『魏志』「倭人伝」とその周辺 索引

榎一雄 『季刊邪馬台国』22回連載論文

15号(1983)〜41号(1990) 途中連載休止の巻あり

回次 号数 起首頁 副題
  概言(編集部による)
1 15 8 『魏志』は、『魏略』を参考にした

  最近、陳寿が、『魏志』「倭人伝」を書くにあたり、魚豢の『魏略』を参考にしなかったという見解が提出されている。榎一雄博士は、明確な根拠をあげて論ずる。陳寿が、『魏略』を参考にした可能性は、十分にある、と。『魏略』は、『魏志』よりも、網羅的であったが、蕪雑な傾向があった。『魏略』が亡び、『魏志』が残ったのは、『魏志』を含む『三国志』が、簡潔であったためとみられる。わが国の東洋史学の第一人者が、中正穏健な見解を示す新連載!
2 16 51 関係資料を博捜する

  わが国の東洋史学の第一人者が、『魏志』「倭人伝」に関係する多数の資料を比較検討し、『魏志』「倭人伝」の本来の文章が、どのようなものであったかを子細にさぐる。その博捜は、余人の追従を許さない。前人未踏の本格的文献批判。榎氏はのべる。
  『魏略』逸文と『魏志』の文章の近似性からみて、『魏略』から『魏志』が出たとするのが、もっとも妥当である、と。
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  西欧文献批判学の近代性と、精密な清朝考証学の伝統との結合がここにある。連載は、第三回をむかえ、いよいよ佳境にいる。『魏志』が、王沈の『魏書』によるとする山尾幸久氏の説は、成立するか。また、韓国の全海宗教授の、『原魏略』『魏略』『魏略異本』という、三種の『魏略』の区分は、妥当なのか。洛陽にいった倭の使は、とのような官庁で、どのような処遇をうけたのか。『魏志』「倭人伝」研究の頂点をなす労作が、完成しつつある。
4 18 15 東洋史上にあらわれてくる倭の姿

  倭人は、東洋史上に、どのように登場してきたか。先秦時代、漢代、後漢代、三国時代の倭の姿を追う。また、漢から魏にいたる間に派遣された使節団の規模は、どのていどであったか。緻密な文献批判が、古代の倭の姿を浮き彫りにしていく。
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  帯方郡治は、どこにあったのか。関野貞博士の主張されるように、黄海道鳳山郡沙里院の付近なのか、白鳥庫吉、池内宏両博土の主張されるように、京城付近なのか。対立する両説の根拠をくわしくあげ、榎一雄博士は、京城付近説をとる。連載第五回をむかえ、諭は、いよいよ、佳境にいる。
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  卑弥呼が使をつかわしたのは、景初二年か、景初三年か、「仮綬」「拝仮」などの用語は、なにを意味するか。「黄幢」とはなにか。建中校尉、梯儁は、卑弥呼に直接あって、金印等を授けたのか。・・・綿密な文献批判による考察!
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  『三国志』は、どのような経緯を経て印刷されるに至ったか。東洋史学の第一人者が、その学識をかたむけて詳論する。
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  いわゆる宋版の盲信できないことは、すでに十二世紀の陸遊(りくゆう)の時代、さらにさかのぼって十一世紀の蘇軾(そしょく)の時代からいわれていた。現存する何種類かの『三国志』のうち、宋版であるから後代の版本よリ信憑性が高いとか、その中の一つが絶対に正しいなどということは、よほど碓かな根拠がなけれぱ断言できない。
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  商務印書館運営の中心人物、張元済は、中国古籍を収集、編集し、百衲本二十四史をはじめ、数多くの古籍を景印復刊した。今日、張元済の業績の恩恵をうけている人はすこぶる多い。しかし、張元済の経歴や人となリについて知る人は、案外すくない。張元済は、一八九二年に進士に及第し、康有為などとともに変法自強を計ろうとした革新派の中心人物の一人であつあった。戊戌(ぼじゅつ)の政変のため官界を追放され、以来五十余年の長きにわたり出版文化事業に力を注ぎ、民智を啓発した。
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  たとえば、古田武彦氏は、その著『「邪馬台国」はなかった』の中でいう(百衲本二十四史所収の『三国志』には、)『紹煕(しょうき)本』とよばれる版本が収録されている。この版本は、十二世紀末の南宋紹煕年間(一一九〇〜九四)に刊行された本で、日本の皇室図書寮(宮内庁書陵部の誤り)の現蔵である。・・・・・・この本こそ現存最良の版本だったのである。」このような発言は、世人を誤るものである。まず、この版本が、南宋紹煕年間に刊行されたとするのは誤りである。また、宮内庁書陵部所蔵のテキストと百柄本所収の『三国志』とは、多くの箇所で異なっている。この「いわゆる紹煕本」は、誤字脱字など劣悪な部分も多い。このテキストが、『三国志」の原本に最も近いなどというのは、実証性の欠如を示すものである。
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  「其の旧語を聞くに、自ら謂う、太伯の後なり、と」という一節は、現在、『魏略』にみえて、『魏志』にみえない。しかし、『魏志』のもともとの文には、この一節も、存在していたであろう。写した人の不注意かその他の理由で、この部分の脱落したテキストが生じ、その系統のテキストが、現行の諸刊本に用いられているのであろう。
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  本文の校訂にあたっては、個々の部分について比較検討すべきであって、ある刊本の他の部分に誤りがあるとか、正確を欠く個所があるとかいう理由で、刊本の全体的性格の良否を定め、それによってこの刊本は信憑しえないなどとすててしまったりすべきではない。
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  黒田幹一氏はいう。陳寿の書いた『魏志』「倭人伝」の中には、「邪馬台」の名はなかった、と。「邪馬台(やまと)」の名は、東晋の安帝の義煕九年(四二二)、大和朝廷が使節を派遣したとき、はじめて中国に知られたものである、と。「邪馬台」の名は、五世紀になって、裴松之(はいしょうし)が書き入れたものである、と。さらに、『魏志』「倭人伝」の成立は、二八五年である、と。このような黒田氏の説は、根拠をもつといえるのであろうか。
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  『魏志』「倭人伝」の伊都国からあとの道程記事は、伊都国と各国との、方位・距雌の関係を述べたものである。豊富な文例をあげて、その根拠をのべ、この、いわゆる放射脱に対する批判に、明確に答える。
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  中国の文献には、一つの場所と他の場所との方位・距離の関係を、いわゆる「四至八到」の形で示している文章は、けっしてすくなくない。また、本文の中に、本文と明確な区別なしで、原著者が注をいれている形の構文もすくなくない。『魏志』「倭人伝」では、このような文章法が用いられている。また、「水行十日、陸行一月」は、「水行すれば十日、陸行すれば一月」と読むことこそが正しい読み方とすべきである。一般に読まれている読み方が、正確な読み方であるとはかぎらない。豊富詳密な文例をあげて、諸批判に答える。
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  「水行十日、陸行一月」「その道里を計るに、当に会稽東冶の東に在るべし」は、どのように理解すべきか。三品彰英氏は、本文を「すなほ」に読むことを主張されながら、いつしか、独断をまじえた解釈を行っておられる。謝銘仁氏は、『邪馬台国、中国人はこう読む』という本をあらわされているが、そこには、あきらかな漢文の誤読がある。……
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  『太平御覧』は、『魏志』と称する記事を引用している。この『太平御覧』は、どのような書物なのか。
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  『太平御覧』は、『修文殿御覧』『藝文類聚』『文思博要』三類書(百科全書)と、そのほかの諸書を材料として編纂された。『修文殿御覧』などは、どのような文献か。『太平御覧』は、『修文殿御覧』、または、『文思博要』から『魏志』「倭人伝」関係の記事を引用したと考えられる。おそらくは、『修文殿御覧』は、『魏志』「倭人伝」の全文を検討して必要適切と考えられる記事を抽出し、『太平御覧』は、『修文殿御覧』を忠実に襲鈔したものであろう。
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  『太平御覧』は、ほぼ通行の刊本『三国志』に基づき、これに変改・省略・増補を加えたものである。『太平御覧』や、北宋以前の古本正史によるかともいわれる『冊府元亀(さっぷげんき)』には、魏使の邪馬台国への行路が、直線行程に記されている。しかし、『册府元亀』は、どの程度『魏志』「倭人伝」の本文を正しく移録したものであろうか。より古いテキストが、より新しいテキストに優るというのは、正しい考えではない。
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  刊本『魏志』「倭人伝」は、伊都国以後は、伊都国からそれぞれの国へ進んだように、つまり、放射状行程を記しているようにみえるのに、『梁書』『北史』『太平御覧』『冊府元亀(さっぷげんき)』などはなぜ、「又」の字をおぎない、明確に、全行程を、順次直線的に進んだように記しているのか。それは、梁の時代には、日本の国都が、大和におかれていたので、この現実の地理に合うように、邪馬台までの行程を、直線コースに読ませるように、改変したのである。
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  『太平御覧』に引用されている文は、『魏志』「倭人伝」の部分ばかりでなく、『蜀志』『呉志』の部分も、そのほとんどは、通行刊本の『三国志』と、それに加えられた裴松之の注とから、抽出したものである。
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  『太平御覧』では、魏使の帯方郡から邪馬台国にいたる行程は、そこに記されている全地名が、ことごとく、その順序に連結しているように記されている。すなわち、順次式に記されている。これは、通行刊本の『魏志』の行程記事を、倭国の首都邪馬台国は、近畿地方の大和にあるとする新知識にもとづき、梁代に書きあらためたものである。