フモノ也。上虞(浙江省ノ地名)ノ羅雪堂(蔵書家名)、藏シテ元康年ノ寫経ヲ有ス。持ッテ相校スルヲ以テ、風格姿態、正ニ是ト同時ナリ。陳壽氏ハ晋ノ元康間人也。巻中ニ雌黄(詩文ノ語句を改めること)四處有リ。想フニ當時ノ雙校之精審ナルヲ見ル。此ノ巻ノ出自ハ新彊鄯善ノ土中ナリ。今年ノ秋、都ニ至ル。或ヒハ、當ニ是北凉時ト曰フ。之ヲ講ズルニ、中土(中国)之ヲ藏スル其ノ地者(ナレ)バ、旦夕展觀シ、人ヲシテ今ノ世ニ蝸角蠻觸之爭(つまらない争い)有ルヲ知ラ令(シ)メ不(ザ)ルナリ。甲子(1924)冬十一月ヲ既ニ望ム。西充ノ白堅都(城)門仲山甫才齋ニ於ヒテ識(シル)ス。


〈口語意訳〉
  右晋人の書寫した『呉志』「虞翻陸績張温傳」の残巻は、「虞翻傳」〔權於是大怒〕の怒字より始まり、「張温傳」〔臣遠境〕に至って終わる、計八十行。行は十四五字から十六字である。中に虫食いがある。残っている文字は一千九十ほど。「南監本」「汲古閣本」「武英殿本」の諸刊本を以てこれを校定すると、異同は凡そ三十ばかり。刊本には誤があり、決して意味が通じない。これ(呉志残卷)を得てこれ(刊本)を正す。信頼できる歴史、本当の文義が大いに明らかになる。張温傳〔便欲大構於丕〕の丕の字を諸刊本は皆誤って蜀に作っている。この蜀の字義は意味が通らない。考えると張温は黄武三年に蜀に使する。この年、魏は黄初五年である。蜀漢は建興二年である。黄初二年、魏は曹休等を以て三道から呉を攻めた。孫權は呂範等を遣わしてこれを拒んだ。その時、越の蠻夷を揚げようとするも多くは未だ平定参集しない。国内の困難は未だ止まない。孫權はかつて卑下して上書し、自ら改悔することを求めた。蜀漢の先主は以て章武二年、秭歸(長江北岸の地名)において蹉跌したことがある。還って帝に奏上した。孫權は即ち遣使して和を請うていると。以て曹操父子は漢室を踏みにじり、ついに帝位をを奪い、宗室維城の義を以て先主を責めた。先主は慙じる気持ちがあったのだろうか、ほどなく先主は永安に於いて崩じた。後主が嗣いで立ち、孔明が國政を執った。賊を討ち漢室を復興する志があって、また東下(呉への)計略もなくし、そうしてまた呉も西顧(蜀)への憂も解けた。そして魏文帝丕は、この時廣陵に巡幸し、江に臨んで渡ろうと欲した。まさにこの時、孫權の心に思い募って、大いに構えようとしていたのは、蜀に非ずして魏であることは明々白々である。ゆえにまさに張温のまさに行こうとする時、孫權が張温に云ったのは「卿(張温)は遠出には向いていない。諸葛孔明は、私が曹氏と通意する所以(ゆえん)を知ないことを恐れ、だから屈して卿(張温)を行かせたのだ。もし山越(呉を悩ませた異民族)をすべて除けば、すなわち大いに丕と構えることを望んでいる」と。しかるに各刊本は蜀に作る。これは張温を蜀に使わし、それでいてまさに大いに蜀と構えるということである。その点を過去に考え、當時に照らし、また將來について考えると、皆、その事情がない。この一字でこれを正すことができる。孫灌が當に蜀と日和リ、魏の策略を図っていること、瞭然たるもの心目の間にある。〔大農劉基〕に至っては、八十行中に凡そ二度見える。刊本は皆誤って〔大司農〕に作っている。思うに大農は漢の官名である。大司農は魏の官名である。曹丕の黄初元年、大農を改め大司農とした。當にこの時、漢制を爲すは呉の尊ぶ所であって、魏制を爲すを拒む所とは異る。魏は任子を召すが、呉はなお、拒否した。則ちその尊ぶ所を棄てて、その惡(にく)む所を承けつげば、必ずこれは理が無いということになる。故に大司農の官は諸魏人が施(し)くとするのはよいが、諸呉人が施くとするのは則ち未だできない。著述はここにおいて極致謹巖であり、つまり刊本はただ乱れ濁るのである。僅か八十行の断片であるが、已によく信史眞義のこのように多いものであることを見る。もし寫本の全てを得て、それによって悉く校勘をすれば、正すべきところがなお、またどれくらい際限のないものであるかを知らない。私は西充(四川省の地名)の生まれである。西充の文獻においては、有史以來陳壽氏を以て最も尊いものとする。ここにどういう幸運かこの書(陳寿の三國志)の誤を、私のような小人が校正するというのは、私の幸運極まりないところである。天下に三國志を学ぶ者は、かかる誤を同じように正すことを願うものである。上虞(浙江省の地名)の羅雪堂(蔵書家名)は、元康年間(291-299)の寫経を所藏している。それを以て相校(あいくら)べると、風格姿態、正にこれと同じ時代である。陳壽氏は晋の元康年間の人である。巻中に雌黄(詩文の語句を改めること)四カ處有る。想うに當時の雙校の精審であることが窺える。この殘巻の出自は新彊鄯善の土中である。今年の秋、都にもたらされた。あるいは、當にこれは北凉時代(397-439)のものと云う。中国はこれを蔵していたその土地であるから、朝夕展示して、人をして今の世に蝸角蠻觸之爭(つまらない争い)の有ることを忘れさせようと図るものである。甲子(1924)冬十一月を既に望む。西充の白堅、都(城)門仲山甫才齋に於いて識す。


『支那学』第3巻第11号82~83頁/1925年8月より転載。

  白堅:字は堅甫、四川四充の人で、早稲田大学に留学し、帰国後は官吏となるが、師範学院教員をも兼任し、金石書画に趣味のある文人として知られる。この「呉志残卷」は王樹枏が1924年以前に吐魯番で入手したものが一旦日本人の手に渡り、再び白堅に買い戻された。白堅は1925年、影印として印行し、上記「跋」はそれに記されたものである。その後再びこの残卷は日本人・武居陵蔵氏の所藏となり、1935年わが国で改めて印行された。この残卷の最初の10行は中村不折氏の書道博物館に、また残りは神戸の武居氏のもとに所蔵されるに至ったという。『立正大学 文学部論叢』62号/昭和五十三年十二月、35~57頁所収、大川富士夫氏「『古本三国志』をめぐって」より抄出。