古田説をめぐって 「短里」

古田説をめぐって「短里」(1)

2004/ 5/23 23:53
メッセージ: 4710 / 5631

古田説を極めて簡単に紹介するとすれば、「魏志倭人伝」に記された「邪馬壹国」とは「博多」にあり、その後7世紀後半に至るまで、列島を代表して中国と通交していたのは、九州島の王権すなわち「九州王朝」だった・・・というものです。

もちろん、「建武中元二年」の「漢委奴国王」はその魁となるもの。

その「古田説」を支える論拠の一つに「短里説」があります。もう少し詳しく書くと「魏晋朝短里説」といいます。

古田氏とは「不倶戴天の論敵」安本氏も実は「短里説」を採っておられます。こちらは「魏志韓伝・倭人伝」中のみでの「地域限定短里説」です。

古田氏がそのデビュー作「邪馬壹国」を「史学雑誌」七八−九に発表されたのが昭和44年9月。その「邪馬壹国」はそのタイトルからも分かるように、「魏志倭人伝」に記される国名「邪馬壹国」にスポットを当てて「邪馬臺国の誤」とする従来説を排したものでした。ですから、ここでは当然「短里」は取り上げられていません。

その後、昭和46年に出された第一書「『邪馬台国』はなかった」で「短里」について書かれています。

一方の安本氏は昭和42年10月刊の「邪馬台国への道」の中で、「『倭人伝』の一里は・・・」という項目を設けて、どうやら「短里」なるものが存在したらしいことを述べています。そして「『邪馬壹国』はなかった」141頁で「プライオリティを、一応主張してもよいであろう」と述べられているとおり、安本氏の方が先行しています。

この「古田・安本論争」の中で「短里」については延々と論争が繰り広げられていますので、ご紹介してゆきたいと思います。

明日も早いので、本日はこれにて・・・。

古田説をめぐって「短里」(2)

2004/ 5/24 22:49
メッセージ: 4718 / 5631
古田氏、安本氏とも「魏志韓伝・倭人伝」での「短里」については「あった」とする立場です。

違うのは、中国本土で「短里」が用いられていたかどうかという点にあります。古田氏は「用いられていた」といい、安本氏は「なかった」とします。

その一例が「天柱山」のケース。


すみません、猛烈に眠くなりましたので、つづきは明日ということで・・・。

古田説をめぐって「短里」(3)

2004/ 5/25 22:31
メッセージ: 4736 / 5631
>天柱山

「邪馬壹国の論理」223頁。
(二)つぎに「十里代」でありながら、例外的に「明晰な実距離」を指定しうる例として、次の文がある。
【成遂将其衆就蘭転入潜山潜中有天柱山高峻二十余里道険狭歩径裁通蘭等壁其上】
(hy注:原文に直した)

〜中略〜その天柱山の高さが「二十余里」だというのである。

と述べられる。この「天柱山」というのは、海抜1860メートル。「魏晋朝の短里」ならピッタリ一致するというのである。

さて、これに対する安本氏の反論。

この「高峻二十余里」というのは、道のりのことである。山の高さではない。それに続く文が「道険狭歩径裁通(道険しく狭く、歩径わずかに通す)」とあるように、高く険しい道が「二十余里」も続く・・・という意味であろうと。白崎昭一郎氏も同じ考えである。

これに対する古田氏の反論が「東アジアの古代文化1979年・秋号」に掲載された。

古田説をめぐって「短里」(4)

2004/ 5/25 23:12
メッセージ: 4742 / 5631
「東アジアの古代文化」1978年秋号(#4736で「1979年秋号」としたのは、安本氏の「『邪馬壹国』はなかった」147頁からの引用だったが、これは誤植。訂正しておく)で、古田氏は「道のり」の表記法の例を挙げて反論する。

「山立に随って上ること四五里」
「谷に入りて行くこと数百里」(「魏志九」)
「尚、上庸より道を通り、西に行くこと七百余里」(同上)
「山険に縁りて行き、二千里になんなんとす」(「呉志十五」)
このように表記するのが陳寿の常。天柱山の場合も、もし「道のり」なら、当然「山道を行くこと二十余里」「高きに登ること二十余里」といった文形で書くべきです。

これに対する安本氏の再販論(「『邪馬壹国』はなかった」148頁)。

古田氏が、ここにあげられた文例中の「里」は、ふしぎにも、ことごとく「道のり」を示している。そして、じつは、ここにあげたもの以外の、160をこえる『三国志』中にあらわれる「里」も、問題の、「天柱山」についての文章をのぞき、みな、地表にそった距離を指している。山の直高を示している文例は、一つもない。「里」が、「直高」をあらわすというのなら、「直高」を示す例をあげなくては、主張にも反論にもならない。

いかがであろうか?

「東アジアの古代文化」17号の古田氏の反論は続くが、これまた上記同様、墓穴ものなのである。つづきはまた、明日。

古田説をめぐって「短里」(5)

2004/ 5/26 22:51
メッセージ: 4749 / 5631
「天柱山高峻二十余里」について、さっそく「天誅君大先生」と「mkpo33」さんから、「標高(すなわち、山の高さ)とは読めない」というご見解を頂戴致しました。

それでは「古田派」の方からのご意見を頂戴したいと思いますので、よろしくお願い致します。

ひとつお断りをしておきます。この「短里シリーズ」で私は、「短里のあるなし」について述べようというのではありません。「短里」を巡っての「古田・安本論争」を見てゆく中で、「論理論理」と云われる古田氏の「論理」なるものが、いかなるものかを諸兄にご紹介するのが本旨であります。

古田説をめぐって「短里」(6)

2004/ 5/26 23:26
メッセージ: 4753 / 5631
さて、(4)で古田氏が「里」の例をあげての反論を紹介したが、そのつづきを・・・。

これに対し、陳寿は他の場所でも、「山の高さ」そのものを書いています。
 林歴山(山名)、四面壁立し、高数十丈。径路危狭、刀楯を容れず。(『呉志十五』)
これも、「山道を行くこと」とか、「高きに登ること」といった「道のり」表記ではありませんから、やはり文字通りの「高さ」です。(『東アジアの古代文化』1978年秋=17号。139頁)。

賢明なる諸兄は安本氏がいかなる反論をなされたか、すでにお察しのことと思う。

古田氏があげた「丈」は確かに「高さ」を示す。ではなぜこれが「里が山の高さを示す」根拠となるのか?

「邪馬壹国の論理」の中(32〜33頁)で、古田氏は市村其三郎氏に反論してこう書かれる。

A 寸→尺→丈
B 歩→里

この二つは、本来別種の長さの単位なのである。

古田氏が先に挙げた「丈」の例からいうと、「天柱山」の「高峻二十余里」というのは、明らかに「高さ」ではない。古田氏自身がそう説明している。

安本氏への反論の結びとして古田氏は次のように述べられる。

以上のような三国志の表記様式の検査を実地に行わず、「『道のり』である可能性」といった、”筆先の処理”ですまそうとされたところに、反論としては一種の”手抜き”があったたのではないか。そう惜しまれます。

「可能性」を挙げられたのは他ならぬ古田氏自身である。「里」が「高さを表す例」を示さず(ないのだから、示すこともできない)、「丈」を持ってきて、「可能性」を匂わせる。その上の、上記のような書きぶりである。笑止千万!

古田説をめぐって「短里」(7)

2004/ 5/29 23:11
メッセージ: 4801 / 5631
すでに別のトピで書いてしまったが、「介山」の例、すなわち、

『漢書』第六巻「武帝紀」「太初元年夏四月」
【詔曰朕用事介山祭后土皆有光応】に注して、
【文穎曰介山在河東皮氏県東南其山特立周七十里高三十里】

とする記事について出所を書いておく。『文化評論』No.228/1980年4月号/186頁〜「邪馬壹国の証明」。これは菅野拓氏の教示によると古田氏は書かれている。

文穎というのは、三世紀後漢末から魏にかけての人。「介山」の記事は『漢書』中のものだから、古田氏によれば「漢長里」だが、この「介山」の高さが「短里」と見られるのは、文穎が「後漢〜魏」の人だからという。

さて、どうなんだろう?

古田説をめぐって「短里」(8)

2004/ 5/30 0:00
メッセージ: 4802 / 5631
話を少し前に戻す。

「天柱山」の例を挙げたが、これは古田氏の『邪馬壹国の論理』30頁〜に挙げられている「五証の弁証」のひとつ。


「五証の弁証」とは、魏晋朝明らかに「短里」によって記録されたと見られる五ヶ所の記述のことである。
(1)潜中、天柱山有り。高峻二十余里。
(2)対海国に至る・・・又南、一海を渡る、千余里。名づけて翰海と曰う。一大国に至る。
(3)A 江東、小なりと雖も、地方千里。(『史記』項羽本紀ほか)
B 江東に割拠す、地方数千里。(『呉志九』
(4)南、零・桂を収め、北、漢川に拠る。地方数千里。(『魏志』六、劉表伝)
(5)韓は帯方の南に在り。東西、海を以て限りと為し、南、倭と接す。方四千里なる可し。(『魏志』三十、韓伝)

さて、このうち(2)と(5)については、安本氏も賛意を表されている(『東アジアの古代文化』1979年夏号/106頁〜)。安本氏も「短里」そのものについて否定されているわけではない。『魏志』の「韓伝・倭人伝」についてみられるようだ・・・という立場である。

引き替え、古田氏は「魏晋朝(正しくは魏・西晋朝)短里」の立場である。したがって、中国本土において「短里」の認められるかどうかが、両者の立場を激しく隔てている。

古田説をめぐって「短里」(9)

2004/ 5/30 0:18
メッセージ: 4803 / 5631
さて、「五証の弁証」のうち(2)(5)については安本氏も異論はない。(1)「天柱山」については、明らかに古田氏の論理のほうが説得力に乏しい。

「五証の弁証」のうち残るは、
(3)A 江東、小なりと雖も...
(4)南、零・桂を収め、,,,

の二つである。これについては当然ながら、安本氏の反論がある。これを紹介してゆく。

古田説をめぐって「短里」(10)

2004/ 6/ 1 22:30
メッセージ: 4833 / 5631
「五証の弁証」のうち(3)-Bについて。

これは『呉志』巻九「周瑜伝」に見える、

【割拠江東地方数千里】

という記事のことで、すでに古田氏の第一書「『邪馬台国』はなかった」189頁に紹介されている。

これに対して『邪馬壹国の論理』31頁で、
(3)Aとして、「江東、小なりと雖も、地方千里」として、『史記』「項羽本紀七」の、
【謂項王曰江東雖小地方千里】
との比較をしている。

同じ「江東」を『三国志・呉志』では「数千里」とし、『史記』では「千里」とする。その上で古田氏は、

ところが、その同じ江東を陳寿は「方数千里」(方五、六千里)と記している。明らかに漢長里の五、六分の一の里単位に立っていることを意識し、ここに明示しているのである。

と述べられる。これについての安本氏の反論。

古田説をめぐって「短里」(11)

2004/ 6/ 8 23:46
メッセージ: 4875 / 5631
「五証の弁証」のうち(3)-Bについて。これは『呉志』巻九「周瑜伝」に見える、【割拠江東地方数千里】のことであるが、この「江東地方数千里」を、『史記』「項羽本紀七」では「地方千里」と記されている。同じ「江東」が片や「数千里」で片や「千里」。

古田氏はここで「数=5〜6」と解釈される。例を挙げる。『邪馬壹国の論理』31頁、

ところが、その同じ江東を陳寿は「方数千里」(方五、六千里)と記している。明らかに漢長里の五、六分の一の里単位に立っていることを意識し・・・

安本氏は、この古田氏の言説に対して有効な反論をすでに示された白崎氏の見解をまず紹介し、それに安本氏自身の見解を付け加えている(『「邪馬壹国」はなかった』P156-/「数千里」は、「五・六千里」なのか)。

さて、その白崎氏の見解とは何か?

白崎昭一郎氏と言えば、北陸在住(現在も?)の医師であり著名な古代史家でもある。

白崎氏は「東アジアの古代文化8号/1976年春」に「邪馬臺国論争は終わっていない−古田武彦氏に答える−」165頁〜という一文を寄せられた。これは、同誌6号/1975年秋に書かれた古田氏の「九州王朝の論理性−白崎昭一郎氏に答える−」への反論である。

古田氏の一文のタイトルからも分かるように、これはまた白崎氏が同誌5号/1975年初夏に書かれた「二つの九州王朝説」という分に対する反論となっている。この「二つの〜」というのは、井上秀雄氏と古田武彦氏とを併せて取り上げておられるのだが、主に古田氏の所説に対する疑問・反論の趣が濃い。

この1975年というのは、古田氏の第二書「失われた九州王朝」が出版された二年後にあたり、「古田説」の波紋が拡がり始めた時期ではないかと思う。

前置きが長くなってしまったが、白崎氏の唱えるところを以下紹介したいと思う。

古田説をめぐって「短里」(12)

2004/ 6/ 9 23:16
メッセージ: 4877 / 5631
以下、「東アジアの古代文化」は号数のみで表す。先に紹介した三本を列挙する。

「5号」・・・白崎「二つの九州王朝説」
「6号」・・・古田「九州王朝の論理性−白崎昭一郎氏に答える−」
「8号」・・・白崎「邪馬臺国論争は終わっていない−古田武彦氏に答える−」

このうち、当面の問題である「数千里vs千里」について触れているのは白崎氏の「8号」である。同誌174頁、

 <<第三例、これは呉の周瑜が、曹操の大軍の南下を目前にして、呉主孫権を励ます言葉の中にある。その前後の文を見てみよう。
  将軍、神武の勇才をを以て、兼ねて父兄の烈に仗り、江東に割拠す。地方数千里、兵精しく用ふるに足る

これによってみれば、この「方数千里」が当時の呉の全版図を指していることは明らかである。古田氏は、史記・項羽本紀の「江東小なりと雖も地方千里」と対比されているが、「江東」なる行政区域があるわけでないから、時代によって伸縮することは当然であろう。当時の呉の領域は長里で二千里平方くらいと推定される。二千里を数千里というのは誇張と見られるかも知れないが、呉主や列将の志気を昂めるための言葉とすれば、敢えて異とするには足りまい。若しこれを短里とすれば呉の領域として甚だ過小である>>

「江東」という固定した範囲があるわけではないから、「数千里」と「千里」との比較には意味がない、という主張である。

古田説をめぐって「短里」(13)

2004/ 6/10 22:42
メッセージ: 4878 / 5631
つづいて白崎氏は「8号」において「五証の弁証」の(四)について批判を加える。

この「五証の弁証」の(四)とは、「魏志六・劉表伝」の以下の記事である。すなわち、

【表遂攻并懌南零桂北拠漢川地方数千里】

である。古田氏はこれについて『邪馬壹国の論理』の31頁で次のように述べられている。

<<ここでも、荊州(湖南省のあたり)を「方数千里」と言っている。漢長里でこの表記なら、中国全土にまたがる広大な面積となる。(『「邪馬台国」はなかった』一九三頁図参照)したがって短里にもとづくこと、明白である。>>

白崎氏の反論。

<<(四)の劉表伝の文も、劉表の最大版図を示すものであることは明らかである。劉表の勢力が荊州のほぼ全域を蔽ったことは、魏志一の献帝の詔の「百城八郡」の語から確実である。後漢代の荊州は、現在の湖北・湖南両省に河南省の一部を加えた広大な地域で、南北約三千里、東西約千五百里と考えられる。これを方数千里と表現したことは、ややオーバーのようでもあるが決して不条理ではない。反対に若しこれを短里とすれば、荊州のごく一部を指すにすぎなくなり、直ぐ前の「零(零陵)桂(桂陽)を収め」の語句とも矛盾することになる。なおまた蜀志諸葛亮伝らに引かれた『献帝春秋』によれば、「劉表、諸葛玄を上して予章の太守となし、南昌に治せしむ」とあるので、南昌も一時は劉表の勢力下にあったようである。若しこれを認めれば、劉表の版図は東西二千里を超え、方数千里はいよいよ適切なものとなってくる。>>

古田説をめぐって「短里」(14)

2004/ 6/11 0:00
メッセージ: 4879 / 5631
ここで古田氏の新たに発見されたという短里例を併せて紹介する。その後、ここで問題となっている「数」の意味について述べる。

安本氏『「邪馬壹国」はなかった』156頁からの孫引きになるが引用する。

<<古田氏は、述べられる。「昔、管仲、桓公に親射し、後に幽州せられ、魯の檻車によりて載せらる。少年をして挽きて斉に送らしむ。管仲、桓公の必ず己を用うるを知り、魯の侮を懼る。少年に謂いて曰く『吾、汝が為に唱わん。汝、和を為せ。声、声に和し、宜しく走るべし。』と。是において管仲、之を唱う。少年走り之に和す。日行数百里、宿昔(わずかの間)にして至る。(『魏志』十九、裴注)
これは三国志との深い関係で有名な『魏略』の文です。管仲が入れられた檻車を少年が挽き、一日に『数百里』(=五・六百里)行った、というのです。これが『長里』なら大変です。『二一七〜二六〇.七』キロを、檻車をひっぱって一日で行くなど、いかに大力の少年でも、到底無理ではないでしょうか。明らかに『短里』(『三七.五〜四五』キロ)です。>>

この例を「管仲の文例」と安本氏は名づけて、先の「五証の弁証」(三)、(四)とあわせて取り上げている。もちろんその主旨は、先に述べた通り「数」の解釈についてである。

「管仲の文例」にも見えるように、再三古田氏は「数」を「五・六」として解釈を試みている。これは正しいのか?

白崎氏、安本氏の反論を見てゆくことにしよう。

古田説をめぐって「短里」(15)

2004/ 6/11 23:18
メッセージ: 4881 / 5631
「五証の弁証」(三)(四)、それに「管仲の文例」の3つのケースについて。すなわち「数百」とか「数千」とかいう「数」というのは具体的にどれくらいの数値を表しているのか?

古田氏はこの「数」を「5〜6」と捉える。この考えは正しいのか?白崎氏の反論を見る。白崎昭一郎『東アジアの中の邪馬臺国』156頁〜。

<<「余」と同様、「数」も『三国志』の中に数多く用いられているが、その具体的数値を知りうる例は、ごく僅かしか存在しない。---(孫)権、周瑜・程普等水軍数万を遣わし、先主と力を并せ、曹公と赤壁に戦ひ、大いにこれを破り、その舟船を焚く。(蜀志二・先主伝)
有名な赤壁の戦いの描写であるが、このとき周瑜らに率いられた呉軍の数が三万であったことは「周瑜伝」や「諸葛亮伝」の記載によって明らかである。すなわちこの場合の「数万」は三万を意味している>>

続いて「周瑜伝」にみえる「数十艘」が実は「十艘」である例。

また「蜀志二先主伝」の「歩率数万人」がその後の記事「先主、軍を并せて三万余人」から、増兵する前の「数万」は「二万」程度であったろう。

「魏志二十八毋丘倹伝」の「中軍及び倹等の衆数万」については、「魏志明帝記」に明記してあり「四万」。

また逆に、「三国志」には「五、六百人」「五、六千騎」「五、六歳」などの表現が多く見られるという。

すなわち古田氏が「数千」「数百」の「数」を「五〜六」と見るのは根拠に乏しいとの指摘をしている。

古田説をめぐって「短里」(16)

2004/ 6/11 23:40
メッセージ: 4882 / 5631
続いて安本氏の反論。『「邪馬壹国」はなかった』159頁〜。

<<(1)「魏志」東夷伝は、馬韓について、「すべてで五十余国、大国は万余家、小国は数千家、総十余万戸」と記す。五十余国で、十万余戸であるから、小国の「数千家」の「数」は、「一、二」ていどでないと、計算があわない。古田氏のように、「数」を「五、六」とすれば、馬韓の総戸数は、小国のみで成立しているとしても、二十五万戸〜三十万戸余となる。大国は「万余家」とあるから、さらに、それを上回ることとなる。十余万戸と、まったく計算があわない。>>

これは白崎氏も指摘していることだが、「十余万戸」を国の数「五十」で割ると「二千」。大国もあるのだから、小国の戸数はそれ以下となる。ここでいう「数」というのは「一〜二」の意味と捉えるしかない。

ではなぜ古田氏は「数」を「五〜六」であると主張されるのか?理由は他にはない。

古田説をめぐって「短里」(17)

2004/ 6/13 0:16
メッセージ: 4892 / 5631
ではなぜ古田氏は「数」を「五〜六」であると主張されるのか?理由は他にはない。氏の想定される「短里」といわゆる「長里」とが約5〜6倍の開きがあるからである。もちろん古田氏は「数」について一二の例を挙げてはおられるが、白崎・安本両氏によって例示されたように、「数」とは「一二」辺りの数を示す場合も多々ある。古田氏のように「五〜六」に固定するのは、恣意的の誹りを免れないだろう。

安本氏は「20号」で、「中国が破裂する」という項目を立てて、古田氏の矛盾を指摘している。

<<司馬遷の『史記』では、長里が用いられている。古田氏も、「魏晋朝短里説」をとなえておられるだけで、『史記』短里説までは、となえておられない。
次の文章を見ていただきたい。
「今、楚の地は方五千里」(『史記』「楚世家」「蘇秦列伝」および「平原君虞卿列伝」
「趙の地、方二千余里」(「蘇秦列伝」)
「斉の地、方二千余里」(「蘇新列伝」)
「敵国(呉国)、狭しといえども、地、方三千里」(呉王劉[シ鼻]伝)>>

古田氏の考えをもってすれば、「楚」一国ですでに「中国全土」を覆い尽くすことになる。そのうえ「斉」「趙」の地も合わせると、古田氏が「12号」159頁で掲示された「方数千里図」は、「偽り」と言うことになる。

これすなわち、古田氏が「数」を「5〜6」と解釈することから生ずる「無理」であって、「数」はそれほど大きな数ではないことが窺い知れる。

古田説をめぐって「短里」(18)

2004/ 6/13 22:35
メッセージ: 4901 / 5631
ここで「五証の弁証」について再掲しておく。『邪馬壹国の論理』30頁〜。

「五証の弁証」とは、魏晋朝明らかに「短里」によって記録されたと見られる五ヶ所の記述のことである。
(1)潜中、天柱山有り。高峻二十余里。
(2)対海国に至る・・・又南、一海を渡る、千余里。名づけて翰海と曰う。一大国に至る。
(3)A 江東、小なりと雖も、地方千里。(『史記』項羽本紀ほか)
B 江東に割拠す、地方数千里。(『呉志九』
(4)南、零・桂を収め、北、漢川に拠る。地方数千里。(『魏志』六、劉表伝)
(5)韓は帯方の南に在り。東西、海を以て限りと為し、南、倭と接す。方四千里なる可し。(『魏志』三十、韓伝)

このうち「韓伝・倭人伝の短里」については安本氏も認めている。というより、安本氏のほうにプライオリティがある。問題は(一)(三)(四)である。これに、先に挙げた「管仲の文例」と併せて白崎・安本両氏の反論を紹介した。

安本氏は『「邪馬壹国」はなかった』の中(162頁〜)で、=「五証の弁証」の崩壊=という見出しで、古田説の論理的破綻を明らかにしている。長くなるが、紹介しよう。

<<ここで、古田氏の、「五証の弁証」が、成立しえないという「疑いなき証拠」を示しておく。以下の点は、とくに重要なので、十分に検討してみていただきたい。
 そもそも、古田氏が、「五証の弁証」であげられた事例が、「主観的な解釈の介入する余地はない。」のなら、なぜ、それに疑問をはさむ人が、すくなからずでてくるのか。というよりも、『三国志』の「里」について、ややくわしく論じた人のほとんどが、賛同しないのはなぜなのか。
 古田氏にうかがう。「『天柱山』の文例中の『里』の『解釈』について、私たちは、古田氏に、疑問をいだいた。すなわち、古田氏は、それを、『山の高さ』を示すと解釈し、白崎氏や私は、『道のり』と解釈した。では、私たちがいだいた、その疑問(『道のり』という『解釈』)は、『主観』に属するのか、『客観』に属するのか。それが、『主観』に属するのならば、そのような『主観』による解釈が成立しうる以上、『主観的な解釈の介入する余地はない。』という古田氏の命題が否定される。『客観』に属するのならば、古田氏の『解釈』そのものが、否定される。」
 「明確」でないものを「明確」として議論をすすめれば、あとの議論の、すべてがおかしくなる。古田氏が、「古田氏の解釈(『直高』とする解釈)には、主観的な解釈の介入する余地はない。』とする、論理学上の「不当仮定の虚偽」をおかしておられるため、ここで私が述べたような論理上の「矛盾」がでてくるのである。(中略)古田氏は『邪馬壹国の論理』の冒頭で、たからかにうたっておられる。“論理の導くところへ行こうではないか。−−−たとえそれがいずこへ至ろうとも”
 そして、「論理の導くところ」、それは、古田氏の「魏晋朝短里説」の崩壊である。>>

古田説をめぐって「短里」(19)

2004/ 6/14 23:56
メッセージ: 4911 / 5631
さて、ここまで「短里」を巡って、古田vs安本・白崎の論争を見てきたが、実のところ安本氏、白崎氏、「反古田説」では一致しているものの、この「短里」については意見が一致しているわけではない。

まず安本氏は、以前にも述べたとおり「魏志韓伝・倭人伝」部分について「短里はあった」とする立場である。それは安本氏が、「韓伝・倭人伝」に記された里数と実際の地理とを比べて得られた仮説だった。しかし、古田氏の主張の仕方に比べると控えめである。昭和42年10月、筑摩書房から出された「邪馬台国への道」138頁から145頁にかけて、穏やかな文体で書かれている。そして、<<この記述は、邪馬台国が九州であることをはっきりと指示している>>と書いて、この項を締めくくっている。

一方の白崎氏は、安本氏に比べると「短里」そのものに懐疑的である。「8号」「邪馬臺国論争は終わっていない−古田武彦氏に答える−」の178頁で、以下のように述べる。

<<韓国の一辺を四千里とした為に、帯方・狗邪韓国間の距離も七千里とせざるを得なかった(古田氏は帯方・狗邪韓国間は水行なら九千里程になる筈だと言われるが、金海は韓国の東南隅から約七十キロ西寄りであることを忘れているらしい)。更にこれに応じて、倭人伝中の里程値も次々に作られて行った。それらはたしかに、五、六倍の誇張値ではあるが、相対的な比率としてはほぼ均衡を保っていると言えよう。>>

そして白崎氏は「卑弥呼の墓」についても言及する。
<<百余歩とは約百五十米にあたる値であるが、倭人伝中の里程がすべて五、六倍の誇張である以上、やはり長さの表現としてこれも同様の誇張である可能性がある。従って卑弥呼の墓の径は三十米前後と考えられる。ただし韓国面積の誇大値に合わせる必要のない墓の径は、実数値であるとも考えられるが、三世紀半ばの墓の径としてはやはり前者の方の蓋然性が高いように思われる。私は古田氏と全く考え方の筋道を異にしながら、卑弥呼の墓の問題に関しては同じような結論に達した。卑弥呼の墓は恐らく径三十米程度のマウンドを以て、今も静かに眠っているであろう。>>

「8号」の1976年と言えば、原田大六氏がその著「卑弥呼の墓」の中で「箸墓」を「卑弥呼の墓である」と断ぜられる一年余の以前である。考古学者でもない白崎氏が、<<三世紀半ばの墓の径としては>>として小規模な墳墓を想定せざるを得なかったのは無理からぬことかも知れない。

古田説をめぐって「短里」(20)

2004/ 6/16 23:38
メッセージ: 4934 / 5631
「反古田説」では歩調を同じくする安本・白崎氏にあって、単に「短里」についての考えは、違いがあることを紹介した。

今回は「古田説」についてのシリーズであるから、「古田説vs反古田説」という視点から古田氏を巡る論争を紹介してゆくつもりなので、本題に戻る。

「五証の弁証」を最初に取り上げたが、実は古田氏の第一書では魏晋朝の短里を検定するための挙例の条件として二つを挙げられる。
(1)現代の地図にも確認できる「二定点間」であること。
(2)その距離が「千里以上」であること。

そしてその例としてあげられたのが『三国志』全159個(?)の「里」のうち、もっとも上記の条件を満たすのは以下の二例であるとする。すなわち、
(一)韓は帯方の南に在り。東西海を以て限りと為し、南、倭と接す。方四千里なる可し。<魏志三十、東夷伝中の韓伝>
(二)永安六年、蜀、魏に并さる。武陵五谿の夷蜀と界を接す。時論其の叛乱を懼れ、乃ち牧を以て平魏将軍と為し、武陵の太守を領せしむ。この郡に往く。・・・即ち所領を率ゐ、晨夜道を進み山険に縁りて行き、二千里に垂んとす。<呉志十五、鐘離牧伝>

これに対しての白崎氏の「8号」での反論。

まず、(一)は問題となっている「韓・倭の短里」についての部分であるから、これを「短里のあるなしの証例として採ることは一種の循環論法に陥ってしまう」と述べられる。従って、古田氏の挙げられた二つの挙例条件に合うケースは(二)のみということになる。

これについては白崎氏によれば、山尾幸久氏が「長里」の論証に用いられているという。そこでその山尾氏の唱えるところを調べてみる。講談社現代新書「魏志倭人伝-東洋史上の古代日本-」(昭和47年7月刊/62頁〜)で、「道程記事を解釈する前提」「一里は約435メートル」としてこの「二千里に垂んとす」の例を取り上げられている(64頁)。

その上で白崎氏は古田氏の説が「確実な例」として挙げるには不適当であったとする(「8号」173頁)。それに対する古田氏の再販論が「12号」158頁に掲載されている。

それらの内容をここで述べるのは煩瑣に過ぎるので割愛させていただく。書名、ページ数を記したので興味のある方は実際に読まれて、双方のいずれに「理」のあるや、ご判断いただければと思う。

古田説をめぐって「短里」(21)

2004/ 6/19 23:45
メッセージ: 4966 / 5631
つづいて「四千里」の例。先に挙げた(20)の二つの例の他に古田氏は、第一書で次の例を「短里」の証拠として取り上げる(188頁)。

<<(一)十七年、太祖乃ち[業β]に還る。淵を以て護軍将軍に行わしめ、朱霊・路招等を督して長安に屯せしむ。・・・趙衢・尹奉等、超を討たんことを謀る。姜叙兵を起し以て之に応ず。・・・超、漢中に奔り、還りて祁山を囲む。叙等急に救いを求む。諸将議する者、太祖の節度を須たんと欲す。淵曰く、「公は[業β]にあり。四千里を反復せば、報ずるところ、叙等必ず敗れん。急を救うに非ざるなり」と。遂に行く。<魏志九夏侯淵伝>

ここで夏侯淵が「四千里を反復すれば」と言っているのは、「自分たちのいる洛陽から、太祖のいる[業β]までの、四千里の距離を使者が往復していれば」という意味である。その使者の報告が返ってくるころには、祁山で敵軍(馬超の軍)に包囲されている味方(姜叙たち)を救済する時期を逸してしま、というのである。

ところで、この「洛陽−[業β]」間はまさに韓国の「方四千里」の一辺と一致しているのである。すなわち、洛陽と[業β](魏創業の聖地−−−三臺の所在地)という、魏における二大代表都市間の距離表示がすなわち、倭人伝の「一万二千余里」「七千余里」と一致した実距離を示しているこが判明したのである。>>

古田説をめぐって「短里」(22)

2004/ 6/20 22:50
メッセージ: 4977 / 5631
この「魏志九夏侯淵伝」の「四千里」については、まず山尾幸久氏の反論を紹介する。氏は昭和47年7月刊行された「魏志倭人伝−東洋史上の古代日本−」(講談社現代新書/64頁〜)で、この古田氏の見解を批判している。引用しよう。

<<このとき、淵がこういっている場所はどこか。長安である。同伝に、十七年長安に駐屯し、一時出撃して「軍を引きて還る」。武帝記十六年十二月「夏侯淵を留めて長安に屯ましむ」。十八年十一月「夏侯淵をして之を討たしむ」とある。つまり、長安から[業β]まで往復四千里もして曹操の指令を待つわけにはいかぬという意味なのだ。「反覆四千里」とは「往復で四千里」のこと。四千里を往復するのではない。ちなみに、上記の劉昭注は、長安から洛陽までを「九百五十里」、洛陽から[業β]までを「七百里」とし、片道一六五〇里となるのだ。三六〇〇里(hy注/次に述べる「四千里征伐」のケース)や三三〇〇里を「四千里」というのは修辞であり、目くじらを立てるほどの問題ではない。>>

この山尾氏の反論は前掲のように昭和47年7月。古田氏の第一書『「邪馬台国」はなかった』が出された昭和46年11月から1年を経ていない。古田氏の第一論文「邪馬壹国」が「史学雑誌」に掲載されたのは昭和44年9月のことであるが、この「邪馬壹国」には「短里」のことは含まれていない。従って、一年を経ずして出された山尾氏の反論は素早いものだと言えるのではないかと思う。

古田説をめぐって「短里」(23)

2004/ 6/21 0:00
メッセージ: 4991 / 5631
「目くじら論争」

この山尾氏の「目くじら」発言に対する古田氏の反論が「古代学研究73」(昭和49年9月)に掲載された。「魏晋(西晋)朝短里の史料批判−山尾幸久氏の反論に答える−」がそれである。あいにく「古代学研究73」は手元にないが、『邪馬壹国の論理 古代に真実を求めて』(昭和50年10月/朝日新聞社)に収録されているので、そこからの引用とする。

<<氏は淵(夏侯淵)のいる場所を「長安」とし、上の淵の言葉を「長安から[業β]まで往復四千里もして曹操の指令を待つわけにはいかぬ」という意味だとされる。すなわち長安−[業β]間、片道一六五〇里(劉昭注)、往復三三〇〇里を概数で「四千里」と言ったもの、とされるのである。
しかし、この時、夏侯淵は「長安」にいたのではなく、「都」(洛陽もしくは遷都中の許)にいたことが、次の二点から確かめられる。
(1)(建安十七年)太祖乃還[業β]、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等屯長安。(魏志第九、夏侯淵伝)
ここで「長安に屯している」のは、朱霊・路招等であり、淵ではない。
(2)淵の任ぜられた「護軍将軍」は「都」にあって「司直」「武官選」を司る職である。その上、『魏略』には太祖時点の史料がある。
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石、旋軍並止罷。」
これは「都に護軍中尉を置き、(都に)護軍将軍を置く。」の省略形であるから、護軍将軍の官は「都」に置かれているのである。したがって山尾氏の立論の基礎たる在長安説は成立できない。
 さらに一点を追加しよう。氏の計算(劉昭注による)によれば、「長安−洛陽−[業β]」間の往復両路あわせて三三〇〇里だという。これについて「『四千里』というのは修辞であり、目くじらを立てるほどの問題ではない」、と氏は言っておられる。しかし、三三〇〇里は、概数で言えば「三千余里」である。「[業β]−洛陽(許)−長安』間は、陳寿など、当代の人々(晋代の読者を含む)にとって、もっとも明晰な区間である。これを「四千里」というような誇張値でしめすことは無意味である。これに対し、“淵が都(洛陽もしくは許)にいた)とした場合、[業β]との間は四千里(魏晋朝短里)でピッタリ一致する。山尾氏のような「目くじら論」をもちだす必要はない。>>

引用が長くなったが、このあとの白崎氏の反論にもかかわる部分なので敢えて記した。

古田説をめぐって「短里」(24)

2004/ 6/22 23:44
メッセージ: 5011 / 5631
「目くじら論争」-2-

古田氏の山尾氏への反論に対して、今度は白崎氏が「8号」で古田氏に対する疑問を呈している。175頁〜。

<<山尾氏は、「淵がこういっている場所はどこか。長安である。」と述べる。これに反して古田氏は、洛陽もしくは許と主張する。この争点を解く鍵は、魏志武帝記にある。太祖曹操は一体どこから[業β]に還ったのか。
(建安十六年)十二月、安定より還り、夏侯淵を留めて長安に屯せしむ。十七年正月、公、[業β]に還る。・・・馬超の余衆、梁興等、藍田に屯す。夏侯淵をして撃ちてこれを平らげしむ。
これによってみれば、曹操が夏侯淵を駐屯させたのは明らかに長安の地である。然るに古田氏が、これを洛陽または許昌とする根拠は何か。
第一に古田氏は、「督朱霊路招らが長安に屯するのを夏侯淵に監督させた、との意味に取るのである。つまり英語の I see him run. の用法であると説明する。第二に「護軍将軍」の官は天子の居所に居なければならないものだと説く。この名分論を以てすれば、当時の都、許昌が淵の居場所でなければならぬ。
しかし、武帝記の記事は明らかに古田氏のこの見解と矛盾する。梁興等が拠って叛した藍田は、長安から僅か三十キロ程の地点である。若し淵が許にいるならば、何故に長安の諸将をさしおいて、六五〇キロも離れた淵に追討を命ずることがあろうか。またこんなに離れた地点から長安の諸将の監督が出来るものなら、大抵の戦争で、大将軍が戦地に赴く必要はないことになろう。
古田氏は、十六年十二月に「長安に屯せしむ」とあり、十七年正月に「淵を長安に屯せしむ」とすれば、命令が重複すると説くが、これも氏の誤解である。この二文は同一の命令を現している。ただ武帝記の方は十六年十二月にかけ、列伝の方は翌年の正月に記しているまでのことである。
かくの如く、夏侯淵の所在は長安に間違いないのであるから、反覆四千里は長安・[業β]間の往復と解するほかはない。この距離は漢長里を以てしか理解しえないであろう。>>

これに対する古田氏の反論が「12号」に見える。

古田説をめぐって「短里」(25)

2004/ 6/23 6:18
メッセージ: 5019 / 5631
(24)に脱漏があったので訂正する。

>第一に古田氏は、「督朱霊路招らが長安に屯するのを夏侯淵に監督させた

第一に古田氏は、「督朱霊路招(等屯長安」の文章を、朱霊路招)らが長安に屯するのを夏侯淵に監督させた

()内が脱漏していた。

古田説をめぐって「短里」(26)

2004/ 6/23 23:30
メッセージ: 5025 / 5631
目くじら論争-3-

白崎氏の「8号」での古田氏に対する反論対して、古田氏の再反論が「12号」に掲載された。160頁〜。

F「反覆四千里」(魏志九)について
 白崎氏は建安十六年十二月の「夏侯淵を留めて長安に屯せしむ」(魏志一)と建安十七年の「淵を以て護軍将軍を行わしむ」(魏志九)を「同一の命令」をしめす、とし、「夏侯淵、在長安説」の根拠とされるが、格別その証拠としては示されない。したがつて、わたしにも再反論するすべがない。
 ただここで強調したいこと。それは短里の場合、「長安→[業β]間(往復)は「三三〇〇里」であって。略称すれば「三千余里」となろう。「四千里」にピッタリしないのだ。このように「長里」だと、一応の説明をつけてみても、おなかつがたぴししているのだ。


以上である。

古田説をめぐって「短里」(27)

2004/ 6/26 22:57
メッセージ: 5060 / 5631
目くじら論争-4-

古田氏は言われる。

<<「同一の命令」をしめす、とし、「夏侯淵、在長安説」の根拠とされるが>>

さて、白崎氏が「8号」で「夏侯淵、在長安説」の根拠として挙げたのは、古田氏の言われる「同一の命令」だったのか?夏侯淵を屯せしめたのは「長安」であると書かれてある。山尾氏も白崎氏もその通りに解釈したのみである。

白崎氏は「8号」の文を「東アジアの中の邪馬臺国」に転載されたが、「夏侯淵、在長安説」の根拠をもう一つ追加された。169頁〜。

<<その証拠(hy注:同一命令)としてさらにもう一つ史料を示そう。
(4)太祖、「業β]に還る。(徐)晃をして、夏侯淵と[鹿β]・夏陽の余賊を平らげしめ、梁興を斬り、三千余戸を降す。(魏志十七徐晃伝)
[鹿β]や夏陽は陜西省の地名である。ここに建安十七年に叛乱を起こした梁興の名が出てくる。従って建安十七年に、夏侯淵は明らかに長安の方面におり、徐晃と共にその附近の余賊を平らげるために働いている。のほほんと許とか洛陽で監督をしていたのではない。
夏侯淵が長安にいたことが確実になったからには、その言葉の中にある「反覆四千里」が、[業β]と長安との間の往復距離を指すことは明白である。[業β]にいる曹操の指令を仰いでいては、急場の間に合わないと盛んな意気を見せたのである。
『後漢書』の「劉昭伝」によれば、この距離は一六五〇里である。往復では三三〇〇里となり、四千里とは正確には合わない。そこで山尾氏は、「三六〇〇里や三三〇〇を四千里というのは、修辞であり、目くじらを立てるほどの問題ではない」と述べる。>>

そして、古田氏の反論がある。夏侯淵が都(洛陽もしくは許)にいたとした場合、[業β]との間は四千里(魏晋朝短里)でピッタリ一致する・・・と。

すなわち、古田氏は「魏晋朝短里説」に沿った文意の読みとりをするのである。

古田説をめぐって「短里」(28)

2004/ 6/27 0:01
メッセージ: 5061 / 5631
韓半島の「四千里」、「反覆四千里」と並んで、もう一つ「四千里」について触れる。「四千里征伐」である。これは山尾氏が『魏志倭人伝−東洋史上の古代日本−」六三頁〜で述べている。

「初め帝(魏の明帝)宣王(司馬懿)を遣わし淵(公孫淵)を討つに卒四万人を発(おこ)さんと議(はか)る。議臣皆な以為(おもえらく)、四万の兵は多く、役費供し難しと。帝曰く、『四千里の征伐なり。奇を用うと云うと雖も、亦当(まさ)に力に任(た)うべし。当(まさ)に役費を稍計すべからず』と。遂に四万人を以て行く」(魏志明帝記)
 陳寿自身が編纂した『魏名臣奏』という書物に載せられている何曾の上表文に、「今、懿辞を奉じ罪を誅す。歩騎数万、道路は廻阻にして四千余里」とあるのを見ても、また干宝という人の『晋記』に懿が「往くに百日、攻むるに百日、還るに百日。六十日を以て休息と為す。此の如く一年にて足る」と述べたとあるのを見ても、前記史料では、洛陽から燕王公孫淵の治する遼東の襄平城までの、四千里の征伐のことが問題にされているのだ。四万人の兵卒が往路のみで百日もかかる、四千里に要する役費が問題にされているのだ。淵の支配する地域が「遼東郡」のみでないことも既述のとおりだ。『後漢書』郡国志の劉昭注に遼東郡治襄平は、「洛陽の東北三千六百里」に在りとある。>>

古田説をめぐって「短里」(29)

2004/ 6/28 23:47
メッセージ: 5101 / 5631
この山尾氏の「四千里征伐」への反論が、古田氏の「魏晋(西晋)朝短里の史料批判−山尾幸久氏の反論に答える−」である。これは『古代学研究』78(昭和49年9月)に発表されたものだが、『邪馬壹国の論理−古代に真実を求めて−』(211頁〜)に再掲されているので、そちらから引用する。

<<(1)帝曰「四千里征伐、雖云用奇、亦当任力、不当稍計投費」(魏志第三、明帝記)

 この「四千里」に対し、山尾氏は「洛陽−遼東郡治(襄平)」間とされる。そして次の二文を照合された。

(2)今懿、奉辞誅罪、歩騎数万、道路廻阻、四千余里(魏名臣奏、何曾表、魏志第三、裴松之註)
(3)往百日、攻百日、還百日、以六十日為休息、如此、一年足矣(干宝『晋紀』魏志第三、裴松之註)
 この二文を根拠に、氏は主張される。「前記史料では、洛陽から燕王公孫淵の治する遼東の襄平城までの、四千余里の遠征のことが問題にされているのだ。四万人の兵卒が往路のみで百日もかかる、四千里に要する役費が問題にされているのだ」と。これを吟味しよう。
 まず、(1)の魏志本文の「四千里」と、(2)の史料の「四千里」とが同一の範囲を示していることは確かだ(この点、わたしの前著二〇二ページにも指摘)。しかし、遺憾ながら、それが氏の言われるように「洛陽−襄平」間を指すという規定性は存在しない。
 この点、(3)も同じだ。氏は「往百日」「還百日」がそれぞれ「四千余里」に当たる、とされる。だが、それはいわば氏の"主観的な解釈"にすぎず、逆に「攻百日」の領域をさす、という可能性も存する。しかし、これについて氏の論証はない。

 ところが、(1)〜(3)の各文の前後を詳しく検証すると、氏の理解と相反する帰結が得られる。

(1')初、帝議遣宣王討淵、発卒四万人。議臣皆以為"四万人兵多、役費難供。"帝曰(ここに(1)の文、挿入)。遂以四万人行。及宣王至遼東、霖雨不得時攻、群臣或以為"淵未可卒破、宜詔宣王還"。帝曰「司馬懿臨危制変、擒淵可計日待也」卒皆如所策(魏志第三、明帝記、景初二年十一月項)

−つづく−

古田説をめぐって「短里」(30)

2004/ 7/ 1 22:52
メッセージ: 5143 / 5631
「四千里征伐」の話しを続ける。

「魏志明帝記景初二年十一月」の記事について、古田氏は続ける。

 これは、群臣たちが四万人の大遠征について危懼したのに対し、明帝は司馬懿(宣王)の智略を信じて疑わず、決行し成功した、という話しだ。この中に明帝の言葉が二回現れている。その第一(決行前)が(1)の内容だ。ここで「雖云用奇」の表現は"宣王が奇策を用いるとしても"の意だ。それにしてもやはり「任力」(彼の力量に任せる)べきであり、他の者(群臣)がとかく経費などを計算すべきではない、といっているのである。ところが、司馬懿が遼東郡に到着した後、はじめ霖雨にさまたげられていたため、群臣の中から"宣王召還"の議が出た。これに対し、明帝は再び宣王への全面信頼の言をのべてこの議を斥けたのである。この第二回の明帝の言葉の中に「臨危制変」の語がある。これは第一回の明帝の言葉(1)の中の「用奇」に当たるものだ。"司馬懿が臨機応変の奇策に長じている"ことを言っているのである。
 さて、この「臨危制変」は明らかに遼東郡到着後の問題だ。それゆえ当然、先の「用奇」も、これと同一時期のこととみなすほかはない。これが文脈の道里である。

 上の帰結は(2)(3)の前後の文面によっても裏づけられる。

(2')[(2)に接続する文]雖仮天威、有征無戦、寇或潜遁、消散日月、命無常期、人非金石、遠慮詳備、誠宜有副。(魏名臣奏、何曾上表)
(3')帝問宣王「度公孫淵、将何計以待君」宣王対曰「淵棄城預走、上計也。拠遼水拒大軍、其次也。坐守襄平、此為成禽耳」帝曰「然則三者何出」対曰「唯明智審量彼我、乃預有所割棄、此既非淵所及」又謂「今往県遠、不能持久。必先拒遼水、後守也。帝曰「往還幾日」対曰「(3)の文」。(干宝『晋紀』)

-つづく-

古田説をめぐって「短里」(31)

2004/ 7/ 2 22:58
メッセージ: 5160 / 5631
上の(2')は、遠征中の非常事態にそなえて宣王に副官をおくべきことを何曾が上奏したものである(毋丘倹任命)。この何曾上表中の「遠慮詳備」すべき非常事態とは「有征無戦、寇或潜遁、消散日月」であった。すなわち、遼東郡到着後、公孫淵が魏軍との直接対決を避け、"遠征軍の消耗を待つ"持久戦に出たときのことを憂慮しているのである。その憂慮をのべるさいに「道路廻阻、四千余里」といっているのであるから、当然この「四千余里」は戦闘領域(遼東郡域)を指していることなる。
 この点は(3')からも裏づけられる。明帝が公孫淵側の作戦について宣王に聞いたところ、"襄平城を棄てて走り、遠征軍の消耗を待つのが「上計」、遼水の線で遠征軍を拒ぐのが「次計」、襄平城籠城が最下策だ"とし、公孫淵ははじめ「次計」、のち最下策をとるだろう、と予言した。すなわち、魏側にとってもっとも恐るべき「持久戦」を公孫淵はとるまい、だから「攻百日」で足りる、と断言したのである。(「往百日」「還百日」は客観的に算定しうる「定距離」の問題であり、宣王の言をまつまでもなく、明らかである。)ここでも明白に遼東郡域内の戦闘状況への予測(「持久戦」にはならぬという見通し)が焦点であり、(2')の何曾上表の憂慮(「寇或潜遁」の場合の「消散日月」)とキッチリ対応した答えをしめしているのである。
 以上、三史料を通じて次の帰結が導かれる。「四千(余)里」は遼東郡の戦闘領域内を指し、宣王の「攻百日」の予測部分に当たる、と。すなわち、それは「魏晋朝短里による四千里」に相当するのである。(hy注/前著=『「邪馬台国」はなかった』)一九三頁図参照)
 さらに一個の簡明な理路を付記しよう。
 山尾氏が示されたように、『後漢書』劉昭註(後述)によると、「洛陽−遼東郡治(襄平)」間は「三千六百里」である。ところが先の何曾上表では「四千余里」だ。魏志明帝の場合は「余」字から見て、"切り上げ"視は不可能だ。厳密なるべき「上表文」という文書性格から見ても、この些少の一字は看過することができない。
 山尾氏の解釈は、以上の史料事実に反する。

−以上が『古代学研究』73/昭和49年9月に掲載された(『邪馬壹国の論理−古代に真実を求めて−』所収)、「魏晋(西晋)朝短里の史料批判−山尾幸久氏の反論に答える」に書かれた古田氏の「四千里征伐」部分である。

古田説をめぐって「短里」(32)

2004/ 7/ 2 23:21
メッセージ: 5164 / 5631
古田氏のこの「四千里征伐」に対する白崎氏の反論。「8号」175頁。

<<更に古田氏と山尾氏との間で争点となっている若干例について検討しよう。
 (一)議臣皆以為へらく、四万の兵多く、役費供し難しと。(明)帝曰く、「四千里の征伐なり。奇を用ふと云うと雖も、亦当に力に任すべし。当に役費を計るべからず」と。(魏志三明帝記)
 山尾氏は、「洛陽から公孫淵の居る遼東の襄平までの、四千里の遠征のことが問題にされているのだ。四万人の兵卒が往路のみで百日もかかる四千里に要する役費が問題にされているのだ」と述べている。これに対して古田氏は、この四千里は公孫淵の支配する遼東郡の一辺であると論ずる。
 常識的に考えて、軍旅未だ発せざる時に、途中行軍の役費より先に、相手の領域の一辺が議論されるとは理解し難い。若し敵国の広さが問題となっているならば、当然「方四千里」と方の字が附かなければならないであろう。結局この四千里は、洛陽・襄平間の距離を指すものと解した方が妥当であり、それは到底短里によっては説明し得ない。>>

古田説をめぐって「短里」(33)

2004/ 7/ 2 23:50
メッセージ: 5167 / 5631
白崎氏の反論への古田氏の再反論。「12号」160頁。

<<E.「四千里征伐」(魏志三)について
 わたしは多くの証拠をあげてこれが"遼東郡域"という征伐対象の奥行きをさすことを論証した。たとえば"魏領内の行路は一定し、「費用不明」なのは遼東郡内の征伐だ"などと。しかし氏はこれを顧みられなかったようである。
 また氏は言われる。"征伐対象なら「方−−里」といった形の広さが問題になるはず"と。しかし何も"遼東郡域の住民をくまなく征伐してまわる"ような問題ではない。要は公孫淵がどう行動するか、まったく不明な点が作戦予測上の難題だった(場合によれば北方の胡地奥へ逃避することもありえよう)。だから「方−−里」という面積の問題ではないのである。>>

古田説をめぐって「短里」(34)

2004/ 7/ 3 23:37
メッセージ: 5182 / 5631
「12号」の古田氏の白崎氏への再反論に対する白崎氏の、再々反論が「東アジアの中の邪馬臺国」にある。概ね、「8号」の白崎氏の文に加筆したものだが、その部分を紹介する。

<<しかし古田氏は、何曾の上表文に「四千余里」とあるのを楯として、「三千六百里を大数で四千里とするのはまだ可能としても、四千余里と称することは不可能だ」と反撃する。だが古田氏は、この文の中に「道路阻を廻りて」とあるのを見落とされておられるようだ。平時ならば三千六百里の行程であっても、戦争となれば主要道路が閉塞されたり、橋を流されたりして、遠く間道を迂回しなければならないこともあるであろう。
二〇七年、曹操が遼西の烏丸を征した際も、大水のために海の傍の道を通れず、遠く山道を迂回すること五百余里、鮮卑の領域を通って柳城を攻めたのであった。曹操は帰還すると、北征を諫めた諸将に賞を与え、勝って帰れたのはむしろ僥倖であったと告白したほどの難行軍であった。これは遼東郡の手前の遼西郡までの行軍で、すでにこうだったのである。それから推して考えれば、何曾の「四千余里」の表現は決して過大とは思われない。
また、古田氏は最近の論文において、「この四千里は"遼東郡域"という征伐対象の奥行きをさす」と述べられている。しかし氏の『「邪馬台国」はなかった』に掲げられた図(hy注/193頁)では、四千里は遼東郡の東西辺を示している。公孫淵の領域の「奥行き」などを、どうして事前に魏朝が知り得よう。また公孫淵の勢力が帯方郡(朝鮮半島中部)にまで及んでいたことを思えば、短里で四千里に留まるものではあるまい。
どちらから考えても、この四千里は洛陽・襄平間の距離であり、長里でしか説明し得ない。>>

古田説をめぐって「短里」(35)

2004/ 7/ 6 23:53
メッセージ: 5204 / 5631
この白崎氏の再反論に対しては、古田氏から具体的な批判は出ていないようだ。「ようだ」と書いたのは、「古田vs安本ほか」論争は歴史関係の書誌ばかりではなく、「数学セミナー」とか「図書新聞」とか、或いは各地の紙面にも掲載され、そのすべてを承知するには私の力の及ばない部分がある。

大方はそれぞれの書かれた本の中で再録されているので、それを利用することになる。

話がそれたが、「28号」に寄せられた白崎氏の文章から一部を紹介する。

「中国古代文献の読み方−古田武彦氏に−」(130頁〜)。

<<しかしそれにも拘わらず、私の説に対する具体的な批判は、ほとんど氏の文章の中に現れない。唯一の例外は「文化評論」八〇年四月号における「邪馬壹国の証明」である。古田氏が、古代史に関心の深い読者のそれほど多いと思われない雑誌に、漢文の読解力を必要とする細かい問題点についての拙論批判を発表されたことはいささか不可解である。しかもそれらの論点は、古田説にとっていわば外郭的な問題であり、より根本的な問題(それを放っておけば古田説にとって致命的となりかねない)については依然として沈黙を守ったままである。このことは私に割り切れない思いを起こさせ、安本美典氏がいわれたように、「古田氏は批判しやすい部分のみをとりあげてそれをくりかえして宣伝する」ことを得意としておられるのではないか、との疑念さえ生じてくるのである。
 およそ人の説の批判を公表するものは、それによって相手が自説を撤回するか、それも自説を擁護して反論を加えてくるか、そのいずれかを期待しているものである。しかるに古田氏は、発行後二年以上を経過した私の著書の古田説批判の大部分に対して直接的な形では反論を行わず、しかもますます自説を宣揚して倦まざるが如く見える。これは学者として決してフェアな態度といえないであろう。
 そこで私は「文化評論」での古田氏の批判にお答えしながら、併せて本誌その他での古田氏が間接的に私の所説に言及された事柄について、具体的な問題点に限って答論させていただくことにする。けだし古田氏と私との論争の発端となったのは本誌であり、「文化評論」に寄せるよりも本誌に載せていただいた方が古代史に関心ある多くの方々に益するところが大であると思うからである。>>

この「文化評論」は以前私が「介山」のことを紹介したその一九八〇年四月号である。

古田説をめぐって「短里」(36)

2004/ 7/ 8 0:12
メッセージ: 5208 / 5631
白崎氏が「唯一の例外」と紹介された「文化評論」一九八〇年四月号の古田氏「邪馬壹国の証明=里程単位から三国志吟味まで安本美典説を徹底痛撃=」から。

「皇国史観の三世紀」「国名問題」につづいて、189頁中段から「里数問題」に入る。ここではまず、古田氏が第一書『「邪馬台国」はなかった』を発表されて後、それに対して二人の学者から反論が寄せられたことを紹介している。一人は榎一雄氏。もう一人は山尾幸久氏である。

<<(榎氏は)一九七三年(五、六月)、読売新聞紙上に十五回にわたって「邪馬台国はなかったか」という題の論文を出し、わたしを攻撃された。そしてわたしは「これは前半であり、目下後半執筆中」の旨のお手紙をいただいたのである。これに対し、わたしは直ちに十回の反論を同紙(九月)に載せた(『邪馬壹国の論理』朝日新聞社所収)。以後、「後半」は今に至るまで出ていない。右の前半は、もっぱら国名問題、三国志の版本問題であったから、あったから、肝心の行程問題が予想される「後半」が出なかったのは残念だ。>>

読売新聞紙上に発表された古田氏の「榎氏への再批判」は前述の通り『邪馬壹国の論理』に収録されている。ここでこれを紹介するとますます話しが込み入ってくるので、他日を期すが、末尾近くの一節のみを下記に引用する。

<<わたしは信ずる。論争に必要なものは、ただ実証性の有無だけだ、と。そして感情的高揚の言辞は、その論証の強さではなく、弱さの告白にすぎぬ、と。>>

これを読まれた榎氏の心中やいかばかりかと想像する。「実証性の有無」というからには、榎氏の反論が「実証性に欠ける」ということである。榎氏は「弱い」ということである。

古田氏の読売連載の記事はもちろん以前にも読んだから、今回また、ざっと目を通してみると、救いがたい「前提の誤り」を冒していることが一目瞭然である。

次に山尾氏について語られる・・・。

古田説をめぐって「短里」(37)

2004/ 7/ 8 23:02
メッセージ: 5209 / 5631
「文化評論」一九八〇年四月号の古田氏「邪馬壹国の証明=里程単位から三国志吟味まで安本美典説を徹底痛撃=」の「里数問題」では、榎氏との論争について紹介したあと、つづいて山尾幸久氏との論争を振り返る。

<<これより早く、里数問題で反論されていたのが、山尾幸久氏『魏志倭人伝』(一九七二年、講談社)だ。倭人伝の里数値は、いずれも漢代の里単位(通例、一里=四三五メートル)では理解できぬ。五〜六倍の"誇大さ"だ。例の「一万二千里」も、漢代の里単位なら、女王国は赤道の彼方になってしまう。これに対してわたしは「魏・西晋朝の短里」という概念を提起した。"三国志は「一里=約七五メートル」の里単位で書かれている"、そうのべた。これに対し、"誇大値は倭人伝と韓伝だけ"という山尾氏の立場から反論されたのである。けれどもわたしが「魏晋(西晋)朝短里の史料批判」(一九七四年、『邪馬壹国の論理』所収)で右の山尾氏の本の所論に対する詳細な再批判を行って以来、氏の応答は絶えた。>>

榎、山尾両氏から反論の途絶えたことを以て、古田氏はこの両者に対して「勝った」と思われたのであろう。しかし、これに続く部分で古田氏も触れているように、白崎・藪田・安本各氏との間で論争が持たれ、それは遂に「東日流外三郡誌」を巡るNHKでの「古田・安本論争」まで続く。

この番組の中での、NHKの異様とも思える「安本びいき」と、古田氏をめぐる疑惑から今や、「古田説」は「過去のもの」となった感、免れない。

さて、この「文化評論」の「里数問題」ではまたしても「数」が取り上げられる。以前紹介した部分と重複するが、「短里・長里」の比率に関する問題なので、敢えて触れよう。

古田説をめぐって「短里」(38)

2004/ 7/ 9 23:11
メッセージ: 5210 / 5631
その「数」の例として古田氏は5個(プラス2個補記)をあげる。

まず、「江東に割拠す。地方数千里。(呉志九)」の「数」から説き起こして、次のように続ける。

<<これに対し、史記(項羽本紀)・漢書(項籍伝)に「(江東)地方千里」の文がある。項羽の最後を語る、有名な故事だ。同じ「江東」の広さが異なって現されている。従って前二書の「千里」は三国志の「数千里」(約五〜六千里)に当たる。すなわち史記・漢書と三国志とは里単位が違う(五分の一)、わたしはそう論じた。ところが安本氏はこれに反対し、次のような白崎氏の「弁証」に従って、「数千里」は「約五〜六千里」の意味ではない、とされた。
以下、いささか繁雑だが、「漢文の練習」くらいのつもりで、少しつきあってほしい(何なら"斜め"に読んでくださっても、結構)。
(1)[イ](董蓋−人名)蒙衝闘艦、数十艘を取り、・・・(呉志九)
   [ロ]蓋、先ず軽利艦、十舫を取り、・・・(江表伝)
有名な赤壁の戦いの口火を切ったときの文(二書による)だ。白崎氏は右の二例を比べ、「数十」は「十」(せいぜい二十)を意味するとされた。しかし、右の文の前後をよく見ると、[イ]の文のあとには「蓋、諸船を放つ」とあり、[ロ]の文のあとには「瑜(周瑜)等、軽鋭を率いて其の後を尋継し、雷鼓大進す」とある。それらの関係を明示すると、左のようだ。
<先駆船>諸船−−−−−十舫
<母軍> 数十艘−−−−軽鋭・・・・大進
すなわち白崎氏は比定対象をあやまられたことが判明する。>>

古田説をめぐって「短里」(39)

2004/ 7/ 9 23:34
メッセージ: 5211 / 5631
これに対する白崎氏の反論。「28号」131頁〜。

<<「文化評論」で古田氏が卑説を批判されたのは、主として「数千里」「数万」などの「数」の用例に関する問題である。古田氏は「数千里」を「五、六千里」の意味に解して「魏晋朝短里説」の一根拠とされた。しかし私の見るところでは「数」は主として「二、三、四」の表現として現れるので、古田説の基礎はまったく疑わしいのである。
とり上げられた用例は五つあるが、歴史的年代の順に論じた方が読者の理解に便と思われるので、古田氏の記載順を変更してお答えする。
(1)[イ](孫権)周瑜・程譜等の水軍数万を遣はし、・・・(蜀志二)
   [ロ](孫権)周瑜・程譜・魯粛等の水軍三万を遣はし、

有名な赤壁の戦いの前夜で、呉主孫権が曹操の大軍に対して、周瑜たちに水軍の発動を命ずる場面である。この[イ][ロ]を対比すれば、数万が三万であることは誰の目にも明らかである。しかるに古田氏は、劉備や劉剞や劉窺の兵力約二万加算するから、この数万は五万になると強弁する。しかし劉備や劉基の軍隊は孫権の指揮下にはない。[イ]の引用文のすぐ後ろに「先主と力を併せ」と出てくるのである。すなわち水軍の発遣が先であり、劉備の兵と合体するのはその後である。故にこの水軍は三万でなければならぬ。また「呉志二」によれば、「周瑜、魯粛、各万人を領す」とあり、これに程晋の軍を加えて三万になるわけである。

古田説をめぐって「短里」(40)

2004/ 7/10 23:01
メッセージ: 5212 / 5631
「文化評論」から続ける。古田氏の言。

<<(2)[イ]先主(劉備)歩率数万人を将ゐて・・・(蜀志二)
   [ロ]先主、軍を并せて三万余人。(同左)
 白崎氏は"数万人に若干増兵した結果が三万余人"だから、「数万」は「二万程度」とされた。しかし[ロ]の「并軍三万余人」は、「軍を并すこと、三万余人」(「軍三万余人を并す」と読んでも同じ)であって、"数万人に対し、さらに三万余人を増兵した"の意だ。漢文として、「軍を并せて(その結果)三万余人」などと読めるものではない。>>

古田説をめぐって「短里」(41)

2004/ 7/10 23:36
メッセージ: 5213 / 5631
これに対する白崎氏の反論。なお、白崎氏は古田氏の上げられた順序を「とり上げられた用例は五つあるが、歴史的年代の順に論じた方が読者の理解に便かと思われるので、古田氏の記載順を変更してお答えする」として、(2)以降の順序を変える。従って、古田氏の上げられた(2)は白崎氏では(3)となる。ここでは古田氏の順に沿って紹介する。

<<(3)[イ]先主(劉備)歩率数万人を将ゐて益州に入り、・・・(蜀志二)
   [ロ]先主、軍を并せて三万余人。(同左)
 赤壁で大勝した劉備は荊州を得たが、さらに益州を奪おうとして、同盟軍をよそおって益州に入る。そのとき劉備がひきつれた勢力は何万であったか。[ロ]の記載から、若干の軍隊を益州の国主劉璋から提供され、それを併せて三万というのだから、初めの兵力は二万程度と考えられる
 ところが古田氏は、原文の「先主并軍三万余人」は「先主、軍を并すこと三万余人」としか読めず、「数万人に対し、さらに三万余人を増兵した」の意で、漢文として「軍をせて(その結果)三万余人」などと読めるものではない、と断言された。
 「漢文読みの大家」といわれる古田氏にそのように断定されると、「白崎はろくに漢文も読めないくせに大家に突っかかって行って、馬鹿な奴だ」と思われる読者もあるかも知れない。しかし「漢文としてそうは読めない」とはなかなか言い難いことである。次のような用例がある。
 「夏后氏益其堂之広百四十四尺」(隋書四九牛弘伝)
 これは前後の文を参照すると、「夏后氏、その堂の広さを益して百四十四尺」と読むほかはない。つまり「広さを益して(その結果)百四十四尺になった」という例が立派に存在しているのである。
 もちろん古田氏のようにも読める。漢文というものは、西欧語と違って幾通りにも読むことが可能なのである。そのいずれが正しいかは、前後の文脈に照して合理的に判断するほかはない。
 このばあい、劉備は本国の荊州を留守にして隣国の荊州に赴いているのである。それほどの大軍を連れて行けるわけがない。
 また劉璋にしてみれば、まだ本当に信頼してよいかどうか分からない劉備に、三万もの大軍を預けるであろうか。
 三万が当時いかに大軍であったかというのは、呉が国力を傾ける赤壁の戦いに、動員し得た水軍兵力が三万余人だったことがらも納得していただけるしたがって、劉備の元来の兵力は二万くらい、劉璋が貸し与えた兵が一万程度というのが、常識的にも妥当な数字であろう。故にこの場合の「数」は「二」となる。

ゆえに

古田説をめぐって「短里」(42)

2004/ 7/23 23:21
メッセージ: 5276 / 5631
(41)末尾の「ゆえに」はタイプミスの置き忘れである。


「文化評論」(No.228/1980年4月)掲載の古田「邪馬壹国の証明」から「里数」に関する部分を紹介している。もちろん白崎昭一郎氏との間で論争となっている箇所でもあることは言うまでもない。

<<(3)左将軍(劉備)縣軍我を襲わんとす。兵、万に満たず。(蜀志七)
 劉璋はいったん北の張魯(五斗米道)の討伐を劉備に依頼した。ところが、その劉備が対峙した軍の一部を反転させて自都(劉璋の拠点)に襲来させることを恐れていた。そのときの鄭度(劉璋の将)の言だ。白崎氏はこの「万に満たず」つまり「一万弱」を先の([2]の[イ])劉備の軍「数万」と対比された。「数万」は「一〜二万」で、それが減って「一万弱」ななっていた、というのだ。しかしこれは、張魯と現に対決している母軍(本隊)の中から、一部を引き抜いて劉備が自軍を奇襲させることを恐れているのである。この場合のキィ・ワードは「縣軍(本国または根拠地をはなれて、遠く適地に入る軍)だ。母軍を前提にした支軍をしめす述語である。それゆえ氏の対比は妥当ではない。>>

古田説をめぐって「短里」(43)

2004/ 7/23 23:46
メッセージ: 5277 / 5631
これに対する白崎氏の反論(『東アジアの古代文化1981夏/28号』「中国古代文献の読み方−古田武彦氏に−」(p130-)。なお、先にも述べたが白崎氏は古田氏の述べる順序に従っていない。よって、古田氏の(3)左将軍・・・は、白崎氏の反論では(4)となる。

<<左将軍(劉備)県軍我を襲はんとす。兵、万に満たず。(蜀志七)
 劉備はしばらく益州の北辺で張魯と対戦していたが、急に軍隊を反転させて劉璋を襲おうとした。そのとき鄭度という劉璋の臣が、劉璋を励ました言葉である。このとき劉備の兵力は、張魯との合戦で消耗したか、或いは張魯に対する抑えの軍勢を置いてきたか、ともかく一万弱しかなかったという。これから見ても、劉備の最初の兵力が二万弱だったことが明らかとなる。
 
 しかし古田氏は「県軍」とは「本国または根拠地をはなれて遠く適地に入る軍」の意味だから、劉備の本軍は張魯と対陣しており、僅かの支兵をひきいて劉璋を奇襲しようとしたので、白崎の対比は妥当ではないとされた。
 たしかに県軍にはご指摘の意味があるが、この場合には、劉備の軍が、本国(荊州)から遠く離れて異郷に来た軍隊であることを考慮せねばならぬ。しかも劉備にとって、張魯は昔からの敵でも、宿怨のある相手でもない。張魯とは適当に和を講じても、劉璋を打倒して益州を奪わねばならぬ立場にある。したがって高松城攻めの秀吉が毛利と和睦して、ほとんど全軍を光秀と決戦するために引き返した如く、劉備も僅かの抑えの兵を除いて、大部分の軍勢を劉璋を撃つために引き連れたに違いない。古田氏の見解は抽象論としてはともかく、この場合はまったく実情に即していない。>>

古田説をめぐって「短里」(44)

2004/ 7/26 23:10
メッセージ: 5278 / 5631
(42)で、
>「里数」に関する部分を紹介している
と書いたが、「里数」をめぐる論争の中で「数」に対する応酬を紹介している。少し言葉足らずだった。

さて、「文化評論」での古田氏の反論(3)を引く。

<<(4)[イ]中軍および倹(毋丘倹)等の衆数万を統べ、・・・(魏志二十八)
[ロ]遂に四万人を以て行く。(魏志明帝紀)
 魏の明帝が遼東の公孫淵討伐の軍を派遣したときの文だ。白崎氏は[イ]の「数万」を[ロ]の「四万」にあてられた(毋丘倹の軍「一万」をあわせれば「五万」かも知れぬ、という)。
 ここで抜けているのは、「倹等」の「等」の字の吟味だ。毋丘倹(一万)以外の将軍の軍(若干)も、中軍(魏の中央軍。これが四万だ)に合流したのだ。従って「四万プラス一万ブラス若干」で、文字通り「約五〜六万」が「数万」とされているのである。従って、私の理解の正当さを裏付ける例なのだ。>>

古田説をめぐって「短里」(45)

2004/ 7/26 23:21
メッセージ: 5279 / 5631
これに対する白崎氏の反論。「28号」133頁。

<<第五の論点は、公孫淵討伐のために司馬仲達が引き連れた数万が、四万か五万かという問題であるが、私は四万の公算が大きいと思うものの、五万の可能性もまったく否定しているわけではないので、これについての論究はさし控えておく。>>

古田説をめぐって「短里」(46)

2004/ 7/26 23:43
メッセージ: 5280 / 5631
「数」の問題の最後として、古田氏の補記二点を紹介する(「文化評論」195頁)。

<<(6)三国志において「五、六百人」などの表現があるのは、「数」がふつう五や六に当たらないからである、と白崎氏は主張され、これをわたしへの反論とされた。しかし、これは不当だ。なぜなら「数百人」と言うときは、「約五〜六百人前後」の意であり、「五、六百人」より、一段と幅をもった「概数」表現だからである(その中核が「五〜六」と言うにすぎない)。

(7)韓伝に「凡五十余国。大国万余家、小国数千家、総十万余戸」とある。だから、"「数千家」が「五、六千家」ではありえない"と。この点を両氏(hy注:白崎、安本)は力説された。その理由は"「五十余国」全部小国だったとしても、「十万余戸」をはるかに越えてしまうから"というのだ。一応もっともだ。だが、問題のキィは、この記述を「平均値」もしくは「全部」の意ととる点だ。この一文は"大国では万余家のもあるが、小国ではせいぜい五〜六千家どまり"、そういう意味なのである。たとえば倭人伝に「国の大人、皆四五婦」とある。これに対比してみよう。あたかも「小国皆数千家」であるかのように、両氏は錯覚されたのである。>>

古田説をめぐって「短里」(47)

2004/ 7/27 0:05
メッセージ: 5281 / 5631
まず(6)は資料的事実を挙げない古田氏の見解表明であるので、白崎氏は特に反論されない。

次に(7)であるが、これはもちろん以前にも紹介した。重複になるが、白崎・安本両氏の(そして、恐らく大方の人々の)理解の限界を超えた「古田解釈」を今一度、引用することにする。

古田説をめぐって「短里」(48)

2004/ 7/27 22:57
メッセージ: 5286 / 5631
まず、(7)の要点を再掲する。

古田<<問題のキィは、この記述を「平均値」もしくは「全部」の意ととる点だ。この一文は"大国では万余家のもあるが、小国ではせいぜい五〜六千家どまり"、そういう意味なのである>>

この文の意味をどう受け止めればいいのだろうか?白崎氏の反論。「28号」133頁。

<<三 要するに漢文の読み方は、絶対的に正しい読法というのはむしろ稀であり、前後の文脈を参照して判断しなければならないのであるが、古田氏が自説に都合のよいように引きつけて解釈する強引な論法が目立つ。特に第一例や第二例で、引用文を途中で切って自説に不都合な部分を読者に隠されていることは、「心理的詐欺」とまでは行かないとしても、「心理的作戦」とでもいうべきアンフェアな態度である。
 ただ、叙上の諸点は、純粋に漢文の読み方としては古田氏の解釈も成り立たないこともない(それだからこそ古田氏は、批判し易い部分として取り上げられたのであろう)が、これから古田氏の見解のとうてい成り立ち得ない例を挙げよう。
 (a)凡そ五十余国、大国は万余家、小国は数千家、総て十万余戸。(魏志韓伝)
 この「数千」は「二千」か、それ以下でなければならぬ。何となれば五十余国がすべて小国であったとして、一国二千家として十万余戸となり、それに若干の大国を加えれば、それ以上の戸数になることが明白だからである。これは私、ならびに安本美典氏の説くところである。
 しかるに古田氏は、「大国では万余家のもあるが、小国ではせいぜい五〜六千家どまり」の意味なのだという。「小国数千家」の原文でどうしてそのような意味になるのか、解するに苦しむ。古田氏はそのような意味にとれる文例を明示すべきであろう。
 しかし同じ「韓伝」の中の次の例は、明らかに古田氏の解釈の不当性を示している。
 (b)弁、辰韓 合わせて二十四国、大国は四五千家、小国は六七百家、総て四五万戸。
 大国の数をXとし、小国の数をYとすれば、簡単な鶴亀算の問題として解ける。すなわち大国の数は六、小国の数は十八である。このように解けるということは、大国の戸数を平均四、五千家、小国の戸数は平均六、七百家として扱ってよいということを示しているのである。もし古田氏の解釈のように、小国の戸数を最大限六、七百戸などと解すれば、この問題は解けなくなるので、古田氏の誤りは明白である(古田氏は信頼する数学者のどなたにでも聞いてご覧になるがよい)。>>

古田説をめぐって「短里」(49)

2004/ 7/28 23:27
メッセージ: 5287 / 5631
「短里説」に絡んで「数」が一体どれくらいの値を表現したものであるかについての論争を紹介した。安本・白崎両氏の「数=2〜3、場合によっては1に近い」という立場と、古田氏の「5〜6」という立場。いずれがより強い説得力を持つと言えようか?


さて、それでは再び「短里のありやなしや」について話を進めて行きたいと思う。

白崎氏は、その著「東アジアの中の邪馬臺国」の中で、「千里未満の例」をいくつか紹介されている。

<<これから千里未満の例を幾つか引かせて頂く。千里未満でも、その地名が確実な定点である場合には、十分有効な史料として使うことが出来る。
以下は、劉備が益州にはいって劉璋と会見した「[シ立/口(フ)]」という地名に関する考察である。
(1)先主、江州の北に至り、[執/土(チョウ)]江水に由り、[シ立/口]に詣る。成都を去る三百六十里。是の歳、建安十六年なり。(劉)璋、歩騎三万余人を率い、車乗帳幔、精光日を曜(かがや)かし、往きて就き與(とも)に会す。(蜀志一劉璋伝)
(2)先主、諸葛亮・関羽等を留めて荊州に拠らしめ、歩騎数万人を率いて益州に入り、[シ立/口]に至る。璋、自ら出迎え、相見て甚だ歓ぶ。(蜀書二先主伝)

(1)と(2)は同じ事件を両面から述べているのである((2)の史料は数万人の考察の時にすでに使った)。
この[シ立/口]はどこにあるのか。山尾氏がこれを四川省彭水県と書かれたのは、古田氏の所論の如く全く間違いである。広漢郡の[シ立/口]県と見るのが正しい。

しかし、古田氏がこれを現在の四川省綿陽県に比定しているのは、大体の場所としてはよいが、[シ立/口]県が後に梓潼県に属していることからみて、綿陽よりはもう少し東寄りの所ではなかったかと思われる。>>

古田説をめぐって「短里」(50)

2004/ 8/ 2 22:38
メッセージ: 5288 / 5631
白崎氏の「東アジアの中の邪馬臺国」からの引用(172頁〜)を続ける。

<<ともあれ綿陽・成都間は、直線距離で約百二十キロ、道路の屈曲を考慮に入れれば、長里で三百六十里にぴったり適合する。
 しかるに古田氏は、「先主はまずこの地(フ)に至り、ここから南西、成都を去る三百六十里(漢長里で六十里)の地に駐兵した。成都城内の劉璋は城外に出て、先主の郡を郊迎したのである」と述べ、劉備と劉璋との会見が、フよりも南西の地で行われたと論じた。
 しかし二人の会見はフの地で行われたことに間違いない。(1)(2)の史料も、そう考えなければ、何故ここにフの地名が出てくるか納得できない。さらに決定的な史料を示そう。
 (3)益州の牧、劉璋、先主とフに会す。(蜀志七ホウ統伝)
 これによって、会見の地がフであったことに疑いを容れる余地がない。このフが蜀の首都、成都にとって重要な意味を持っていたことは、次の史料からもいえる。
 (4)(ケ)艾、上言すらく、「今、賊、摧折す。宜しく遂に之に乗ずべし。陰平より邪径に由り、漢徳陽亭を経て、フに赴かん。則ち、(鐘)会、方に軌して進むべし」と。(魏志二十八ケ艾伝)
 このとき魏の鐘会は、蜀の名将姜維と剣閣で対陣し、進むことが出来なかった。そこで別軍のケ艾が、嶮阻な山道を越えて、剣閣の西百里のフに出ることを提案した。フは成都を去る三百余里の要衝だから、剣閣を守る蜀軍は還らざるを得ないであろう。ケ艾は実際にこの作戦を遂行し、それによって蜀は崩壊したのである。
 この話によっても、フと成都との距離は三百余里、(1)の三百六十里と殆ど符合し、これが漢長里によってしか理解し得ないことは明白であろう。>>

古田説をめぐって「短里」(51)

2004/ 8/12 22:45
メッセージ: 5291 / 5631
さて、「短里」シリーズの前半の結びとして「一日一夜三百里」を紹介する。

まず、白崎氏の「東アジアの中の邪馬臺国」から(p173)。

曹操、劉備を急追

 建安十三年(208)曹操は大軍を率いて荊州を攻めた。荊州の牧劉表は、曹軍南下の報を聞きながら病死した。劉表の第二子、劉jは諸臣の勧めによって曹操に降った。劉表の客将として樊城にいた劉備は、事の急変に驚いて、俄かに難を南に避けることになった。劉表の旧臣や民衆の劉備に従うものも甚だ多かった。当陽に至る頃には、群衆十万余、輜重数千台に達し、一日に十余里しか進めなかった。

 一方、曹操は襄陽に至って。劉備がすでに逃亡したのを聞いた。軍資の豊富な江陵に達して関羽と合体しては大変と、精騎五千を引き連れ大急行で追いかけた。一日一夜に三百里を走り、当陽の長坂で追いついた。

 張飛や趙雲が大活躍して武名を揚げるのが、この長坂の戦である。しかし、衆寡敵せず、劉備は妻子を捨てて逃げ、曹操は劉備の大衆や輜重を獲得した。

 このあと劉備は、劉表の長子、劉gり一万余人を併せて再起を図り、さらに呉の孫権と結んで赤壁の戦が展開されるのであるが、ここで問題とすべきは、曹操が昼夜兼行で踏破した三百余里という距離である。>>

古田説をめぐって「短里」(52)

2004/ 8/12 23:45
メッセージ: 5292 / 5631
<<襄陽−当陽は約百五十キロ、漢長里に直しておよそ三百四十里である。すなわち曹操が一昼夜で駆け抜けた三百余里とぴったり符合する。それが当時の常識を超えた猛スピードであったことは、「諸葛亮伝」の中の、
−曹操の衆、遠く来たりて疲弊す。豫州(劉備)を追ふを聞くに、軽騎一日一夜三百余里、これ所謂、彊弩の末、勢ひ魯稿をも穿つ能はざるものなり。−
という孔明の言からも明らかである。

総じて、こうした行軍や歩行の速度は、常態でない例のみが記録されるものである。

「魏志六董卓伝」の裴注「英雄記」に引かれた「晝夜三百里来る」の例、あるいは「呉志十二虞翻伝」の注の「翻、能く歩行す、日に二百里なるべし」の言、何れも非常の場合、非常の人間の例であって、通常の速度ではない。仮に、古田氏の短里を以て計算すれば、三百里は二十五キロ、二百里は十五キロぐらいとなり、決して特別の速さという程ではない。むしろ遅いくらいである。

念のため、もう一例だけ挙げておく。

−今、宛に屯す。襄陽を去る三百余里。諸軍散屯し、船は宣池にあり。急あるも相赴くに足らず。−(魏志二十七王[永日]伝)

この「今、宛に屯す」という所を、古田氏は「屯宛」という地名と読み誤られたようで、屯宛が現代のどの地点に当たるか判らないと述べられている。

そうではなく、「宛に駐留している」という意味で、宛は現在の南陽である。南陽と襄陽の間は直線距離で百二十キロ、漢長里で三百余里にまさしく適合する。>>

古田説をめぐって「短里」(53)

2004/ 8/16 22:45
メッセージ: 5294 / 5631
ここまで白崎氏の「一日一夜三百里」を紹介したが、安本氏も同様の意見を持つ。安本氏からの引用で話を分かりやすくしたいと思う。

安本美典「『邪馬壹国』はなかった」(新人物往来社/昭和55年1月/168頁〜)。

<<曹公、精騎、行くこと三百余里
 では、「三国志」の、つぎのような文章は、どうなるのであろうか。
 (a)「曹公、精騎五千を将(ひき)い、これを急追す。一日一夜、行くこと三百余里」(「蜀書」先主(劉備)伝)
 (b)「予州(劉備)を追うを聞くに、軽騎一日一夜三百余里」(「蜀書」諸葛亮伝)
 (a)、(b)の二つとも、同じ状況を記している。そして、同じく、「三百余里」という里数を記している。しかし、(a)は「三国志」の地の文、(b)は、諸葛孔明が、孫権を説く言葉の中にあらわれる。つまり、蜀と呉との交渉のさいのことばの中にあらわれる。
 古田氏の「魏晋朝短里」説の立場にたてば、(a)は短里、(b)は長里で記されていてよさそうであるが、そのようなことはない。(a)も(b)も、同じ状況を、等しく「三百余里」ということばであらわしているのである。>>

古田説をめぐって「短里」(54)

2004/ 8/16 23:11
メッセージ: 5295 / 5631
<<兵法書と「百里」のかねあい

(a)、(b)二つの文は、曹操の軍が、劉備らを追う場面をのべたものである。
曹操の軍に急追された劉備玄徳は、妻子をすて、諸葛亮、張飛、趙雲など、数十騎で、命からがら逃げる。
(b)の文の前後で、呉主孫権に、諸葛孔明は、つぎのようにのべている。
「劉予州の軍は、長坂で敗れました。しかし、今、戦士たちの劉備のもとに還ったもの、劉予州とは別の道をとった関羽のひきいる水軍の精鋭部隊一万人がいます。荊州の主であった劉表の長子劉gも江夏の戦士を合わせています。これもまた一万人をくだりません。曹操の軍は、遠くから来て、疲弊しています。劉予州を追って、軽騎兵は、一昼夜に、三百里あまりも進んだときいています。これは、いわゆる「彊弩の末勢魯縞も穿つことあたわず(つよいいしゆみの末の勢いは、うすいきぬ織物をうがつこともできない)」というものです。だから、兵法でも、「百里にして、利におもむくものは、上将軍をたおす(百里におよぶ遠隔地に軍を進め、勝利をあらそえば、戦いに敗れるのがおちである)」といって忌んでいます。」
だから、今こそ、孫権と劉備とは、同盟して、魏と戦うべきだ、というのである。

「百里にして、利におもむくものは、上将軍をたおす。」と同じ意味の、「百里にして利を争えば、すなわち三将軍を擒(とりこ)にせらる。」ということばは、「三国志」よりまえにできた「孫子」の「軍争篇」にみえる。「孫子」の百里は、もちろん、長里の百里である。

(1)ここは、諸葛孔明が、それ以前の兵法書のことばを引用して説いているのである。「百里にして、利におもむくものは、上将軍をたおす。」の「百里」は、兵法書の長里の百里が、そのままもちいられていると考えるべきである。
(2)兵法書の、長里の「百里」との対比において、「三百余里」が論じられている。したがって、この(b)の文の「三百余里」も、長里とみるべきである。いま、かりに、兵法書の百里は長里、「三百余里」の方は、短里とする。すると、兵法書の百里は、四〇キロ以上、「三百余里」は、古田氏の換算方式でも、二五.五キロにしかならない。兵法書のことばにそぐわなくなる。
(3) (b)の文の「三百余里」が長里なら、それと同じ状況を記した(a)の文の「三百余里」も長里である。>>

古田説をめぐって「短里」(55)

2004/ 8/17 23:16
メッセージ: 5296 / 5631
<<歩いても、六時間程で行ける距離

しかし、古田武彦氏は、この「三百余里」は、「短里」であるという。たしかに、『三国志』の地の文は、すべて「短里』で書かれているとする古田氏の立場にたてば、この「三百余里」も、短里でなければならない。
『邪馬一国への道標』の中で、古田氏はのべられる。

「同じ三国志の蜀志巻二の先主伝に、
○一日一夜、行くこと三百余里。
とあります。曹操が精騎五千をひきいて、劉備の軍を追いかけたとき、このスピードで追いかけた、というところですが(湖北省の「襄陽−当陽間」)、短里ですから、これを長里になおせば、ほぼ五十余里。当時の軍行は『一日三十里』(呂覧、注)とありますから、通常の『軍行相場』の二倍近いスピードで追いかけたことになります。(もし、この『三百余里』が長里で書かれているとしたら、当時の『軍行一日相場』の十倍以上という"空想的なスピード"となります。しかもこのスピードで何日何夜もつづけているのですから、なおさらです。)」

この「一日一夜、行くこと三百余里」などは古田氏の説にとって、およそ都合の悪い記事のように思われる。しかし、古田氏の立場にたてば、ほとんどすべての事実が、自説をうらづけるようにみえるようである。

読者は、この古田氏の説明の、どこが不自然か、おわかりであろうか。

(1)当時の軍行の、「一日三十里」というのは、ふつうの陸軍の行軍速度である。騎兵の速度ではない。すべてが、「里」で説明されているので、わかりにくくなる。メートルになおしてみよう。「一日三十里」は一里を、434メートルとして、「一日約13キロ余り」となる。ふつう、私たちは、一時間に、4キロは歩ける。13キロといえば、三時間とすこしで歩ける距離である。一日の行軍速度を、この程度に、小さめにおさえてあるのはなぜであろうか。『大漢和辞典』の編者、諸橋轍次氏は、『中国古典名言事典』(講談社刊)で、「百里にして利を争えば、すなわち三将軍を擒にせらる」の説明において、のべておられる。「むかしから師行は日に三十里といわれている。」

一日の行程をこのていどに止めているのは、「自軍の余力を最後まで保つためである。」と。「一日一夜行くこと三百余里。」のばあいは、騎兵で、一日一夜追って、しかも、通常の「軍行速度」の二倍たらずのスピードとなるでは(hy注:ママ)、遅すぎる。「三百余里」が短里であるとすると、歩いても、六時間ほどで行ける距離しか、進まなかったことになる。

(2)古田氏は、「このスピードで何日何夜もつづけている」とのべられるが、『三国志』には、「一日一夜』と明記されている。「一日一夜」が、どうして、「何日何夜」になるのであろう。>>

古田説をめぐって「短里」(56)

2004/ 8/18 22:50
メッセージ: 5297 / 5631
<<「精騎」「急追」にどちらがあうか

今一度整理してみる。
三百余里を、一里75メートルの「短里」で換算すれば、20キロ〜28キロほどとなる。一時間に四キロ歩くとすれば、五時間〜七時間で歩ける。急げば、四〜六時間で歩ける。わが国の『養老令』に、「およそ行程馬は日七十里。歩五十里。」とある。(唐の公式令にも、同様の条文がある。)そして、この一里は、約545メートルであった(藤田元春著『尺度総考』)。したがって、『養老令』では、「馬は一日に約38キロメートル、歩けば約28キロメートル。」としていることになる。

馬で、一日一夜急追して、人が一日歩いたのと、ほぼ同じ距離しか進めない?そのようなことがあるのであろうか。これが根本の疑問である。

三百余里を、一里434メートルの「長里」で換算してみよう。すると、130キロ余りとなる。
馬で急追したばあい、その平均時速は7キロ〜8キロていどとみてよい。この馬の速度についてはつぎの節で、ややくわしくのべる。

時速7キロ〜8キロていどで、130キロあまりを行くとすれば、17時間〜19時間かかることとなる。昼夜兼行で追ったという記事にほぼ妥当している。

「三百余里」ということばに、文飾があるにしても、ないにしても、このばあい、「短里説」では、とても、一日一夜急追したという感じにならない。「長里説」をとったときはじめて、精騎が急追したという感じになる。>>

古田説をめぐって「短里」(57)

2004/ 8/18 23:21
メッセージ: 5298 / 5631
「一日一夜三百余里」について、白崎・安本両氏の説を引用している。安本氏の『「邪馬壹国」はなかった』のほうが、この問題を全体としてみるのに都合がよいので、こちらから引く。

さて、<<「精騎」「急追」にどちらがあうか>>・・・に続いて、<<馬の速度>>、<<実際の距離ともあっている>>というに項目を立ててあるが、省略する。省いても論の展開に影響はないだろうと思う。同書173〜176頁の部分である。

これに続いて、いよいよ古田氏の「おかしさ」の核心に入ってゆく・・・。

古田説をめぐって「短里」(58)

2004/ 8/28 22:50
メッセージ: 5371 / 5631
さて、「古田説をめぐって」の「短里について(前半)」の締めくくりに、「一日一夜、行くこと三百里」をとりあげている。安本氏の「『邪馬壹国』はなかった」176頁〜である。

<<古田氏の反論と私の再反論

 さて、古田氏は、『東アジアの古代文化』1978年秋号で、私の議論に、反論を加えておられる。
 「『曹公、精騎五千を将(ひき)い、これを急追す。一日一夜、行くこと三百余里。』(『蜀志』先主伝)
 この「三百余里」は、長里(一里=434メートル。安友さんによる。)か、短里(一里=75メートル。古田)か。これを今、「340里」として計算してみましょう。(『時に年、二十四』<何劭による伝。裴注>で死んだ王弼−−−易や老子の注を書いたので有名な学者−−−について、陳寿は、『年二十余卒す。』<『魏志』二十八>と書いています。この他にも『十余年』が『十三〜四年』をしめす例は、三国志内にいくつか確かめることが出来ます。)
 長里=147.56キロ
 短里=25.5キロ
 安本さんによると、長里計算なら、馬で『時速八キロ』として『十七時間余』だから、まさに『精騎が急追したという感じ』になる。ところが、短里計算の場合なら、とても、というわけです。

 しかし、わたしの目には、安本さんの計算には、大きな錯覚、つまり"物理的な"見のがしがあるように見えるのです。>>

古田説をめぐって「短里」(59)

2004/ 8/28 23:26
メッセージ: 5372 / 5631
<<もし、『一人の騎手が一頭の馬に乗って、名神高速道路を駈ける』といった状況設定なら、安本さんの計算は、あるいは"現実的"かもしれません。それでも十七時間余ぶっつづけに走るのは、大変だとは思いますが。」

まず、ここまでのところで、私の反論をのべる。読者は、さきにのべられた私の考えと、古田氏の議論とを、今一度、読み比べていただきたい。どこに、くいちがいががあるか、おわかりいただけるであろうか。
私が、馬の速さを、「時速八キロ」といったのは、休息時間などをふくめての平均速度をいっているのである。「十七時間余ぶっつづけに走る」速度ではない。

また、それは、ふつうの道を行くときの速度である。古田氏は、それを、「一人の騎手が一頭の馬に乗って名神高速道路を駈け抜ける。」という状況設定におきかえられる。このことばから、読者が想像するイメージは、競馬の馬が走っているようなイメージではなかろうか。競馬のさいの馬なら、時速50〜60キロには、ゆうに出している(日本中央競馬会総合企画室、井上氏のお話)。時速50〜60キロなら、長里の130キロを走るのに、17時間余などかからない。二時間余りで駈けることになる。「時速8キロ」というのは、「一人の騎手が一頭の馬に乗って名神高速道路を駈けぬける。」のにくらべれば、はるかにはるかにゆっくりした速さである。>>

古田説をめぐって「短里」(60)

2004/ 8/29 21:33
メッセージ: 5381 / 5631
<<今一度、古田氏の議論の方法を、整理してみよう。
(1)短里説では、馬で一日一夜(昼も夜も)急追して、人が一日(昼だけ)六時間あまり歩いたのと、ほぼ同じ距離しか進めないことになる。現代の馬なら時速十三キロとみて、二時間で走れる距離しか進めないことになる。私はその不自然さをついているのである。これが根本である。つまり、古田氏の説の大きな弱点をついているはずである。

(2)そこで、古田氏は、まず、議論の流れをかえる。すでにみてきた、両刀論法の論点変更の方法を、ここでも、適用する。つまり、話を私の議論の非をつく方に、転換される。

(3)そのためには、「時速八キロ」という休息もふくみ、速歩と常歩とを含む平均速度を、「一人の騎手が一頭の馬に乗って、名神高速道路を駈ける」といったあたかも休みなしのような状況設定におきかえる(適切でない比喩によるおきかえ)。

(4)そして、そのような状況設定で、十七時間余「ぶっつづけに走る」のは、大変だ、という方向にもってゆく。そこではそんなに速く走れば、三百余里を走るのに、とても十七時間余もかからなくなるということは、文章の表面に出ないようにする。

(5)相手に、「大きな錯覚」「"物理的な"見逃しがある」ということばをあてはめて、議論を総括する。

読者は、ここの文章を、読み流さずに、紙の上で、計算してみていただきたい。簡単にチェックできることだからである。そして、長里説と短里説のどちらに歩がありそうかを、公平に判断してみていただきたい。

古田氏は、みずからが錯覚をおかしていないかどうかを確かめるまえに、まず、みずからが正しいことは「明らか」であるとされた上で、筆をとられるのであろうか。>>

古田説をめぐって「短里」(61)

2004/ 8/29 22:40
メッセージ: 5382 / 5631
<<邪魔部隊のために「距離」がのびるか

さて、古田氏は、さきの反論文につづけられる。
「ところが、今の場所は"戦場"です。しかも『五千人が五千頭に乗っている』のです。輜重類は捨てていても、武器などの"武装"まで捨てているわけではありません。そして肝心なこと。それは−−−逃げる方(劉備)は、『何の手も打たずに、ひたすら逃げる』わけではありません。"橋"があれば当然渡ったあと、切るでしょうし、大木などの障害物もフルに利用しましょう。その上、こういう場合、"後衛"という、『決死の邪魔部隊』をおくことは"戦場逃走"のイロハではないでしょうか。

これは、わたしの単なる"想像"ではありません。『三国志』自体にも明記されています。

【先主(劉備)、江南に奔る。曹公、之を追う。一日一夜、当陽の長坂に及ぶ。先主、曹公の卒に至るを聞き、妻子を棄てて走る。飛(張飛)をして二十騎を将いて後を拒がしむ。飛は水に拠りて橋を断ち、目を瞋らせて矛を横たえて曰く『身は是れ、張益徳なり。乗りて共に死を決す可し。』と。敵、皆敢えて近づく者無し。故に遂に免かるを得。(『蜀志』張飛伝)】

ここは、張飛の奮戦ぶりを叙述するところですから、彼一人に焦点が合わされていますが、このような"後衛による障害戦法"は、当然くりかえししられていたはずです。

ですから、わたしの言いたいのは、次の一点。『戦場における行軍距離の場合、障害のいかんによるから、いずれの行軍数値が妥当か、容易にはきめがたい。』と。事実、『三国志』の中でも、行軍の条件の差異(平塗の行軍』と『深く阻険に入る』と。)で、百倍の労のちがいがある旨を論じているくだりがあります(『魏志十三』)。

要するに、この『三百余里』のケースから、"短里"か"長里"かを判定しようとするのは、危険。−−−いわゆる"不定"の事例なのです。」>>

古田説をめぐって「短里」(62)

2004/ 9/ 3 23:06
メッセージ: 5388 / 5631
「東アジアの古代文化」1978年秋号掲載の古田氏の反論を紹介している。これは安本氏が「数理科学」1978年3月号で取り上げた「一日一夜、行くこと三百余里」に対するものである。安本氏を続ける。

<<『邪馬一国への道標』という別の本では、長里ならば「空想的なスピード」になるとして、短里説を支持する例としてあげられているものが、私への反論文では、「いわゆる"不定"の事例」に早変わりする。古田氏は、いつも、その場その場での反論が成立すればよいとお考えなのであろうか。

それはさておくこととして、古田氏の反論の中身を吟味してみよう。

襄陽→長坂間という、地理も、ほぼわかっている。行軍数値も、明記されている。障害物や邪魔部隊によって、急追に手間どる。すなわち、「時間」がのびるというのなら、わかる。なぜ、「距離」がのびうるのか。もし、障害物や邪魔部隊のために、迂回した距離も、「三百余里」の中に含まれているはずである。

要するに、古田氏の議論においては、同一の事例でさえ、ある時は、短里説を支持する例となり、ある時は、「不定」の事例となるようである。そこでは、どのような事例を明確とし、どのような事例を「不定」とするのか、それ自体が、「明確」に定まっていない。

他の研究者からみれば、古田氏が、短里説の明白な根拠としてあげられている事例のほとんどが、「不定の事例」の中に入るようにみえる。

なお、古田氏は、「事実、『三国志』の中でも、行軍の条件の差異(『平塗の行軍』と『深く阻険に入る』と。)で、百倍の労の違いがある旨論じているくだりがあります(『魏志十三』)」という。

そのとおりである。とすれば、障害物や邪魔部隊によって、きわめて苦労して、人が歩くのよりも遅くしかすすめなかったのなら、そのように記すはずである。すくなくとも、「(精騎、または、軽騎)これを急追す。」とは、書かないはずである。>>

古田説をめぐって「短里」(63)

2004/ 9/ 3 23:34
メッセージ: 5389 / 5631
>「東アジアの古代文化」1978年秋号掲載の古田氏の反論を紹介している。これは安本氏が「数理科学」1978年3月号で取り上げた「一日一夜、行くこと三百余里」に対するものである。安本氏を続ける。

説明不足のようなので、もう少し補足を。

>「東アジアの古代文化」1978年秋号掲載の古田氏の反論

というのが、安本氏の『「邪馬壹国」はなかった』に引用されており、

>安本氏を続ける

は、その古田氏の反論を掲載している安本氏の上掲書からの引用を続ける・・・といういみである。

古田説をめぐって「短里」(64)

2004/ 9/10 23:01
メッセージ: 5391 / 5631
さて、「短里」前半もいよいよ区切りがつくところまで近づいた。『「邪馬壹国」はなかった』という、安本氏の著書から、古田説「短里」についての反論を紹介している。

<<百パーセント主張できることはすくない

「五証の弁証」において、古田氏は対海国(対馬)と一大国(壱岐)との「実距離は明白に判明している。」とされる。このばあいでも、つぎのような意見を、のべようと思えば、のべられる。

(1)対馬の長さは、かなり長い。対馬のどの港から出て、壱岐のどの港にはいったか、明確にしがたい。港をどこにとるかによって、距離は、かなり変わってくる。

(2)潮の流れがあるばあい、一直線には進めない。それは、「野生号」の実験のさいに、如実に示されている。対馬海峡をわたるさい、潮の流れによって、かなりジグザグに進んだはずである。すなわち、「海上航路による距離の場合、潮の流れ、船の構造、大きさのいかんによるから、いずれの航行数値が妥当か、容易にはきめがたい。」といえる。

要するに、この種の理屈は、考えようと思えば、いくらでも考えだせるのである。地理上の二点の位置が明確なばあいでも、二点間の道路の屈曲、歩行の困難さ、歩行した人の条件などをもちだせば、二点間の距離は、伸縮自在となる。

もともと、古代史上のことなど、百パーセント正しいと主張できることは、すくないのである。「明白である」「主観的な解釈の余地はない」とのべるまえに、二つの立場の、どちらが不自然さがすくないか、公平に判断する姿勢が、必要であると思われる。>>

古田説をめぐって「短里」(65)

2004/ 9/11 23:50
メッセージ: 5392 / 5631
つづいて「管仲の文例」に若干の補足をされているが、これは略す。

安本氏の、古田説批判の締めくくりが「古田氏は、議論に勝てばよいのか」である(184頁)。

<<古田氏は、議論に勝てばよいのか

古田氏のなおいくつかの批判に、答えておく。古田氏は述べられる。

「(A)[ユウ婁]、扶余の東北、千余里に在り。・・・古の粛慎氏の国なり。(『魏志』、ユウ婁伝)
(B)倹(毋丘倹)、ユウ婁、玄菟の太守王[斤頁]をして之(高句麗王の宮<王名>)を追わしむ。沃沮を過ぐること千有余里、粛慎氏の南界に至り、石を刻みて功を紀す。(『魏志』十八、毋丘倹伝)

右の(A)は、ユウ婁伝冒頭、扶余との地理的関係を記したものです。これに対し、(B)は毋丘倹の有名な高句麗遠征。これは夷蛮伝でなく、列伝中です。ところが、(A)(B)に共通する「千余里」「千有余里」が、同一距離(「扶余」領内)を指すことは、前後の文脈上、明白です。(この紀功碑は、現物<一部>が発掘されました。)

従って夷蛮伝内の里数値の単位は、本伝(帝記・列伝)内の里数値の単位とは別物、と見なそうとする安本説。それは遺憾ながら、結局成立しがたいようです。)」

ここでもまた、話が、おきかわっている。>>

古田説をめぐって「短里」(66)

2004/ 9/18 23:34
メッセージ: 5393 / 5631
安本美典『「邪馬壹国」はなかった』185頁〜。

<<どのような議論が行われているのか、整理してみる。

(1)私(安本)は、「東夷伝」の中の「韓伝」「倭人伝」についてのみ、短里説の成立することを説いた。これは、さきの『数理科学』誌五八ページに、明記している。

(2)それを、古田氏は、まず、私(安本)が、「烏丸・鮮卑・東夷伝」という「夷蛮伝」について、「短里説」を説いたように、おきかえられる。(『東アジアの古代文化』一九七八年「秋」号一三七頁)しかし、『数理科学』を読んでいない読者には、そのおきかえはわからない。

(3)その上で、夷蛮伝内の里数値の単位と、本伝の単位とが、同じものの例を示す。(私の立場からいえば、同じであるのがあたりまえである。)

(4)そして、夷蛮伝内の里数値の単位と、本伝の単位とが同じであるから、安本説は、成立しがたい、とする。(成立しがたいという何の証明にもなっていない。そもそも「ユーロー伝」短里説など、私は、まったく説いていないのである。)

「里」の話のところに「丈」の話をもってき、「韓伝」「倭人伝」の話のところへ、「ユーロー伝」をもってくる。

鳥の話をしていて、「鳥には翼がある」といったのに対し、魚の話をもちだし、「魚には翼がない。よって、鳥には翼があるという説。それは遺憾ながら成立しがたいようです。」と答えるならば、その非論理性が、うかがわれよう。古田氏は、ただ、議論に勝てばよいと考えておられるのであろうか。ここにあげた例などは、古田氏が、他を批判するのに用いたことばを使えば、「一個の文章の『詐術』に類するもの」といえまいか。>>

古田説をめぐって「短里」(67)

2004/ 9/19 0:01
メッセージ: 5394 / 5631
<<ことの筋道は・・・

以上、古田氏の反論の一つ一つに対して、答えた。

『三国志』においては、「韓伝」「倭人伝」以外の事例で、「魏晋朝短里説」の存在を必要とするものは、一つもない。「それが、真実である。」古田氏は、古田氏のいう「必要にして十分」な根拠なく、その説を展開されているのである。

 以上によって、『三国志』の「里」をめぐる私の反論は終わる。
この章の私の文は、古田氏の文にならって閉じることにしよう。

「ことの筋道は、古田氏の意図に反して、魏晋朝短里説が、『韓伝』『倭人伝』以外には、成立しないことを、いわば、裏書きして下さったようである。」>>

同書187頁〜203頁にわたって、安本氏は、自身のの「短里」説を紹介している。その終わりで、氏は藤田元春氏の『上代日支交通史の研究』(刀江書院、昭和18年刊)の「魏志倭人伝の道里について」の章で、(白鳥庫吉氏説くところの)「誇張説」をとらず、「魏略時代な書紀された多くの倭韓の里」は「古周尺の尺度」とし、藤田氏の考えに賛意を唱えている。

そして結びである。

<<「魏晋朝短里」はなかった

以上のように、私は、古代において、特定の条件のもとで、「短里」が行われていた可能性は、十分あると思う。ただ、『三国志』の範囲では、『魏志』の「韓伝」「倭人伝」をのぞいては、短里の行われた明徴は、ないと考えるべきである。「韓伝」「倭人伝」をのぞく、『三国志』の里数は、ほとんどすべて、標準里によって理解したほうが、妥当と考えられる。

 そのような意味で、私は、古田氏の説かれるような「魏晋朝短里」は、なかったと考える。

 古田氏は、『邪馬壹国の論理』で、「魏晋朝短里」を批判された山尾幸久氏を痛論しておられる。山尾氏の立論には、「方法論上の欠陥」があるとし、それは、「主観的な解釈」にもとづくとし、「史料事実に反する」とし、「奇怪な説明」であるとし、「遁辞」に走られているとし、漢長里にしたがえば、「妄想的な」巨大面積がえられるとし、「正道をとられなかった」とし、ほとんど、完膚なきである。
 
 が、私には、古田氏の「魏晋朝短里」説ほど、根拠のない説が、これほどの自信をもって、説かれたことは、かつてなかったと思うのである。古田氏のことばをかりるならば、それこそ、「妄想的」である。根拠らしい根拠をもたずに、自説をたて、ほとんど罵倒に近いことばで、他説を論難して行く。それは、ほとんど、ことばによる暴力とでもいうべきものである。私は、古田氏の良識を疑うものである。>>