晉書陳壽傳


〈原文〉

陳壽字承祚,巴西安漢人也。少好學,師事同郡譙周,仕蜀為觀閣令史。宦人黄皓專弄威權,大臣皆曲意附之,壽獨不為之屈,由是屢被譴黜。遭父喪,有疾,使婢丸藥,客往見之,郷黨以為(百衲本=爲、以下同)貶議。及蜀平,坐是沈滯者累年。司空張華愛其才,以壽雖不遠嫌,原情不至貶廢,舉為孝廉,除佐著作郎,出補陽平令。撰蜀相諸葛亮集,奏之。除著作郎,領本郡中正。撰魏呉蜀三國志,凡六十五篇。時人稱其善敘事,有良史之才。夏侯湛時著魏書,見壽所作,便壞己(百衲本=巳。己の誤)書而罷。張華深善之,謂壽曰:「當以晉書相付耳。」其為時所重如此。或云丁儀、丁廙有盛名於魏,壽謂其子曰:「可覓千斛米見與,當為尊公作佳傳。」丁不與之,竟不為立傳。壽父為馬謖參軍,謖為諸葛亮所誅,壽父亦坐被髠,諸葛瞻又輕壽。壽為亮立傳,謂亮將略非長,無應敵之才,言瞻惟工書,名過其實。議者以此少之。張華將舉壽為中書郎,荀勖忌華而疾壽,遂諷吏部遷壽為長廣太守。辭母老不就。杜預將之鎮,復薦之於帝,宜補黃散。由是授御史治書。以母憂去職。母遺言令葬洛陽,壽遵其志。又坐不以母歸葬,竟被貶議(官位を下げる評議)。初,譙周嘗謂壽曰:「卿必以才學成名,當被損折,亦非不幸也。宜深慎之。」壽至此,再致廢辱,皆如周言。後數歲,起為太子中庶子,未拜。元康七年,病卒,時年六十五。梁州大中正、尚書郎范頵等上表曰:「昔漢武帝詔曰:『司馬相如病甚,可遣悉取其書。』使者得其遺書,言封禪事,天子異焉。臣等案(百衲本=按):故治書侍御史陳壽作三國志,辭多勸誡,明乎得失,有益風化,雖文艷不若相如,而質直過之,願垂採錄。」於是詔下河南尹、洛陽令,就家寫其書。壽又撰古國志五十篇、益都耆舊傳十篇,餘文章傳於世。

※「漢籍電子文献」による


〈読み下し〉

陳壽ハ字ヲ承祚、巴西安漢ノ人也。少(若)クシテ學ヲ好ミ、同郡ノ譙周ニ師事シ、蜀ニ仕ヘテ觀閣令史ト為ス。宦人ノ黄皓ハ專ラ威權ヲ弄ビ、大臣ハ皆意ヲ曲ゲテ之(黄皓)ニ附スモ、(陳)壽ハ獨リ之ニ屈スルヲ為サ不、是ニ由リテ屢(しばし)バ譴黜(ケンチュツ=罪を責めて官位を下げる)被(さ)ル。父ノ喪ニ遭ヒ、疾(病)有リ、婢ヲシテ藥ヲ丸メ使ムルニ、客ノ往キテ之ヲ見、郷黨ハ以テ貶議ヲ為ス。蜀ノ平グニ及ブヤ、是ニ坐シテ沈滯スル者(は)年ヲ累(かさ)ヌ。司空ノ張華ハ其ノ才ヲ愛(惜)シミ、(陳)壽ノ嫌(恨み)遠カラ不ト雖モ、原(もと)ノ情ノ貶廢ニ至ラ不ルヲ以テ、舉ゲテ孝廉(官吏特別任用の一)ト為シ、佐著作郎ニ除シ、出テ陽平ノ令ニ補ス。蜀ノ相諸葛亮集ヲ撰シ、之ヲ奏ス。著作郎ニ除シ、本郡ノ中正(地方で人材の登用を司る官名)ヲ領ス。魏呉蜀三國ノ志、凡(おおよ)ソ六十五篇ヲ撰ス。時ニ人ハ其ノ敘事ノ善ニシテ、良史之才有ルヲ稱ス。夏侯湛ハ時ニ魏書ヲ著スモ、(陳)壽ノ作(な)ス所ヲ見ルヤ、便ハチ己ノ書ヲ壞シ而シテ罷(止)ムト。張華ハ深ク之ヲ善トシテ、(陳)壽ニ謂ヒテ曰ク、「當ニ晉書ヲ以テ相ヒ付ス耳(のみ)」。其ノ時ヲ為シテ重ンゼラル所此クノ如シト。或ヒハ云フ、丁儀・丁廙ハ魏ニ於ヒテ盛名有リ、(陳)壽ハ其ノ子ニ謂ヒテ曰ク、「千斛ノ米ヲ覓(求)メ與ヘ見(ら)ル可キヤ、當ニ尊公(他人の父の敬称)ノ為ニ佳傳ヲ作ルベシ」ト。丁ハ之ヲ與ヘ不、竟(つい)ニ立傳ヲ為サ不。(陳)壽ノ父ハ馬謖ノ參軍(軍事を司る官名)ト為シ、(馬)謖ハ諸葛亮ノ誅スル所ト為シ、(陳)壽ノ父モ亦タ坐シテ髠(テイ=頭を剃る)被(さ)レ、諸葛瞻モ又(陳)壽ヲ輕ンズ。(陳)壽ハ(諸葛)亮ノ為ニ傳ヲ立テ、謂ヒテ(諸葛)亮ノ將略ハ長(たけ)非(ざ)ルニシテ、應敵之才無ク、言フニ(諸葛)瞻ハ惟(た)ダ書ヲ工(たく)ミニシ、名ハ其ノ實ニ過グト。議者ハ此ヲ以テ之ヲ少(誹)ル。張華ハ將ニ(陳)壽ヲ舉ゲテ中書郎ト為スモ、荀勖ハ(張)華ヲ忌ミ而シテ(陳)壽ヲ疾(嫉)ミ、遂ニ吏部(尚書省の六部の官名の一つで、文官の選抜・昇進・懲戒などを司る)ヲ諷(ほのめかす)シテ壽ヲ遷(うつ)シ長廣太守ト為ス。母ノ老ニ辭シテ就カ不。杜預ハ之ヲ將(助)ケテ鎮メ、復タ之ヲ帝於(に)薦メテ、宜シク黃散(天子の側近である黄門侍郎と散騎常侍。二官とも晋以後、尚書を兼ねたのだ併称された)ニ補ス。是ニ由リテ御史治書ヲ授ク。母ノ憂(死)ヲ以テ職ヲ去ル。母ハ遺言シテ洛陽ニ葬令(せし)メ、(陳)壽ハ其ノ志ニ遵(従)フ。又、母ノ歸葬(亡骸を故郷に戻って葬ること)ヲ以テセ不ルニ坐シテ、竟ヒニ貶議被(さ)ル。初メ、譙周ハ嘗テ(陳)壽ニ謂ヒテ曰ク、「卿ハ必ズヤ才學ヲ以テ名ヲ成シ、當ニ損折被(せ)ラルベキハ、亦タ不幸ニ非ザル也。宜シク之ヲ深ク慎ムベシ」ト。(陳)壽ハ此ニ至リ、再ビ廢辱(官職を罷免されること)ヲ致スハ、皆(譙)周ノ言ノ如シ。數歲ノ後、起チテ太子中庶子ト為スモ、未ダ拜セズ。元康七年(AD297)病卒す、時ニ年六十五。梁州ノ大中正・尚書郎ノ范頵等ハ上表シテ曰ク、「昔、漢ノ武帝ハ詔シテ曰ク、『司馬相如ノ病甚シク、遣シテ悉ク其ノ書ヲ取ル可シ』ト。使者ハ其ノ遺書ヲ得、封禪ノ事ヲ言フモ、天子ハ異トス焉。臣等案ズルニ、故(もと)ノ治書侍御史・陳壽ハ三國志ヲ作シ、辭ハ勸誡(善をすすめ悪を戒める)多ク、得失ノ明(あきら)カ乎(か)、風化(徳の力で感化されて良くなる)ニ益有リ、文ノ艷(つやや)カナルハ相如ニ若(し)カ不ルト雖モ、而シテ質直ハ之ニ過ギ、願ワクバ採錄ノ垂レムコトヲ」。是ニ於ヒテ詔ハ河南ノ尹(長官)ニ下リ、洛陽令ハ、家ニ就(赴)キテ其ノ書ヲ寫ス。(陳)壽ハ又「古國志」五十篇、「益都耆舊傳」十篇ヲ撰シ、餘ノ文章ハ世於(に)傳ハル。


〈現代語意訳〉

陳壽は字を承祚といい、巴西郡安漢県の人である。若くして學を好み、同郡の譙周に師事し、蜀に仕えて觀閣令史となった。宦人の黄皓は專ら威權を弄んでおり、大臣は皆、自分の意を曲げて黄皓に付いていたが、陳壽は獨り之に屈しようとしなかったため、しばしば罪を得て官位を下げられた。父の喪中に病気となり、下女に藥を用意させて使ったことを来客に見られ、郷黨の貶議を受けた。蜀が滅ぶと、是に連座して数年を沈滯して過ごした。司空の張華は陳壽の才能を惜しみ、陳壽の嫌疑は遠いことではないと言っても、その原因は貶廢するには至らないということで、孝廉(官吏特別任用の一)に推挙し、佐著作郎に任じられ、すすんで陽平の令の補佐となった。蜀の相である諸葛亮集を撰して、之を奏上した。著作郎に除せられ、本郡の中正(地方で人材の登用を司る官名)を治めた。魏呉蜀三國の志、全六十五篇を撰した。当時の人は陳壽の敘事は善く、良史の才能が有ると称賛した。夏侯湛はその頃魏書を著していたが、陳壽の作を見て、自分の書いたものを破棄し書くのを止めてしまった。張華はこの三國志を深く善しとして、陳壽に言った。「あとは晉書を頼むだけだ」と。当時の評価はこのように重いものであった。また或いはこうも言われた。丁儀・丁廙は魏に於いて盛名が有ったが、陳壽がその子に言うには、「千石の米を私が求め、それが與えられるとしたら、當に父上の為に良い傳を立ててやろう」と。丁がこれを與えなかったので、ついに陳壽はその傳を立てなかった。陳壽の父は馬謖の參軍だったが、馬謖が諸葛亮によって誅されたので、陳壽の父もまた連座して頭を剃る刑を受け、諸葛瞻も又陳壽を輕んじた。陳壽は諸葛亮の傳を立てたが、謂うには諸葛亮は將としての軍略に長(た)けておらず、應敵の才も無いし、また言うには諸葛瞻はただ書に巧みなだけだし、名は其の實体に過ぎていると。論者は此を以て陳壽を誹った。張華は陳壽を中書郎にしようとしたが、荀勖は張華を嫌い、それで陳壽を嫉んだので、遂に吏部を諷(ほのめか)して陳壽を長廣太守に転任させた。しかし母の老齢を理由に辭退して就任しなかった。杜預は陳壽を助けて事態を鎮め、復た陳壽を帝に推薦して、黃散(黄門侍郎と散騎常侍)の補佐とした。そうして御史治書に任じられたのである。陳壽は母の死により辞職した。母が洛陽に葬られるよう遺言したので、陳壽はその遺志に従った。又、母を歸葬にしなかったことで、ついに官位を下げられた。以前、譙周が陳壽に言ったことは、「君は必ずや學を以て名を成すであろうし、それで傷つくこともあるだろうが、それでも不幸ではないだろう。深く慎んだほうがいいだろう」と。陳壽がここに至って、再び官職を罷免されたのは、皆譙周の言った通りである。數年後、太子中庶子に取り上げられたが、拜命しなかった。元康七年(AD297)六十五歳にして病気で亡くなった。梁州の大中正・尚書郎の范頵等は上表して言った。「昔、漢の武帝は詔して、『司馬相如の病は病状が重く、人を遣って悉く其の書を取るべきである』と言いました。使者は其の遺書を得て、封禪の事を言いましたが、天子はこれを異としました。臣等が思いますに、もとの治書侍御史・陳壽は三國志を作(な)し、その辭は善をすすめ悪を戒めるものが多く、得失は明らかであり、風化に有益で、文の艷(つやや)かなることは司馬相如には及ばないとしても、それでも質直はこれより勝っており、願わくば採錄を命じられますように」と。こうして河南の長官に詔勅が下り、洛陽の令は陳壽の家に赴いて其の書を寫したのである。陳壽は又「古國志」五十篇と「益都耆舊傳」十篇を撰したが、これらの文章は世に傳わっている。


陳壽傳書影(百衲本『晉書』列傳第五十二)

尚、原文・拙訳ともにweb上で表示されない文字は書影参照。


※下記サイトは『晉書』陳壽傳及び『華陽國志』陳壽傳について詳細な解説が施してあり、秀逸にして必見。但し、「晋書陳寿伝」と題する現代語意訳はディテールの省かれている部分が若干あり、私のように凡庸な者にとっては僅かながら不満が残る。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/zhenshou.html注:現在リンク切れ
※下記ブログは校点本『三國志』巻末収載の「華陽國志・陳壽傳」の原文と書き下し文を掲示してあり、解説もあるので、これまた大いに参考になると思う。
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/35509420.html注:現在リンク切れ

※2020/3/14、変換不可文字を表示可能にした。

※2021/3/22、『北堂書鈔』卷第一百三に引く王隠『晉書』に河南尹と洛陽令の氏名を、それぞれ「華澹」「張泓」と明記してあることを知り、追記する。
『北堂書鈔』卷第一百三【賚紙寫國志 王隱晉書陳壽卒詔河南尹華澹下洛陽令張泓遺吏賚紙筆就壽門下寫取三國志】
〈拙訳〉紙を賚(たまは)り國志を寫す 王隱晉書曰く 陳壽の卒するや詔は河南尹の華澹に下り 洛陽の令張泓は吏を遺はして紙筆を賚(たまは)り(陳)壽の門下に就(つ)きて三國志を寫取せしむ
華澹:かたん。華歆の孫で華表の3男。西晋の時代に河南尹に任命された。
張泓:『魏書』鐘會伝。晉諸公贊曰:胡烈兒名淵,字世元,遵之孫也。遵,安定人,以才兼文武,累居藩鎮,至車騎將軍。子奮,字玄威,亦歷方任。女為晉武帝貴人,有寵。太康中,以奮為尚書僕射,加鎮軍大將軍、開府。弟廣,字宣祖,少府。次烈,字玄武,秦州刺史。次岐,宇玄嶷,并州刺史。廣子喜,涼州刺史。淵小字鷂鴟,時年十八,既殺會救父,名震遠近。後趙王倫篡位,三王興義,倫使淵與張泓將兵禦齊王,屢破齊軍。會成都戰克,淵乃歸降伏法。
尚、この情報はtwitter上の松浦桀氏の以下ツイートに全面的に依拠している。
https://twitter.com/HAMLABI3594/status/937924146310258689
午後2:58 · 2017年12月5日·Twitter Web Client