「邪馬台国論争が好きな人集まれ!!」でラリーの続いた「没について」に関して、若干の調べものをした。


(1)『三國志校勘記』に記される「大字宋本」


この件について、張元濟『三國志校勘記』では当該箇所に備註が付いており、そこには次のようにある。
殿本欄内批:門戸如何能没自以作滅是

拙読は措くとして、恐らく「滅」を「是」とする・・・との意味かと思う。 「宋本」と「殿本」との対校では、「宋本」の「没」に対して、「殿本」の「滅」を掲げ、付記して【大宋南北汲汪孔】とある。

「大宋」は「大字宋本」、「南」は「明南監本」、「北」は「明北監本」、「汲」は「汲古閣本」、「汪」は「清汪氏校本」、「孔」は「清孔繼涵校本」のことである。詳細は当該書「整理説明」他をご覧戴きたい。

ここで一つ取り上げたいのは「大字宋本」である。 『三國志校勘記』「三國志校勘記整理説明 附注②」には、この「大字宋本」について以下の通り記されている。則ち、
疑即傅沅叔所藏影寫宋刻大字本。《藏園羣書經眼録》云:「此本行款與蜀大字本《史記》正同,疑即從蜀本出。」又云:「遍考各家藏目,無以九行本著録者。」惟藏園存巻缺巻一至八,而《三國志校勘記》大字本却見於《魏志》巻三,似非借自沅叔。菊老所據當係另一殘宋本
釋読を試みれば、拙訳ながら、
疑(うたがふ)ラクハ即チ、傅沅叔ノ所藏スル影寫宋刻大字本ナリ。《藏園羣書經眼録》ニ云フ:「此ノ本、行款(=行格)ハ蜀大字本《史記》與(と)正ニ同ジニシテ,疑(うたがふ)ラクハ即チ、蜀本從(よ)リ出ヅ」。又云フ:「各家ノ藏目ヲ遍(あまね)ク考フルニ,九行本ヲ以テ著録スル者(は)無シ」。惟(おも)フニ、藏園[羣書經眼録]存巻ノ缺(=欠)巻一ヨリ至ル八ハ,而(しか)シテ《三國志校勘記》ノ大字本ハ却(かヘ)ッテ《魏志》巻三於(に)見ヘ,[傅]沅叔自(よ)リ借スルニ似テ非ナリ。菊老(=張元濟)ノ據(よ)ル所、當(まさ)ニ另(=別)ナル一殘宋本ニ係ルベシ。
というあたりか。

この「另一殘宋本」については、『三國志校勘記』「整理説明」附注④で、次のように書いている。参考のため掲げておく。
另宋本不能確指爲何本

また、参考本として取り上げてある「宋補本」については、附注③で、次のように書いてあるので、併せて掲げておく。
見呉書校勘記末。菊老於《涵芬樓燼餘書録》曾云;「適園張氏有呉志殘本二冊,均補版甚多。」以即適園藏本。


(2)「大字本」とは?


陳國慶『漢籍版本入門』73ページに一項を割いて紹介してある。

(5)文字の形および大小にによって区別する場合 a.大字本 宋代に出版された書物は、大きな字が使われていることが多い。その版框(版の輪廓)は、平均して幅広く大きい。毎行、多くても十七・八字以内である。蔵書家たちは、このような版本を大字本とよんでいる。 例えば、清の江標の『宋元本行格表』に載っているように、 宋槧の蜀大字残本の『後漢書』は、毎行十六字である。宋大字本の『儀礼経伝通解』は、毎行十五字である。元大字本の『毛詩注疏』し、毎行十八字である。 〔宋槧蜀大字残本後漢書、毎行十六字、宋大字本儀礼経伝通解毎行十五字、元大字本毛詩注疏毎行十八字。〕 といった調子である。


(3)榎一雄『改訂増補版 邪馬台国』に記される「蜀大字本」


同書19ページに「蜀大字本」についての記載がある。

その後、仁宗の嘉祐年間(1056-63)以後、宋・斉・梁・陳・魏・北斉・周書の七史の校訂が行われ、徽宗の政和年間(1111-18)に至ってそれが完成したが、金の南侵によって首都開封が陥落し(靖康の変、1126-27)、北宋が滅び、七史の校訂本もほとんど失われた。紹興十四年(1144)、四川の転運使井憲孟が戦火を被らなかった四川の各地からこの校訂本を集め、四川の眉山でこれを刊行させ(蜀大字本)、その版本が明の南京の国子監に入り、清朝の嘉慶年間火災に罹って滅びるまで存続したが、三国志には関係ないから詳しくは説かない。
ということなので、張元濟の見た「大字宋本」が、これであるとするのはあり得ない。


(4)「北宋版」『三國志』


『三國志』最初の刊本である、所謂「咸平本」に続いて、北宋代にはもう一度『三國志』が刊刻されたことが『玉海』巻四三に見える。引用する。
咸平三年十月校三國志晉唐書五年畢〔中略〕(景祐)元年九月癸卯詔選官校正史記前後漢書三國志晉書

「咸平」については、「百衲本」『三國志』に咸平年紀の「牒」を持つことから、刊刻されたことは事実であろうが、「景祐」時は「校正」とあるのみで、実際刊刻されたかどうかは断定出来ない。
しかし、榎博士の記すところに依れば、「景祐監本」たる『史記集解』『漢書』が現存していることから、刊行された公算は大きい。 記録上、この他に『三國志』刊刻の事実は見えないが、もちろん坊刻もあったかも知れない。


(5)尾崎康「宋元刊三国志および晋書について」より


四 蜀刊本 魏書残本(存巻七~九・二五~三〇 計九巻) 〔南宋〕巻 七冊 北京図書館蔵 潘氏宝礼堂宋本書録、中国版刻図録(図版二三〇)に著録されるこの一本を、後者は、成都眉山地区の出版と分類し、「観字体刀法、知為蜀本無疑」と断ずるが、所掲の巻二九首半葉の書影をみると、本文の字様もさることながら、版心の「鬼廿九」の小題が蜀刊本に特有の字体を示している。 その首題は「方伎伝第二十九(隔四格)魏書(二格)国志二十九」、さらに両録によれば、左右双辺(18.1x11.8センチ)、毎半葉一三行、行二五字、注文小字双行、版心 白口、単魚尾、「魏書幾」「魏伝幾」「魏志幾」「鬼伝幾」「鬼幾」「委幾」と題し、刻工名は存するものわずかで、夏芝蘇 ■利 一召 一内 一及 張 李、宋諱欠筆は 玄弦眩朗敬警驚竟境弘殷匡恒貞偵徴譲樹桓 等の字で、構字に至るという。また、韓応陛(庚申三月)と蔣恕斎(咸豊己未秋)の題跋、「汪士鐘/読書」「趙/宋本」、「徐/渭仁」「曾為徐柴珊所蔵」、「応陛審/定宋本」「応陛/審定」「応陛/手記印」「応陛」の蔵印がある。 潘録に所載の韓応陛の題跋などにもいうように、かつて張氏愛日精盧蔵書志に北宋刊本として、蜀志七巻(巻九~一五)、呉志六巻(巻四・五・十二~十五)との計二二巻が存在したと記録されたが、潘録、文禄堂訪書記では蜀、呉書はすでに失せている。避諱欠筆が高宗の構字に及ぶのは、紹興本や衢州本のような南宋初期の刊本に拠ったためかとも思われるが、刊刻は南宋中期(慶元年間前後)の蜀刊本として著名な太平御覧、冊府元亀、新刊国朝二百家名賢文粋に近づくものであろう。ただし、太平御覧にみえる一五〇余の刻工には、これに該当するものはいない。 巻二九首半葉の書影によると、第二行の裴注に一字(与)を脱して空格にし、八行の「病亦行差」の行を脱し、四行では他の多くの本と同じく貌字に皃を用いている。
(※一部、文意が変わらない範囲で使用文字を変更した箇所がある)


(6)「百衲本二十四史」中の「蜀大字本」


『史記 上』巻頭の「目録」に各志の概要が簡略して掲げてあるが、その中で「蜀大字(本)」と明記してあるのは『宋書』のみである。

【蜀大字板在南宋字入浙   武帝名均作諱字】

その『宋書』をみると、表紙に「宋書 上  宋蜀大字本」とあり、扉には次のように記してある。
上海涵芬樓借北平圖書館呉興劉氏嘉業堂蔵宋蜀大字本景印闕巻以涵芬樓蔵元明逓修本補配原書板髙二十三公分寛十九公分

書影でみる限り、『三國志』と『宋書』との間に、文字の大小があるようには見えない。ただ、半葉の行数が、前者10行であるのに対して、後者は9行で、俄に判別出来るのはそれくらいかと思える。


(7)再び、『三國志校勘記』の「大字宋本」


ここまで、手許の資料中に見える「大字宋本」或いは「蜀大字本」について引用してみた。

尾崎博士の「宋元刊三国志および晋書について」にも明記されているように、『三國志』「蜀大字本」は、南宋刊であり、博士の叙述順から見て、時代的には「紹興本」と「紹煕本」の間に刊行されたものであろう。

『三國志校勘記』「整理説明」によれば、参考本として取り上げられた宋本は、これまで述べてきた「大字宋本」と、「宋補本」「另宋本」のみである。

冒頭で、「ここで一つ取り上げたいのは「大字宋本」である・・・と述べたが、今ひとつ、その素性をハッキリと認識出来なかったゆえ、手許の資料で調べものをしたのである。


(8)張元濟の参考本中に「紹興本」は含まれるか?


『三國志校勘記』「整理説明」中の“対校本”として掲げられている諸本中に「紹興本」は見あたらない。そのあたりのことを、「整理説明 二」から引用して更に述べる。

二、衲史《三國志》所用底本為南宋紹煕建本,《魏志》前三巻以紹興本配補(以上簡称「宋」)。

云っていることは簡単である。「百衲本」『三國志』は、「紹煕本」を底本とするが、「魏志」巻一から巻三までは「紹興本」を用いている。これを略称して「宋」とする・・・ということである。

そして、「魏志」の三巻を除いて、他の部分で「宋本」としているのは、「紹煕本」のことであり、対校本参考本諸本との校勘を行っている。つまり、張元濟は、この『三國志校勘記』中で諸本対校の対象として、三巻(底本)を除いて「紹興本」を取り上げていないということになる。

今回、掲示板上で議論となっている「没」「滅」の場合もそうであるが、他に巻末に掲げてある「附漏修・誤修字表」から「倭人傳」部分にかかる事例を下記に引用する。

巻三十 二十六葉 後九行 〈宋本〉次有郡支國  〈殿本〉都 〈備註〉汲作郡○修都誤。

宮内庁書陵部蔵「紹煕本」と、「百衲本」との数少ない異同の一つである「郡支国」「都支国」の件である。

これを張元濟は「〈宋本〉次有郡支國」と記す。 「紹興本」は「都」である。一方、宮内庁書陵部蔵「紹煕本」は「郡」である。張元濟が「〈宋本〉次有郡支國」と書いているということは、ここでの〈宋本〉は紛れもなく宮内庁書陵部蔵「紹煕本」に他ならない。

また、「備註」で「郡」の例として「汲古閣本」を取り上げるも、「殿本」以外の「都」を掲げていない。 もちろん、張元濟が諸本対校にあたって、「紹興本」が念頭になかったなどと言うつもりはない。張元濟自身が記した「百衲本『三國志』跋」にも、紹興本を評して次のように記す。
余ハ舊本正史ノ輯印ヲ欲シ之ヲ謀ル者(トキ)、有ル年、涵芬樓舊藏ノ宋衢州本(紹興本)魏志ハ極メテ精美ナリ。然レドモ蜀呉二志ハ全テ佚(ウシナワ)レ、其ノ他ノ公私弆藏(キョゾウ:隠して仕舞い込んでいるもの)ハ均シク宋刻ニ非ズ。

ただ、『三國志校勘記』において、張元濟がほぼ網羅的に校勘作業を行ったのは、あくまでも底本たる「宋本」と、対校本たる「殿本」、それに参考本たる「諸本」であって、『魏志』三巻を除いて底本として用いられなかった「紹興本」と「紹煕本」との対校が行われたのではないかとする推測の根拠は『三國志校勘記』に基づく限り、見あたらないと言いうるだろう。