古田説批判

古田説の基本命題

2002/ 6/ 4 21:36
メッセージ: 2788 / 3639

は、「邪馬壹国は福岡にあった」である。

この命題の内、「邪馬壹国」については、既に有効な反論がなされており、成立の可能性は低い。

もう一つの部分「福岡にあった」について、言及してみようと思う。

「古田説シンパ」の方々でも、なぜあの「旅程記事」が「福岡市」に至るのか、とっさに解説出来るひとは少ないのではなかろうか?

「九州説」といえば、かの「千五百里」あるいは「千三百里」がフットライトを浴びる。これらの「里数」は、「末盧国〜伊都国」の約3倍。到底、「福岡」などにはならない。それを「福岡」に持ってくるのは、ひとえに、古田氏の「発明」された「島巡り読法」によるのである。

「対馬」「一支」の二つの島の「二辺」を「巡れば」合計「千四百里」が消費出来る。すなわち、かの「万二千余里」は「不弥国まで」ですべて消費出来るのである。

とすると、問題が生じる。「不弥国」と「邪馬台国」との二国間の距離が「0」になってしまう。それで、この二国は「接している」と解釈する。このあたりのことは「『邪馬台国』はなかった」242頁から述べておられる。

曰く「最終行程0(ゼロ)の論理」。

このあたりを、どうかよく「読み込んで」欲しいものである。「不弥国」と「邪馬台国」は「接している」と言われる。まるで「ベルリンの壁」か「鉄のカーテン」で国境を接しているかのような解釈なのだ。

つづいて、260頁の右上の「図」を見ていただきたい。実に「抽象化された」「図」だが、これで、古田氏はご自分の「案出された」「新解釈」を説明したつもりなのである。

それまでの「国間距離」は、それぞれの国の「中心」からの距離だと解釈されている。それなのに、この「不弥国〜邪馬台国」間だけは、「国境を接している」との解釈なのである。

実に「奇々怪々」の一言である。

「漢書・西域伝」に、74例の「二国間が接している表記」があると示される。だから、「国間距離=0」の先例となる、というのだが、滑稽の極みである。なぜか?

「接」の例をなぜ挙げる?「不弥国〜邪馬台国」が「接して」いるとの表記があるのか?「ない」のだ。つまり、古田氏の挙げた「漢書」の例は、古田氏の「国間距離=0」の考えを補強するものとはならない。

古田氏の説を検証してゆけば、あちこちでこのようなシーンに突き当たる。すなわち、ある検証作業をし、その結果を、まるで自説を「証明」「保証」するものであるかのように唱える・・・。一流の「レトリック」である。実は、全く自説を「証明」したり「保証」したりするものではないのに、読者は、つい「なるほど」と思ってしまう。

古田説の基本命題A

2002/ 6/ 4 21:46
メッセージ: 2789 / 3639
挙げればキリがないが、結論を先に言うと、この一つの「誤った命題」の上に、「逆ピラミッド型」に仮説を築き上げたのが「古田説」なのである。

したがって、この「基本命題」が成立しないと、この仮説体系はすべて崩壊する。

この「基本命題」はすでに成立しないことが、ほぼ衆目の一致するところとなってきている。

したがって、「古田古代史」という巨大な「仮説体系」というものは、既に崩壊したのも同然である。

しかし、「残党」はどこにでもいる。本場中国では、とっくの昔に克服されて消滅したはずの「毛沢東思想」が、「ネパール」でいま国内を混乱に巻き込んでいる。ポルポトによる、かの「カンボジア内戦」も「毛沢東思想」のなせるワザだ。

これからも「古田説残党」や「古田説シンパ」が、蒙昧を脱却することが出来ずに、もがく姿をあちこちで目にすることが出来るのではないかと思う。

「最終行程『0』の論理」

2002/ 6/28 23:10
メッセージ: 2866 / 3639
例の「島巡り読法」のおかげで、めでたく「万二千余里」が「邪馬壹国」までの総距離であるとの「解決」を見た古田氏だったが、今度は「距離の浪費」がたたって、「不弥国」あるいは「奴国」から「邪馬壹国」までの距離が「0」になってしまった!

「邪馬壹国は、北は不弥国に接し、西は奴国にも、ほとんど接している」(「『邪馬台国』はなかった」260−261頁)

とおっしゃる。そして「国間距離『0』の先例」という項を設けて、「接す」の文例を挙げておられる。まことに不思議なご説明ではある。なぜなら、「接す」という文例があるというなら、なぜ「接す」と書かなかったか?裏を返せば「接す」と書いてないと言うことは、「接していない」という「証明」にもなる。つまり、古田氏は、ご自分の説を「比定する」材料を持ち出されてきたのである。

このような例は、古田氏の著作の中で多く見られる「珍現象」であり、さして驚くには当たらない。

古田氏の「接す」という解釈を、とりあえず頭の中に置いて、さて、「魏志倭人伝」の、例の旅程記事をもう一度眺めてみよう。「え?水行十日陸行一月はどこにいったの?」と驚くに違いない。

「道標読法」

2002/ 6/25 23:55
メッセージ: 2860 / 3639
「mutouha」さんが言われるとおり、末盧国から「東南」に出発すると、どこにでもゆけます。いったん東南に出発しさえすればいいわけだから、小城の清水で「鯉料理」を食べようが、佐世保で「ちゃんぽん」を食べようが、はたまた太良町で「竹崎蟹」を食べようが構わないのです。あるいは柳川で「ウナギ」でも食べるか?

「東南」に出発して浜玉町あたりで「東北」に転じ、福岡くんだりまで行くのは、あの「豪華な」遺跡群に引きずられるからです。古田氏は、考古学知見によらずに、博多・邪馬壹国にたどり着く!と述べられていたが、とんでもない「ウソ」!福岡周辺から「考古学的成果」を取り除いたら、何があるのでしょうね?

本日の結論!「道標読法」などというのは、ご都合主義の「読法」でしかない!

「島巡り読法」

2002/ 6/26 22:43
メッセージ: 2861 / 3639
例の「余ってしまう」「千五百里」の解決法として、古田氏が編み出されたのが、この「島巡り読法」というやつ!

この「発明秘話」は、「邪馬一国への道標」187頁から記されてあります。まるで、「大発明」でもしたかのような喜び様・・・。

自分で、里程が博多までで「消費される」様な「読法」を編み出しておいて、「ほら、万二千余里は博多までの距離だ!」と言ってているのだから、これを「循環論法」というのでしょうね。

「『邪馬台国』はなかった」254頁では『陳寿の算法』という項を設けておられるが、あいにく、この「里程記事」を含む倭人伝の大半が、魚豢の「魏略」によったとするのが大方の見方で、「陳寿の・・」と冠するのは見当違いというものではなかろうか?

「原文に忠実に」なんて唱える人は、「倭人伝」の成り立ちについて、もうすこし冷静に考えを巡らせた方がいいのではないかと思いますがね。